ボボ・ブラジル (Bobo Brazil 、本名:Houston Harris 、1924年 7月10日 - 1998年 1月20日 )は、アメリカ合衆国 のプロレスラー 。アーカンソー州 リトルロック 出身のアフリカ系アメリカ人 [ 1] 。
20世紀を代表する黒人プロレスラーの1人。アメリカではNWA の主要テリトリーをはじめ、WWWF 、WWA 、NWF 、インディアナ版WWA などの各団体で、絶対的なベビーフェイス として活躍した[ 3] 。
人種差別 が現在以上に激しかった時代において、貧しい階層の多かった黒人ファンの動員に貢献し、黒人レスラーの地位向上を果たした功績から、アメリカでは「プロレス界のジャッキー・ロビンソン (Jackie Robinson of sports-entertainment )」とも評された[ 4] [ 5] 。
日本では「黒い魔神 」と呼ばれて人気を博し、日本プロレス と全日本プロレス に通算15回来日。力道山 やジャイアント馬場 と名勝負を展開した[ 6] 。
来歴
少年期に父親を亡くし、家計を支えるための職を求めて、出生地である南部 のリトルロック を離れて北部 の工業都市を転々とする[ 2] 。1942年 頃、生涯の居住地となるミシガン州 ベントンハーバー に移住し、鉄工所で働きながらYMCA のジムで体を鍛えた[ 2] 。そこで邂逅したプロレスラーの "ジャンピング" ジョー・サボルディ (英語版 ) に素質を見込まれ、サボルディのトレーニングのもと、1948年 3月29日、ミシガン地区のインディー団体でデビュー[ 2] 。
当初は本名のヒューストン・ハリス (Houston Harris )として試合に出場していたが、1949年 よりサボルディの発案で[ 7] 、ブー・ブー・ブラジル (Boo Boo Brazil )[ 4] と改名。南米 からやってきた巨人(The South American Giant )というギミック でメジャーテリトリーに進出するが、1950年 2月にシカゴ にブッキングされた際、プログラムに "Bo Bo Brazil" と印字され、その誤表記が最終的にボボ・ブラジル (Bobo Brazil )のリングネーム として定着した[ 4] [ 7] 。
1950年代
1950年代 初頭はモントリオール やトロント などカナダ の主要テリトリーを転戦して、ウラデック・コワルスキー 、フレッド・アトキンス 、ドン・レオ・ジョナサン 、スカイ・ハイ・リー などと対戦。トロント地区のレジェンドとなるホイッパー・ビリー・ワトソン のパートナーにも起用された[ 8] 。
1953年 より太平洋岸 に進出。ロサンゼルス 地区(後のWWA )では1954年 にウイルバー・スナイダー やサンダー・ザボー とタッグを組み、インターナショナルTVタッグ王座を再三獲得[ 9] 。1955年 4月13日にはオリンピック・オーディトリアム において、ルー・テーズ のNWA世界ヘビー級王座 に挑戦した[ 7] 。サンフランシスコ 地区ではエンリケ・トーレス をパートナーに、1956年 7月13日にシャープ兄弟 からNWA世界タッグ王座 を奪取している[ 10] 。
1957年 8月には日本プロレス に初来日(日本での活躍は後述 )。その後も黒人レスラーのメインイベンターとして各地を転戦、1959年 にはアップステート・ニューヨーク やオハイオ 、トロントやナイアガラフォールズ など、アメリカとカナダの五大湖 エリアを股に掛けてフリッツ・フォン・エリック と抗争を繰り広げた[ 11] 。
1960年代
1961年 1月28日、後の主戦場となる地元ミシガン州のデトロイト にて、ディック・ザ・ブルーザー を下してアメリカン・レスリング・アライアンス認定のUSヘビー級王座を獲得(同王座は1965年 よりNWA の認定タイトルとなる)[ 12] 。
1962年 8月18日、ニュージャージー州 ニューアーク にて、バディ・ロジャース の保持していたNWA世界ヘビー級王座に挑戦。試合には勝利したが、ロジャース側がブラジルの反則による負傷を訴えてタイトルの移動は無効となり、「黒人初のNWA世界ヘビー級王者」は実現しなかった[ 13] 。しかし、ノースイースト地区 の一部ではロジャースの訴えを退けてブラジルの戴冠を認め、後にブラジルは「USヘビー級王者」としてNWAより認定され[ 13] 、1963年 より同地区で発足したWWWF でもタイトルは継承された[ 14] 。
WWWFには頻繁にゲスト参戦しており、ニューヨーク のマディソン・スクエア・ガーデン ではファビュラス・カンガルーズ (アル・コステロ &ロイ・ヘファーナン )、ジョニー・バレンド 、マグニフィセント・モーリス 、スカル・マーフィー 、ブルート・バーナード 、ハンス・モーティア 、キラー・コワルスキー 、ゴリラ・モンスーン 、ジェリー・グラハム 、フレッド・ブラッシー 、ワルドー・フォン・エリック 、ビル・ワット 、ビル・ミラー 、ケンタッキー・ブッチャー などのヒール と対戦[ 15] 。ドリー・ディクソン 、アート・トーマス 、アーニー・ラッド など、後輩の黒人レスラーともタッグを組んだ[ 15] 。1964年 6月20日にはペンシルベニア州 フィラデルフィア において、ブルーノ・サンマルチノ のWWWF世界ヘビー級王座 に挑戦、ベビーフェイス の人気スター同士のドリームマッチが行われている[ 16] 。
NWA圏の各テリトリーにおいても、1965年 7月3日にトーマスとの黒人コンビでデトロイト版の世界タッグ王座を獲得[ 17] 。同年10月16日にはキンジ渋谷 からサンフランシスコ版のUSヘビー級王座を奪取[ 18] 。全米規模の人気スターだったため特定の地区に定着できず、いずれも戴冠期間は短かったものの、各地で主要タイトルを獲得した。
1966年 9月2日、ロサンゼルスにてバディ・オースチン を破り、WWA世界ヘビー王座 を獲得[ 19] 。シングルの世界王者としてはベアキャット・ライト に次ぐ2人目のチャンピオンとなった[ 6] 。1968年 1月12日に再びオースチンを下して2度目の戴冠を果たし、以降はロサンゼルス地区に一時定着して、ブラッシー、ジョン・トロス 、ザ・コンビクト 、ルーク・グラハム 、マッドドッグ・バション らを相手に防衛戦を行った[ 20] 。しかし、同年10月1日にWWAはNWAの傘下団体となり、WWA世界ヘビー級王座はブラジルがジン・キニスキー のNWA世界ヘビー級王座に挑戦するために返上したという設定のもと、12月11日をもって封印された(キニスキーには12月18日に挑戦して引き分けている)[ 19] 。
なお、WWAがNWA傘下となった3日後の10月4日、ブラジルは後継タイトルとなるNWAアメリカス・ヘビー級王座を獲得したが、翌1969年 2月21日にザ・シーク に敗れて陥落[ 21] 。以降、ロサンゼルス地区へのレギュラー参戦を終了している。同年8月からはカナダのマリタイム地区 に参戦し、ザ・ストンパー と北米ヘビー級王座を争った[ 22] [ 23] 。
1970年代
ザ・シーク との流血の抗争劇は十数年間に渡って繰り広げられた。
1970年 5月より、NWAのデトロイト地区を主戦場として活動。同年8月8日、ロード・レイトン (英語版 ) と組んでテキサス・アウトローズ から世界タッグ王座を奪取[ 17] 。1971年 5月29日には、ロサンゼルス時代から因縁の続くザ・シークを破り、フラッグシップ・タイトルのUSヘビー級王座を獲得する[ 12] 。以降1976年 にかけて、シークをはじめパンピロ・フィルポ やアブドーラ・ザ・ブッチャー を相手にUSヘビー級王座を巡る抗争を展開した[ 12] 。タッグ戦線においてはガイ・ミッチェル やトニー・マリノ をパートナーに、ブッチャー&キラー・ブルックス やクルト・フォン・ヘス &カール・フォン・ショッツ などのチームと世界タッグ王座を争った[ 17] 。
他地区へも精力的に参戦し、NWF ではハンス・シュミット 、ブル・カリー 、ジョニー・バレンタイン らを挑戦者にデトロイト版USヘビー級王座の防衛戦を行い、シークやブッチャーとの抗争も再現した[ 24] 。NWAの総本山だったセントルイス のキール・オーディトリアム にも頻繁に出場しており、1973年 から1975年 にかけて、テリー・ファンク やハーリー・レイス とも対戦[ 25] [ 26] 。1974年 3月15日にはジャック・ブリスコ のNWA世界ヘビー級王座に挑戦し、60分時間切れ引き分けの戦績を残している[ 27] 。
WWWFへは、1970年代 前半はフィラデルフィアやボルティモア でのハウス・ショーを中心に出場し、キング・イヤウケア 、スタン・スタージャック 、プロフェッサー・タナカ 、ジミー・バリアント 、ジョージ・スティール 、ブラックジャック・ランザ 、スパイロス・アリオン などと対戦。1976年 からは久々にマディソン・スクエア・ガーデンのリングに登場して、クラッシャー・ブラックウェル 、バグジー・マグロー 、ルイ・シル 、バロン・シクルナ 、ガスハウス・ギルバート らに勝利[ 28] 。1977年 7月16日にはボルティモアのシビック・センターにおいて、スーパースター・ビリー・グラハム のWWWFヘビー級王座 に挑戦した[ 29] 。
1977年は、2月6日にトロントでシーク、7月7日にミッドアトランティック でブラックジャック・マリガン を破り、各地区のUSヘビー級王座を獲得[ 30] [ 31] 。ミッドアトランティック版のUS王座(現在のWWE US王座 )は、当時売り出し中だったリック・フレアー とも争った[ 31] 。すでに全盛期は過ぎていたものの、アンドレ・ザ・ジャイアント などと同様に大物フリーランサーの立場で各地の主要テリトリーに参戦し、1979年 12月1日にはシカゴでニック・ボックウィンクル のAWA世界ヘビー級王座 に挑戦[ 32] 。デトロイトにおけるシークとの抗争も、1979年まで十数年間に渡り継続させた[ 33] 。
1980年代
1980年 はフロリダ を主戦場に、ダスティ・ローデス やバリー・ウインダム と共闘して、イワン・コロフ 、ニコライ・ボルコフ 、ドン・ムラコ 、マサ斎藤 、ドリー・ファンク・ジュニア 、テリー・ファンク、ディック・スレーター 、ボビー・ジャガーズ 、ハンス・シュローダー 、バロン・フォン・ラシク などと対戦。9月15日のウェストパームビーチ でのハウス・ショーでは、ハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した[ 34] 。
インディアナ州 インディアナポリス を本拠地とするWWA ではブルーザー・ブロディ ともテキサス・デスマッチ で対戦[ 35] 。1981年 7月24日にはジョニー・バリアント を破り、インディアナ版のWWA世界ヘビー級王座を獲得[ 36] 。10月11日にブラックジャック・マリガンに奪取されるも、翌月にマリガンを下して奪回に成功[ 36] 、現役最後のタイトル戴冠を果たした。1982年 にセミリタイアしてからは、WWAやセントルイス・レスリング・クラブ 、古巣のトロント地区などに単発出場した[ 3] 。
1984年 5月から7月にかけては、ビンス・マクマホン・ジュニア の体制下で全米侵攻を開始したWWF に出場。ロッキー・ジョンソン やS・D・ジョーンズ と黒人ユニットを組み、ロディ・パイパー 、ポール・オーンドーフ 、デビッド・シュルツ 、ワイルド・サモアンズ 、ミスター・フジ &タイガー・チャン・リー などと対戦[ 37] 。ビッグ・ジョン・スタッド 、グレッグ・バレンタイン 、カウボーイ・ボブ・オートン 、ディック・マードック とのシングルマッチも行われた[ 37] 。
1987年 11月16日、WWFのニュージャージー州メドーランド大会におけるオールドタイマーズ・バトルロイヤルに参加[ 38] 、これが公式での最後のリング出場となった[ 3] 。
晩年
引退後は居住地のミシガン州ベントンハーバーにおいて "Bobo's Gril" と呼ばれるレストランを経営[ 1] する一方、黒人コミュニティのレジェンドとして講演やチャリティ活動を行っていた[ 39] 。1994年 にWWF殿堂 に迎えられ、かつてのパートナーであり抗争相手でもあった黒人レスラーの後輩アーニー・ラッドがインダクターを務めた(翌1995年 にラッドが殿堂入りした際は、ブラジルがラッドのインダクターを務めている)[ 4] 。
1998年 1月14日、脳梗塞 により入院したが、6日後の1月20日 に死去[ 1] 。73歳没。2013年 にはNWA殿堂 に迎えられた[ 40] 。
日本での活躍
日本プロレス
1957年 8月、日本プロレス に初来日[ 41] 。8月14日に東京都体育館 で行われた力道山 とのシングルマッチは「頭突き 対空手チョップ 」として注目された。試合ではココバット の連打で力道山を大流血に追い込んだが、力道山のダメージが深刻であることを察知したブラジルは、これ以上の試合続行は危険と判断、リングを降りて控え室に戻り、試合放棄による判定負けを自ら選んだ[ 6] [ 42] 。当時のマスコミは、力道山の出血が止まらないため、血を見るのが嫌いなブラジルが戦意を喪失したなどと報じたが、この初参戦を最後に、力道山がブラジルを日本に招聘することはなかった[ 42] 。
1968年 6月、WWA 世界ヘビー級王者として、日本プロレスへの11年ぶりの再来日が実現(『ゴールデン・シリーズ』終盤戦への特別参加)[ 43] 。来日第1戦となる6月25日、愛知県体育館 において、ジャイアント馬場 を破りインターナショナル・ヘビー級王座 を獲得した[ 6] [ 44] 。シリーズ最終戦の6月27日、蔵前国技館 において馬場に奪回されたが、力道山没後の日本プロレスのエースとして、強豪を相手に21回もの連続防衛記録を達成していた馬場にとっては、初の王座陥落となった[ 45] 。
以降も日本プロレスへの参戦を続け、1969年 4月の3度目の来日時には『第11回ワールドリーグ戦 』に出場[ 46] 。外国陣営ではクリス・マルコフ と同点の首位となり、5月16日の東京都体育館での優勝決定戦では、同じく日本陣営の同点首位だった馬場およびアントニオ猪木 との4選手による決勝トーナメントが行われた(第1試合で馬場と引き分けとなり、第2試合でマルコフを破った猪木が優勝)[ 46] 。
馬場のインターナショナル・ヘビー級王座には、1970年 2月2日に札幌中島スポーツセンター 、1972年 1月6日に大阪府立体育館 においても挑戦[ 45] 。1972年12月、日本プロレスへの最後の来日となる『インター選手権シリーズ(インターナショナル・チャンピオンシップ・シリーズ)』への参戦時には、馬場の日本プロレス退団による返上で空位となっていた同王座を賭けて、12月1日に横浜文化体育館 において大木金太郎 と対戦[ 47] 。「頭突き世界一決定戦」とも呼ばれたこの試合を制し、2度目の戴冠を果たした。12月4日に広島県立体育館 で大木にタイトルを明け渡したものの、日本プロレスでインターナショナル・ヘビー級王座を2回獲得した外国人レスラーはブラジルだけである[ 6] 。
インターナショナル・タッグ王座 にもパートナーを代えて度々挑んでおり、1970年1月5日には弟のハンク・ジェームス を従えて馬場&猪木のBI砲 に、同年1月27日にはデール・ルイス と組んで同じくBI砲に、1972年6月8日にはボビー・ダンカン と組んで馬場&坂口征二 の東京タワーズ に、同年12月2日と5日にはジン・キニスキー との強力コンビで坂口&大木組に挑戦した[ 48] 。
全日本プロレス
1973年 2月27日、全日本プロレス に初参戦[ 49] 。馬場の世界ヘビー級王座戴冠に向けての「王座争奪十番勝負」最後の相手として、日大講堂 において馬場と対戦した(この試合に勝利した馬場は初代王者となり、タイトルは後にPWF の認定王座として「PWF世界ヘビー級王座 」と改められた)[ 50] 。
その後も全日本プロレスに継続参戦し、1975年 2月の来日時にはルーファス・ジョーンズ と黒人コンビを結成[ 51] 。1976年 9月9日には大阪府立体育館にて、ジャンボ鶴田 の「試練の十番勝負 」第5戦の相手を務めた[ 52] 。日本プロレス崩壊後に馬場&鶴田が獲得したインターナショナル・タッグ王座には、1975年6月17日に弟のジェームス、1976年8月26日にタンク・パットン 、1977年 10月21日にケン・パテラ 、そして1978年 10月25日と1979年 9月13日にはアブドーラ・ザ・ブッチャー と組んで挑戦した[ 48] 。
1978年と1979年の来日時にはブッチャー軍団 の客分的存在として参戦しており、北米の五大湖 エリアで抗争を展開したブッチャーのパートナーとなって、花束を食いちぎるパフォーマンスを行うなどヒール に徹した[ 6] 。最後の来日となった1979年の『ブラック・パワー・シリーズ』では、8月24日の帯広市 大会にてカルロス・コロン と組み、グレート小鹿 &大熊元司 の極道コンビ が保持していたアジアタッグ王座 にも挑戦している[ 53] 。同シリーズでは、WWAで共闘していたミル・マスカラス とのタッグ対決や、日本プロレス以来の因縁のある大木との石頭コンビも実現した[ 53] 。
日本には日本プロレスに7回、全日本プロレスに8回参戦して、計15回の来日を果たしている(日本での最後の試合は前述の1979年9月13日、『ブラック・パワー・シリーズ』最終戦の大分市 大会における、ブッチャーと組んでの馬場&鶴田とのインターナショナル・タッグ王座戦)。
1993年 には、当時全日本プロレスが往年のレスラーを招聘して開催していたトークイベント "OLDIES BUT GOODIES" への来日が予定されていたが、体調不良のため実現しなかった[ 39] 。
得意技
獲得タイトル
日本プロレス
ワールドワイド・レスリング・アソシエーツ / NWAハリウッド・レスリング
NWAサンフランシスコ
NWAデトロイト
メープル・リーフ・レスリング
ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
ワールド・レスリング・アソシエーション
イースタン・スポーツ・アソシエーション
NWAキャピトル・レスリング / WWWF / WWF
ナショナル・レスリング・アライアンス
追記
参考文献
脚注
外部リンク