平 雅康(たいら の まさやす)は、平安時代中期の貴族・歌人。桓武平氏高棟王流、播磨守・平生昌の子。官位は正五位下・安芸守。
経歴
父・平生昌と同様に大学寮に入って文章生となる。勘解由判官を経て、寛弘8年(1011年)三条天皇の即位後に六位蔵人に任ぜられ、式部丞も兼ねる。のち、後一条朝で右衛門権佐を務め、後冷泉朝の永承4年(1049年)には斎宮寮頭の官職にあったが、志摩国の神宮御厨と争いを起こしている[1]。官位は正五位下・安芸守に至った。
逸話
『十訓抄』には以下の逸話がある[2]。
落度もさることにて、さし過ぎたる振舞ひ、目に立ちて悪しきことなり。源氏物語にあるかとよ、柏木右衛門督の妹、近江君、さし過ぎ、かたはらいたかりけんこそをかしけれ。大江時棟、宇治殿の蔵人所につらなれる日、雅康が左衛門佐にて、文字を来問ひけるぞ、時棟、答へざりけり。かたはらなる範国朝臣いはく、「時棟、課試及第二ヶ度なり。今始めて文字を問ふべきにあらず。きはめたる痴者なり」とぞ言ひける。
人物
勅撰歌人として『千載和歌集』に1首入集している[3]。
- もろともに 春の花をは みしものを 人におくるる 秋そかなしき
官歴
系譜
『尊卑分脈』による。
脚注
参考文献