ナショナル交響楽団(英語: The National Symphony Orchestra)は、ワシントンD.C.のオーケストラ。ケネディ・センターを拠点としている。日本では、ワシントン・ナショナル交響楽団と呼ばれることが多い。「ナショナル」の名は冠しているものの、国立のオーケストラではない[1]。ただし、歴代大統領の就任式典での演奏を担当してきたため「プレジデント・オーケストラ」と称されている[1]。
沿革
ハンス・キンドラー時代
1930年にワシントンで設立された79名のオーケストラを母体として、1931年に設立[2]。はじめの年は24回のコンサートを行った[2]。
初代音楽監督は、フィラデルフィア管弦楽団でチェロ奏者を務めていたハンス・キンドラーであり、1948年まで務めた[2]。キンドラー退任時には、90人まで団員が増え、年間公演数も97回となった[3]。
ハワード・ミッチェル時代
次いで、キンドラー時代に首席チェロ奏者、および副指揮者を務めたハワード・ミッチェルが音楽監督となり、1970年まで務めた[2][3]。キンドラー時代には、1959年に国務省の後援を得て中米・南米19か国へのツアーを行ったり、1967年に3週間のヨーロッパツアーを行ったりした[2]。また、市内公園での野外コンサートや、郊外での夏のフェスティバルコンサートも行うようになった[3]。これらの功績により、ミッチェルは退任後に名誉指揮者の称号を贈られた[3]。
アンタル・ドラティ時代
1970年には「オーケストラ・ビルダー」と称されたアンタル・ドラティが音楽監督に就任し[3]、その翌年に本拠地たるジョン・F・ケネディ・センターが完成した[2]。ドラティはミッチェル時代に衰えていたオーケストラの力量を引き上げたと評されている[1]。
ドラティ在任中は、最も意欲的な録音活動が行われた時期と言われている。ルイージ・ダラピッコラなどの現代音楽も演奏・録音され、レパートリーの拡大が図られた[2][3]。また、1976年には、アメリカ合衆国建国200周年にちなみ、12の作品が委嘱初演された[3]。
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ時代
1978年には、エドワード・ケネディ上院議員の助力でソ連から亡命したムスティスラフ・ロストロポーヴィチが、音楽監督に就任した[2][4]。ロストロポーヴィチ時代は「最も輝かしい時代を迎えた」「ビッグ・パワーを植え付けた」と評されている[2][1]。
ロストロポーヴィチは、チェリストとして得た人脈を活かし、数多くの一流ソリストを招聘した[5]。これによりオーケストラのレベルアップを図るとともに、ファン層を拡大したため、楽団員と理事会双方から厚遇された[5]。楽団員やスタッフは、ロストロポーヴィチのことを「スラヴァ」の愛称で呼んだ[5]。
ロストロポーヴィチ以後
その後、レナード・スラットキン、イヴァン・フィッシャー、クリストフ・エッシェンバッハと続き、2017年-2018年シーズンよりジャナンドレア・ノセダが音楽監督を務める。
顕彰歴
ジョン・コリリアーノ作品のCD『怒りと回想』(Of Rage and Remembrance )によってグラミー賞を受賞した。また、ドラティ時代初期の録音9点のうち、6つが国際的なレコード賞を獲得している[3]。
歴代首席音楽監督等
評価
音楽評論家のクリスチャン・メルランは、アメリカのオーケストラの「ビッグ・ファイブ」としてニューヨーク・フィルハーモニック、フィラデルフィア管弦楽団、クリーヴランド管弦楽団、シカゴ交響楽団、ボストン交響楽団をあげ、それに肉薄するオーケストラとしてロサンジェルス・フィルハーモニック、サンフランシスコ交響楽団、ピッツバーグ交響楽団を挙げているが、それの「さらに一段下がった」オーケストラとしてセントルイス交響楽団、ヒューストン交響楽団、ボルティモア交響楽団、デトロイト交響楽団、シンシナティ交響楽団、ミネソタ管弦楽団、アトランタ交響楽団、ダラス交響楽団、シアトル交響楽団、そしてワシントン・ナショナル交響楽団を挙げている[6]。
参考文献
脚注
- ^ a b c d 出谷啓「その他の世界のオーケストラ (1)」『世界のオーケストラ辞典』芸術現代社、1984年、ISBN 4-87463-055-3、171頁。
- ^ a b c d e f g h i 音楽之友社編『名演奏家事典(下)』音楽之友社、1982年、1188頁。
- ^ a b c d e f g h 上地 (1987)、41頁。
- ^ 上地 (1987)、40頁。
- ^ a b c 上地 (1987)、42頁。
- ^ メルラン (2020)、78-79頁。
関連項目
外部リンク