『ボリス・ゴドゥノフ』 (ロシア語: Борис Годунов 発音)は、モデスト・ムソルグスキーが作曲したプロローグと4幕から構成されるオペラである。「ボリス・ゴドノフ」や「ボリス・ゴドゥノーフ」とも称される。今日ムソルグスキーの作曲したオペラの中でもっとも有名な作品である。
ロシアの実在したツァーリのボリス・ゴドゥノフ(1551年 - 1605年)の生涯をオペラ化したものである。
1868年、ムソルグスキーは当時燃えるような創作意欲と作曲に没頭できない官吏の生活との矛盾に苦しんでいた。その影響があるためか、『ボリス・ゴドゥノフ』を作曲する以前の1856年に『アイルランドのハン』、1863年から1866年にかけて、フローベールの原作による『サランボー』、ゴーゴリの原作による『結婚(英語版)』などのオペラを作曲したが、いずれも未完成に終わっている[1]。
同年の春、ムソルグスキーはリュドミーラ・シェスタコーワ夫人の音楽家のサロンにしばしば顔を出し、当時夫人のサロンに出入りしていた歴史家のウラディーミル・ニコルスキーと会い、ムソルグスキーがオペラの題材を探していることを話すと、ニコルスキーは早速「プーシキン物語」の中にある劇詩「ボリス・ゴドゥノフ」を作曲することをすすめた。劇詩を読んだムソルグスキーは物語の面白さに心を惹かれ、「ボリス・ゴドゥノフ」のオペラ化にすることを決意した。
1868年9月、ムソルグスキーは官吏の勤務先を林野局に転じられたが、おりよく幸運にも親友のオポチーニンが家に迎えてくれたため、その好意に甘んじて10月から本格的に作曲に着手した。勤務先が近くにあり、静寂な郊外の周辺であったため 作曲は滞ることなく1868年10月から1869年の初夏までに声楽の総譜が完成され、同年の12月15日にはオーケストラの総譜も完成した。(この時点で初稿を完成させる)
ムソルグスキーはオペラの作曲に着手して以来、しばしば友人たちの音楽サロンで完成した部分を聴かせていたという。オーケストラの部分は親友の顧問官ブルゴールドの令嬢ナデージダが受け持ち、ムソルグスキーは自分自身が歌手となって全てのパートを歌ったと伝えられる。
完成されたオペラ第1作『ボリス・ゴドゥノフ』は、その上演を求めて1870年の夏に帝室歌劇場管理部に総譜を提出したが、帝室歌劇所側から上演を拒否されてしまう。これに対しムソルグスキーは憤慨したが、ウラディーミル・スターソフや友人たち(その中にはリムスキー=コルサコフもいた)からの意見を聞いたうえで考え直し、すぐさまオペラの改訂に着手した。改訂版は1872年の6月23日に完成された。
全曲が上演されるまで時間を要し、その間何回か抜粋が上演された(日付はユリウス暦)。
1874年2月27日にサンクトペテルブルク、マリインスキー劇場にてナープラヴニーク指揮、ゲンナジー・コンドラチエフ演出、マトヴェイ・シシコフとミハイル・ボチャロフの美術により初演。ただし「僧坊の場」を省略し「革命の場」を第5幕とする形であった。
モスクワ初演は、ムソルグスキー死後の1888年12月16日、ボリショイ劇場にてイッポリト・アルタニ指揮で行われた。
1869年に完成した原典版は、1871年2月17日になって歌劇場側から正式に不採用として通知がなされた[5]。原典版は、標準的なオペラの形態から見れば、極端に女声役が少ないなど、大きく逸脱するものであったため、上演を拒否されたと見られる[6]。上演拒否の報の後、ムソルグスキーはスターソフらとも話し合い、オペラの改定作業に取り組んだ。まず、重要な女声役であるマリーナ・ムニーシェクが登場し、バレエ場面もあるポーランドを舞台とする2場が作られ[7]、更にプーシキンの原作ではほとんど触れられていない民衆の蜂起を描いた「クロームィ近くの森の中の空き地」の場(いわゆる「革命の場」)が追加されている。入れ替わりに原典版にあった聖ワシリイ大聖堂の場は削られ、同場面にあった子供たちと白痴のやり取り、白痴の歌「流れよ、流れよ、苦い涙!」は「革命の場」に移されている。そして、原典版がボリスの死で終わるのに対して、改訂版は「革命の場」で締め括られる事になり、オペラの印象を大きく変えることとなった[8]。原典版ではボリス個人の悲劇という印象であったものが、偽ドミトリーや民衆が前面に押し出され、白痴の歌で終わることにより、個人よりもロシアという国の悲劇が強調されるようになっている。改訂版の9つの場面を分析すると、クレムリンの場を扇の要として、誰に光を当てるかにより、オペラ全体がシンメトリックな構造となっていることがわかる[9]。これはムソルグスキーの次回作『ホヴァーンシチナ』にも継承されている[10]。
この他、原典版が4つの部で構成されていたのに対し、改訂版はプロローグと4幕から構成されるようになっている。また、改訂版で残された部分に対しても、下記のように追加や削除がなされている。
上記は両方の版を録音しているゲルギエフ盤を参考とした。
その他(合唱、黙役)
『ボリス・ゴドゥノフ』を理解するには、ロシア史において「動乱時代」と呼ばれる1598年のリューリク朝断絶から1613年のロマノフ朝成立までの経緯を基礎知識としておくことが必要である。
ムソルグスキーの同僚であったリムスキー=コルサコフは、『ボリス・ゴドゥノフ』の作品価値を認めながらも、自らの音楽性に合わない部分に対しては批判的であった。特にオーケストレーションについては、早くから攻撃しており、1872年に全曲上演に先立ちポロネーズが抜粋上演された際、ムソルグスキーがフランスバロック期のジャン=バティスト・リュリの管弦楽法に倣って弦楽器ばかりで編曲を行ったこと[21]を意味のない馬鹿げたアイデアであるとキュイとともに批判している。ムソルグスキーはこの批判に応え、全曲上演の前に再度ポロネーズの管弦楽編曲を行っているのだが、その版もリムスキー=コルサコフには物足りないものであった[22]。
1889年、リムスキー=コルサコフは、サンクトペテルブルクでカール・ムックの指揮する『ニーベルングの指環』に接し、ワーグナーの管弦楽法に大いに感銘を受けた。そして、ワーグナー流管弦楽法を研究し身につけると、その成果を『ボリス・ゴドゥノフ』のポロネーズの演奏会用編曲という形で発表した。続いて1892年に戴冠式の場の編曲を行い、以後、断続的に作業を続け、1896年に全曲の編曲作業を終えている[23]。このリムスキー=コルサコフによる改訂版は、同年ベッセリ社から出版されサンクトペテルブルク音楽院で上演された。楽譜出版に際してリムスキー=コルサコフは序文を寄せており、その中で彼は、『ボリス・ゴドゥノフ』は、現実を無視した演奏の困難さ、支離滅裂なフレーズ、ぎこちないメロディ、耳障りな和声と転調、間違った対位法、稚拙なオーケストレーションなどのため、上演されなくなったと述べ、「ムソルグスキーの存命中、オペラがあまりのも長いという理由で、いくつもの重要な場面が省略されて上演された。だが今回の編曲で省略された部分を多少復活させた」としている。序文で非難したように、リムスキー=コルサコフの改訂は管弦楽法の改訂のみに止まらず、リムスキー=コルサコフがおかしいと感じたフレーズ、メロディ、和声、転調といった部分にまで及んでいる。更に序文の言葉とは裏腹に、リムスキー=コルサコフ自身が重要ではないと判断した6つの箇所を削除し[24]、演奏効果をあげるため、随所に自身による新たな楽想を付け加えている。そして、最終幕の場面の順序を入れ替え、「革命の場」ではなく「ボリスの死」で終えるように改変している[25]。
1906年、リムスキー=コルサコフは2度目の編曲に取り掛かる。この編曲では、前回の編曲で削除された6つの部分のオーケストレーションがなされるとともに、リムスキー=コルサコフがまだ万全ではないと思っていた戴冠式の場に手が加えられ、ボリスのモノローグの前後に新たに作曲した楽節が挿入されている。この改訂版は1908年にベッセリ社から出版された。
リムスキー=コルサコフによる改訂版(1908年版)は、1908年にディアギレフによりパリ・オペラ座で上演された。ボリスを演じたシャリアピンの好演[26]もあり、この上演は非常な成功を収め、『ボリス・ゴドゥノフ』に世界的な知名度を与えた。同時にオペラの上演に際しては、ムソルグスキーのオリジナルではなく、リムスキー=コルサコフ版を通常は用いるという、その後世界的に長く続いた習慣も生まれることになった。
リムスキー=コルサコフの弟子であるイッポリトフ=イワノフは、1927年になって、師が手を付けなかった場面である聖ワシリイ大聖堂の場に対してリムスキー=コルサコフ風の管弦楽編曲を行った。この版は同年1月18日にボリショイ劇場においてリムスキー=コルサコフ版の新演出として上演された。以降、ボリショイ劇場においては、イッポリトフ=イワノフ版の聖ワシリイ大聖堂の場をリムスキー=コルサコフ版に組み入れて上演(第4幕を3場から構成し、聖ワシリイ大聖堂の場 - 革命の場 - ボリスの死 の順で上演)するのが通例となっている。ただし、単に1場面追加するのではなく、下記のような削除を伴って上演される。
なお、オペラ全曲録音(セッション録音)の際は、第3幕も削除せずに録音されるのが普通である。
リムスキー=コルサコフの改訂版は、ディアギレフのパリ上演の後、ロシアだけでなく西欧諸国で上演され成功を収めていったが、一方で、ムソルグスキーのオリジナルに戻るべきだ、という声も上がった[27]。原点回帰に賛同する人々は、公開講座を開くとともに、楽譜の復刻出版に尽力した。1874年出版ヴォーカルスコアの復刻がなされるとともに、未刊行であった聖ワシリイ大聖堂の場も初めて出版された。ソヴィエト連邦の音楽学者であるパーヴェル・ラムは、ムソルグスキーの残した2つの版を調査し、1928年にムソルグスキーが削除した全ての部分を復活させた楽譜を出版した。
1939年にボリショイ劇場は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチに対して、『ボリス・ゴドゥノフ』の再オーケストレーションを依頼した。ショスタコーヴィチは、ラムにより出版されたピアノ譜を用いて、彼が感じたムソルグスキーのオーケストレーションの不備を正すことに努め、翌1940年に作業は完了した。しかし、大祖国戦争勃発のため上演はならず、1959年になってようやくキーロフ歌劇場で上演された。ショスタコーヴィチ版はその後も本来の依頼元であるボリショイ劇場では省みられることなく、ソ連時代のキーロフ歌劇場で使われるにとどまった。
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