ユリア・ハウケ (Julia Hauke , 1825年 11月12日 - 1895年 9月19日 )は、ポーランド の貴族女性で、ドイツのヘッセン 大公子アレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット の妻。バッテンベルク家 の始祖。
生涯
ヤン・マウリツィ・ハウケ 伯爵とその妻ゾフィー・ラフォンテーヌの末娘として、ポーランド立憲王国 のワルシャワ で生まれた。父ハウケはドイツ系ポーランド人 の軍人で、オーストリア ・イタリア ・ドイツの各地でナポレオン 率いるフランス 軍と戦い、半島戦争 でも戦った。彼はのちロシア帝国 軍に身を投じた。彼の能力を評価したロシア皇帝ニコライ1世 により、彼は1829年にポーランド立憲王国の国防副大臣となり、伯爵 となった。翌1830年に11月蜂起 が起こり、ポーランドを治めていたコンスタンチン・パヴロヴィチ 大公は逃げだそうとした。ハウケは大公をかばって路上で銃撃にあい、家族の眼前で絶命した。母ゾフィーは精神的ショックでしばらく後に亡くなったため、遺児たちの多くは皇帝が後見人となって引き取った。
ユリアとアレクサンダー
成長したユリアは、皇太子アレクサンドル(のちのアレクサンドル2世 )の妃マリア の女官となった。皇太子妃の兄として宮廷に出入りのできたアレクサンダーがユリアを見初めたが、皇太子の義理の弟である大公子と一女官の恋愛沙汰を皇帝は認めなかった。2人はサンクトペテルブルク から駆け落ちし、1851年10月28日にブレスラウ (現ヴロツワフ、当時プロイセン 領シュレージエン )で結婚した。
ユリアの爵位は大公家とは釣り合いの取れないものであるため、二人の結婚は貴賤結婚 と見なされた。アレクサンダーの兄ルートヴィヒ3世 大公は1851年にユリアをバッテンベルク伯爵夫人(Gräfin von Battenberg )に叙し、1858年にはバッテンベルク侯爵夫人(Fürstin von Battenberg )に引き上げた。これによりユリアとアレクサンダーの子供たちは侯子侯女を名乗れることとなったが、依然ヘッセン=ダルムシュタット家の庶流に留められ、大公位の継承権を与えられることはなかった。
1875年5月、ユリアはカトリック からルター派 に改宗した。ユリアは、ハイリゲンベルク(ヘッセン 南部ユーゲンハイム近郊)で亡くなった。
子供
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