ルーニー・テューンズ(英語:Looney Tunes)とは、アメリカのワーナー・ブラザースが製作するアニメーションシリーズである。主に1930年から1969年まで製作されたアメリカン・アニメーションの黄金時代のアニメーション短編映画作品を指す。
ルーニー・トゥーンズ(Looney Toons) は誤植。
派生作品に『メリー・メロディーズ』(Merrie Melodies)があるが、便宜上合わせてルーニー・テューンズと呼ばれる事が多い[注 1]。
バッグス・バニーやダフィー・ダック、トゥイーティーなど世界的に有名なキャラクターを多数有する本作は、非常に人気のあるアニメーション短編映画シリーズであった。最も輝かしかった40年代から50年代の作品の中にはアカデミー短編アニメ賞の受賞やアメリカ国立フィルム登録簿へ登録されたものも多数存在する。
ワーナー・ブラザースは自社音楽を促進するためのアニメーション短編映画に興味を持っていた。彼らはレオン・シュレジンガーのスタジオと契約を交わし、ルドルフ・アイジング、ヒュー・ハーマンらによってルーニー・テューンズは製作される事となった。この頃の作品はディズニーの短編アニメーション映画の模倣にすぎなかったが、ボスコ(Bosko)を主人公とした『Sinkin' in the Bathtub』(1930年)を皮切りにルーニー・テューンズは一躍ヒットシリーズへとなり、より音楽を重視した派生作品『メリー・メロディーズ』なども製作されるようになった。
だがその蜜月期間も長くは続かず、1933年にハーマン、アイジングと製作環境や契約でのいざこざが起こり、彼らはワーナー・ブラザースの元を去る事になる。その際ワーナーはボスコなど過去の作品の権利も失う事となった。スターを失ったルーニー・テューンズはその後、ジャック・キングやフリッツ・フリーレングらにより白人少年バディ(Buddy)などを主役とした作品が製作されることになるが、どれも短命に終わった。
ルーニー・テューンズの大きな転換期となったのは、テックス・エイヴリー、フリッツ・フレリング、チャック・ジョーンズなど、若い製作者達がターマイト・テラス(白蟻の館)というスタジオで活躍しだした頃である。とにかく笑えるものを目指した彼らの作品は、徐々にディズニー作品の模倣から脱却していく事になる。
音の面での革新もあった。 作曲家カール・スターリングの加入である。映画・アニメーション音楽に長く携わってきた彼は、作品にマッチした音楽を選び出す事で、笑いの効果、作品の完成度をより高めた。またメル・ブランクの登場も大きい。ポーキー・ピッグの声優の代役として起用された彼は、ラジオ声優として鍛えた様々な声色を使い、バッグス・バニーやダフィー・ダックなど、数多くのルーニー・テューンズキャラクターの声を一人であて、40年代初めにはワーナーと独占契約をするまでにいたった。
ボスコの権利を失って以降、スターの不在が続いたルーニー・テューンズだが、フリッツ・フレリングが監督したメリー・メロディーズ作品『楽しい母親参観』(1935年、原題:I Haven't Got a Hat)にポーキー・ピッグが初登場し、『Gold Diggers of '49』(1936年)を経て、一躍ルーニー・テューンズの花形スターとなり、作品的にも、後にアメリカ国立フィルム登録簿に登録された、『Porky in Wackyland』(1938年、後に『幻のドードーを探せ』(1949年、原題:Dough for the Do-Do)としてカラーリメイク化)などの傑作が生まれた。しかし彼の栄光も長くは続かなかった。新たなスターであるダフィー・ダックが登場したのだ。『Porky's Duck Hunt』(1937年)にて初登場した彼は、今までにない狂ったキャラクターで観客を虜にした。以後、ポーキーが主役を張る事は少なくなったものの、ダフィーのパートナーとしてキャラクターを発展させていく事になる。1940年にはルーニー・テューンズの顔であるバッグス・バニーが『野生のバニー』(原題:A Wild Hare)にて初登場し[注 2]、以後も記憶に残るルーニー・テューンズスターのデビューが続いた。
1934年のメリー・メロディーズ作品『Honeymoon Hotel』以降、メリー・メロディーズとルーニー・テューンズの違いはカラーか白黒かであったが、1943年の『Puss n' Booty』を最後にルーニー・テューンズもカラーで製作されるようになると音楽、タイトル以外の実質的な違いは無くなった。ルーニー・テューンズは主にポーキーとダフィーがメインの短編が非常に多かったが、カラー化後、そうでもなくなった。
40年代にはワーナーのアニメーション短編映画に初のアカデミー賞をもたらす事となるトゥイーティーが登場した。ボブ・クランペットによる作品『A Tale of Two Kitties』(1942年)にて誕生したのだが、真価を発揮したのはフリッツ・フレリングの『Tweetie Pie』(1947年)以降の事である。本作は同年のアカデミー・短編アニメ賞を受賞した他、以後定番となるシルベスター・キャットとの黄金タッグを確立した記念碑的作品となった。以後トゥイーティーはフレリング専用のキャラクターとなった。
この頃になるとチャック・ジョーンズも頭角を現す様になってくる。チャックの初期の作品は子鼠のスニッフルズ(Sniffles)など、ワーナーの作品にしては可愛く、毒の無いものが大半だったが、40年代には笑いのセンスを徐々に洗練していき、50年代には後年にも評価される作品を多数製作した。特に有名なものとしては現在のダフィーのキャラクター性を決定づけた狩人3部作[『標的は誰だ』(1951年、原題:Rabbit Fire)、『ちゃっかりウサギ狩り』(1952年、原題:Rabbit Seasoning)、『何のシーズン?』(1953年、原題:Duck! Rabbit, Duck!)]やアカデミー賞を受賞したペペ・ル・ピュー作品『For Scent-imental Reasons』(1949年)、アメリカ国立フィルム登録簿により永久保存が決まった『オペラ座の狩人』(1957年、原題:What's Opera, Doc?)、第四の壁を巧みに利用した『カモにされたカモ』(1953年、原題:Duck Amuck)他、一定のルールを作り[注 3]カートゥーンの法則を突き詰めていったワイリー・コヨーテ&ロード・ランナーの作品群などである。
60年代に入るとスタッフの引退、死去などによって作品の質が徐々に低下していった[要出典]。1963年にはアニメーションスタジオが閉鎖されたが、フレリングが新たに興した新スタジオDePatie–Freleng Enterprises(ピンク・パンサーの制作スタジオとして知られる)にて制作を続行した。この頃の作品の特徴としては、
などがあげられる。
オリジナルのアニメーション短編映画はメリー・メロディーズ作品『Injun Trouble』(1969年)にて製作が終了したが[注 4]、その後ファミリー向け映画の同時上映作品として再開し、今日まで散発的に製作され続けている。
1950年代に短編映画作品がテレビ放送されるようになると、その人気はより一層強まった。しかし主な視聴者が子供だったのもあり1970年代には暴力シーン、人種差別的表現、喫煙、飲酒などの不適切な描写の多くは編集・カットされた。70年代から90年代初頭には作品の繋ぎ用のアニメーションやテレビ用の新作短編がいくつか作られるにいたった。1990年以降はスピンオフ作品の製作が活発になり『スピルバーグのアニメ タイニー・トゥーン』 、『シルベスター&トゥイーティー・ミステリー』、『ベビー・ルーニー・テューンズ』、『ダック・ドジャース』、『ルーニー・テューンズ・ショー』などが作られている。
日本では1960年代から1980年代に短編映画をまとめたものが『バックス・バニー劇場(1961~1964)』、『マンガ大作戦(TBS版[1])』、『バッグス・バニーとゆかいな仲間たち(静岡第一テレビ版マンガ大作戦の枠内)』などの番組名で放送され、また1989年10月4日から1992年3月25日にかけて『バッグス・バニーのぶっちぎりステージ』という番組名でテレビ東京でも放送され人気を博した(最末期では「ワーナーアニメ劇場」内で『スピルバーグのアニメ タイニー・トゥーン』と原則週替りで放送していた)。現在は声優が一新され、カートゥーン ネットワークの『バッグス・バニー ショー』で放送されている。
テレビ用のスピンオフ作品もカートゥーン ネットワークにて放送されているが、他のカートゥーン ネットワーク放送作品と同様にシーズンの途中で終了し、最終話まで放送されない事が多い。
1996年にNBAとのコラボ作品としてマイケル・ジョーダン主演の『スペース・ジャム』が公開され、評論家から賛否両論な評価を受けながらも[2]、当時、ディズニー以外で製作されたアニメーション映画としては驚異的な興行的成功を収めた[3]。この映画以降、ローラ・バニーがルーニー・テューンズの主要なキャラクターとして度々作品に登場するようになる[注 5]。2003年には『ルーニー・テューンズ:バック・イン・アクション』が公開され、よりオリジナル作品を尊重した作風から、前作より評論家達に肯定的な評価をされたものの[4]、興行的には失敗に終わった[5]。
短編映画のテレビ放送
日本での短編映画のテレビ放送
スピンオフ作品
短編映画の流用作品
新規映画
カメオ出演の映画
現在一部の作品は人種差別の観点からテレビ放送、ソフトの販売が規制されている。主にステレオタイプな人種描写(『Coal Black and de Sebben Dwarfs』、『Jungle Jitters』など)、戦意高揚を意図したプロパガンダ(『Tokio Jokio』、『Bugs Bunny Nips The Nips』など)が対象となっている。一部の作品は著作権が切れており動画サイト、パブリックドメインDVDにて合法的に視聴が可能である。
1999年にカートゥーン ネットワークがルーニー・テューンズの放送権を得た際、スピーディー・ゴンザレスの作品群はメキシコ人に対する人種差別の観点から放送を自粛していた。しかし逆にヒスパニック系の視聴者などから抗議が起こり、2002年に規制は解除された[8]。
規制されなくとも、差別的表現に対する配慮がなされる場合も多い。DVDソフト『Looney Tunes Golden Collection』のVol.3では、ウーピー・ゴールドバーグによる説明が追加された[9]。2006年から2015年まで、日本のカートゥーン ネットワークにおける放送でも冒頭「原作者のオリジナリティを尊重して原版のまま放送します。」との表記が追加されている。
メリー・メロディーズの作品も併せて記載。
合衆国・国立フィルム保存委員会によってアメリカ議会図書館に永久保存する事が決まった作品を記載する。
アニメーション史家ジェリー·ベックによって1994年に書かれたアニメーション短編映画の評価本。1000人の専門家達によって50作品の選定・順位付けがなされた。本作からは最多の17作品が選定された他、上位作品もほぼ独占している。以後、ランク入りした作品を記載する。
特に表記が無いものはワーナー・ホーム・ビデオから発売。『カサブランカ』、『ジキル博士とハイド氏』など、映画作品のソフトに映像特典として収録されている物も多い[注 6]。
著作権の保護期間が終了したものを中心に、主に以下のDVDが発売されている。
ルーニー・テューンズのコミックは、1941年からデル・コミックスがウェスタン・パブリッシングと提携して出版。しかし、デルがウェスタンとの提携を1962年に切ったため、ウェスタンはゴールド・キー・コミックス(別名:ホイットマン・コミックス)と一緒に制作に取り組み、1984年まで継続。1990年からは、出版社がワーナー・ブラザース傘下のDCコミックスに変更となった。
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