御子左家(みこひだりけ)は、藤原北家嫡流藤原道長の六男・権大納言 藤原長家を祖とする藤原氏の系流。御子左流(みこひだりりゅう)ともいう。ただし「御子左」を家名として名乗った者はない。
「御子左」は、醍醐天皇の第十六皇子で左大臣に上った兼明親王の通称「御子左大臣」(みこさだいじん、御子=皇子)に由来する。親王の邸宅・御子左第を伝領した長家が「御子左民部卿」と呼ばれたことから、彼以後その流れをこう呼ぶようになった。
概要
藤原長家は、父・道長の意向で藤原行成や藤原斉信の婿となってその邸宅に住んでいたが、彼女たちの死後に父が勧める藤原実資の婿になる話を断って、典侍源懿子を妻に迎える。懿子の父・源高雅は既に亡くなっているため、自前を邸宅を用意する必要があり、醍醐源氏の縁を辿って兼明親王(源兼明)の三条第を入手した(母・源明子の実父源高明、養父盛明親王、懿子の曾祖父有明親王、そして邸宅の旧所有者兼明親王は全て醍醐天皇の皇子である)。三条第は三条坊門南・大宮東二町に位置し、神泉苑の裏という泉石清冷の立地にあり、親王の通称から御子左第とも称されていたため、長家の子孫は御子左と称された[1]。
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて著名な歌人である藤原俊成・定家父子が現れてから、歌道の家として確立された。以後、御子左家は長く歌壇に君臨した。定家の子為家は蹴鞠の家としても知られ、その流れは御子左流と呼ばれた。鎌倉時代後期に為家の3人の子が家領の相続をめぐって争い、嫡流の御子左家(二条家ともいう・二条派)、庶流の京極家(京極派)、冷泉家(冷泉派)に分かれた。二条家は婚姻関係でも力を築き、二条為世の娘で同時代の代表的歌人でもある二条為子は後醍醐天皇の皇太子時代の正妃となり、昭訓門院春日局は朝廷最大の実力者である関東申次西園寺実衡の正室、二条為定の姉妹である二条藤子は後醍醐の側室となっている。二条家と京極家の家系は南北朝時代までに断絶したが、今日では上冷泉家と下冷泉家及びその庶流の入江家のみが残っている。
系譜
実線は実子、破線は養子。兄弟姉妹の配置は必ずしも出生順に拠らない。丸数字は御子左流(御子左家 → 京極家)の当主代々を示す。
[注釈 4]
脚注
注釈
出典
- ^ 野口孝子「平安貴族社会の邸宅伝領-藤原道長の子女の伝領をめぐって-」初出:『古代文化』第57巻第6号、古代学協会、2005年6月。 所収:野口孝子『平安貴族の空間と時間-藤原道長の妻女と邸宅の伝領-』清文堂出版、2024年6月、97-99頁。ISBN 978-4-7924-1533-4。
- ^ 『尊卑分脈』
- ^ 鈴木真年 編『諸氏本系帳』四「三井系図」
系譜参考
関連項目