この6人兄弟のうちの長男がヤン・マウリツィ・ハウケである。ハウケは職業軍人で、1790年にポーランド軍に入隊し、1794年にはコシチュシュコ蜂起に参加している。その後はナポレオン・ボナパルト麾下の軍隊やワルシャワ公国の軍隊に入隊してオーストリア、イタリア、ドイツ、スペインなどで戦い、1815年に成立したポーランド会議王国の軍人となった。そして1826年には2人の弟ユゼフ、ルドヴィク・アウグスト(Ludwik August Hauke)とともにポーランドの世襲貴族に列せられた。ハウケの姓にドイツ貴族の称号である「von」が付かないのは、このためである。ロシア皇帝ニコライ1世は1829年、ハウケをポーランド軍事副大臣に任じるとともに、伯爵位を与えた。末弟でロシア将軍のユゼフにも、後に伯爵位が与えられている。
ハウケには妻ゾフィー・ラフォンテーヌとの間に11人の子供がおり、そのうち8人(5男3女)が幼児期を生き延びた。長男のマウリツィ・ナポレオン(Maurycy Napoleon Hauke, 1808年 - 1852年)と次男のヴワディスワフ(1812年 - 1841年)はそれぞれ11月蜂起や1848年革命で反乱者として戦った後、アメリカ合衆国に亡命した。三男のユゼフ(1814年 - 1831年)は11月蜂起でロシア側で戦って死んだが、四男のヴィンツェンティ(1817年 - 1863年)や五男のコンスタンティ(1819年 - 1840年)もロシア軍の士官だった。娘のうち、長女のゾフィア(1816年 - 1863年)は従兄のアレクサンデル・ヤン・ハウケ伯爵(Aleksander Jan Hauke)と結婚し、次女のエミリア(1821年 - 1890年)もバルト・ドイツ人貴族のカール・シュタッケルベルク男爵と結婚した。
ハウケの末娘・三女で、父親の死に立ち会った1人であるユリア(1825年 - 1895年)は、1851年にドイツのヘッセン=ダルムシュタット大公子アレクサンダーと結婚した。ユリアは義兄のヘッセン大公ルートヴィヒ3世により1851年に「バッテンベルク伯爵夫人(Gräfin von Battenberg)」とされ、1858年には「バッテンベルク侯女(Prinzessin von Battenberg)」の称号および「諸侯家の殿下」(Durchlaucht)の敬称を与えられた。彼女はバッテンベルク家(マウントバッテン家)の始祖となった。
参考文献
Eckhart G. Franz: Das Haus Hessen: Eine europäische Familie. Kohlhammer, Stuttgart 2005 (S. 164–170), ISBN 3-17-018919-0
Polski Słownik Biograficzny. (Polnisches Biographisches Wörterbuch), Bd. IX, Wrocław 1960–1961
Руccкиӣ биoгpaфичecкиӣ cлoвaрь. Sankt Petersburg 1896–1918
Eugeniusz Szulc: Cmentarz ewangelicko-augsburski w Warszawie. Warschau 1989