マヌエル・ガルシアは1768年にフアン・シクスト・ガルシア・デ・ラ・プラダ(Juan Sixto García de la Prada)とローサ・ゴマラ(Rosa Gomarra)の息子としてマドリードに生まれた。彼の父は裕福な地主、商人で、サン・カルロス国立銀行(スペイン語版)創設者の1人であり[2][3]、1775年に商人であるにもかかわらず貴族として迎えられた。マヌエル・ガルシアは極めて若い頃から同銀行の理事会メンバーに加わり、1795年に父と同じくカルロス3世勲章(英語版)を授与された。1800年以降、彼は海軍と王室に役職を持ち、フランス軍に占領された1808年には国立銀行を代表してバイヨンヌ会議(スペイン語版)に出席し[3]、バイヨンヌ憲法(英語版)に署名した[2]。新国王ホセ1世の官僚組織に加わり、半島戦争中の1811年9月から1812年8月にかけてマドリード市長の地位に就いた[2][3]。在職中の1812年5月には王立サン・フェルナンド美術アカデミーの会員となっている[4]。しかし同年7月22日、サラマンカの戦いでフランス軍が初代ウェリントン伯爵アーサー・ウェルズリー率いるイギリス=ポルトガル連合軍に敗北すると市議会は解散、バレンシアからフランス南西部の都市ポーに亡命し、そこからパリに移った。莫大な財産による社会支援と保証は早期の帰国を可能とし、戦争後の1816年にレジオンドヌール勲章のシュヴァリエに叙され、1818年にスペインに帰国した[3]。翌年には女優のマリア・ガルシア(María García)と2度目の結婚をしたが、1826年に死別[2]。1839年11月23日に死去[4]。
コレクション
マヌエル・ガルシアはいくつかの優れた絵画を所有していたが[5]、特に有名なのはフランシスコ・デ・ゴヤの5点の作品『狂人の家』(La casa de locos)、『苦行者の行列』(Procesión de flagelantes)、『異端審問の法廷』 (Tribunal de la Inquisición)、『村の闘牛』(Corrida de toros en un pueblo)、『鰯の埋葬』(El entierro de la sardina)である。肖像画ではマリアーノ・サルバドール・マエラが描いた彼の父の肖像画『フアン・シクスト・ガルシア・デ・ラ・プラダの肖像』(Retrato de Juan Sixto García de la Prada)、またゴヤによるマヌエル・ガルシアを描いた1805年頃の肖像画と、ホセ・デ・マドラーソによる1827年の肖像画が知られている。これらの作品は王立サン・フェルナンド美術アカデミーに遺贈された[5][2][4][6][7]。これらのうちゴヤによる肖像画のみ、紆余曲折を経てアメリカ合衆国アイオワ州のデモイン・アート・センター(英語版)に所蔵されている[1]。