ペンブルック伯 (ペンブルックはく、英 : Earl of Pembroke )は、イングランド の伯爵位。スティーブン王 により創設され、ペンブルック伯爵領には、ウェールズ のペンブルック城 などが存する。幾度か家系が断絶する度に伯爵位が再創設され、初代伯爵から世代が数え直されている。
1533年 9月1日 には、ヘンリー8世 が後に自身の妃となるアン・ブーリン をペンブルック侯爵夫人に叙任しており、彼女は1代限りの名誉を得た。というのも、ヘンリー8世の大叔父ジャスパー・テューダー がペンブルック伯であり、父ヘンリー7世 もペンブルック で生まれていたからである。
現在のペンブルック伯は1605年 からモンゴメリー伯爵 (英語版 ) を兼ねるようになっている。第10期第2代ペンブルック伯ヘンリー・ハーバート (英語版 ) の次男フィリップ が第4代ペンブルック伯を継承する前にモンゴメリー伯に叙任されていたからである。その他にも付属的にグラモーガン州カーディフのハーバート・オブ・カーディフ男爵 (1551年 )、ケント州シェピー島におけるシューランドのハーバート・オブ・シューランド男爵 (1605年)、ウィルト州リーのハーバート・オブ・リー男爵 の称号(1861年 )を保有している。
連合王国貴族 だったハーバート・オブ・リー男爵 (英語版 ) を除き、全てのペンブルック伯はイングランド貴族 である。
一族のカントリーハウス はウィルトシャー にある。
1911年のブリタニカ百科事典による歴史説明
ペンブルック伯爵の称号は、イギリスの幾つかの家系によって受け継がれてきており、権威と尊厳ある伯爵領が爵位に付属してきた。1138年 、スティーブン王によってギルバート・フィッツリチャードの息子ギルバート・ド・クレア が叙任された時、ペンブルック伯爵の最初の世代が始まった。ギルバートは他に現在のチェプストー にあたるストリギル(土地台帳 の上ではEstrighoiel)の領主でもあった。
1141年 におこったリンカーンの戦いで、ギルバートはスティーブン側について戦ったが、この戦いでスティーブンが敗北すると、マティルダ王女 側に鞍替えした。しかし、スティーブン王が王座を取り戻すとまた彼に従うことにした。また、ヘンリー1世の愛人にしてレスター伯 ロバート・ボーモントの娘イザベルと結婚している。
第1期:クレア家(1138年 - 1220年)
ギルバートの息子リチャード・フィッツギルバート (英語版 ) は「ストロングボウ」(強弓)と呼ばれ、父と同様スティーブン王に仕えた。この為プランタジネット朝 (アンジュー家)始祖でスティーブン亡き後イングランド王に即位したヘンリー2世 から疎まれ、ギルバートが1148年に死去した際、ヘンリー2世はリチャードがペンブルック伯位を継承することを拒否し、わずかにストリギルの支配権のみ認めたようである。
ヘンリー2世に相続権を奪われ負債が溜まったリチャードは、1168年 に元の権利を取り戻す機会を得ることができた。この年、彼は当時王国を追放されていたレンスター 王ダーモット・マクマロー (英語版 ) の支持を得てアイルランド遠征 軍を率いる役目に選任された。1170年 にリチャードは自ら進軍しウォーターフォード とダブリン を攻略、ダーモットの娘イーファと結婚した。これによってダーモットが同年に死去した際、リチャードはレンスター王位継承を主張している。ヘンリー2世は彼の権力を恐れたため、同年にリチャードから領地を奪いとり、1171年 にアイルランド へ攻め入ると権力を掌握した。1173年 、ヘンリー2世の息子らが反乱を起こした際、リチャードはアイルランドにおける支持と権力を得るために帰還、3年後の1176年 にアイルランドの有力者と激しい戦いの末に死去した。
リチャードが死去した時、息子のギルバート は未成年であり、ペンブルック伯位を正式に継承しないまま1185年 に死去した。
ギルバートが死ぬとその姉のイザベル が自分の権利として、1220年 に死去するまでペンブルック伯爵夫人(女伯爵)となった。父、弟の伯位継承に問題があるわけだから、彼女は初代伯爵である祖父のギルバート以後、最初にペンブルック伯位を継承したともいえる。そうすると、イザベルを第4代ではなく第2代伯爵夫人として計算するべきであるともいえる。いずれにせよ、伯爵位は彼女の夫にしてジョン・ザ・マーシャルとソールズベリー伯 パトリックの甥で姉妹シビルの息子サー・ウィリアム・マーシャル に継承された。
第2期:マーシャル家(1189年 - 1245年)
1189年 8月、43歳であったウィリアム・マーシャル は、キリスト教国家の内で最も偉大な騎士 であるとされていたが、リチャード1世 によってストリギルおよびペンブルックの女相続人イザベル・ド・クレアと結婚させてもらったことで初代ペンブルック伯爵となることができた。彼は以前、リチャード1世の父親であるヘンリー2世に仕えており、リチャード1世が反乱を起こした際には敵対関係にあったが、リチャード1世は父が彼とイザベルとの結婚を許可していたことを破談にするようなことはしなかった。
ウィリアムはリチャード1世と弟のジョン王 に対し忠実に仕え、第一次バロン戦争 で造反したイングランド諸侯とフランス から王家を守るために戦い、1215年 のマグナ・カルタ に署名もしている。翌1216年 にジョンが死去すると、70歳になったウィリアムは王国の摂政 に就き幼いヘンリー3世 の保護者となり、造反諸侯とフランス軍を打ち破り、平和を得るため再びマグナ・カルタに署名している。1219年 の初めに病にかかり、5月14日 にレディング の近くにあるカヴァーシャム (英語版 ) の邸宅で死去すると、摂政の職務はヒューバート・ド・バー が、伯位は5人の息子達が継承した。
ウィリアムの長男で父と同名のウィリアム は第2代ペンブルック伯になり、フランスでヘンリー3世に仕えたほか、司法長官(en )を務めていた1224年 から1226年 の間、ウェールズとアイルランドでの戦争に関わった。彼の2度目の妻はヘンリー3世の妹エリナー であったが、子供を得ることなく死去した。なお、エリナーは後にシモン・ド・モンフォール と再婚している。
第3代伯爵でウィリアムの弟リチャード (英語版 ) はヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャード と友人であり、同盟も結んでいた。次いで3人の弟ギルバート (英語版 ) 、ウォルター (英語版 ) 、アンセル (英語版 ) が伯爵になったが、1245年 にアンセルが死去するとマーシャル家の男系子孫は断絶した。莫大な財産はアンセルの5人の姉妹とその子孫に配分され、ペンブルック伯爵領は王家に返却された。
第3期:ド・ヴァランス家(1247年 - 1324年)
ペンブルック伯ド・ヴァランス家の紋章
次にペンブルック伯爵領を得たのはフランス貴族ユーグ10世・ド・リュジニャン の息子で、ヘンリー3世の異父弟でもあったウィリアム・ド・ヴァランス である。父ユーグ10世はジョン王の未亡人でヘンリー3世の母イザベラ・オブ・アングレーム との結婚により、アングレーム伯爵になった。
1247年 、ウィリアムは2人の兄弟と共に、フランスから異父兄のヘンリー3世を頼ってイングランドに移住した。ヘンリー3世はウィリアムと初代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルの孫娘にしてその相続人であったジョアン(1307年 没)と結婚させた。ウィリアムは土地の管理権とペンブルック伯位を獲得し、新天地において莫大な富と権力を得たのである。その結果として彼は人気が低かった。また、彼は第二次バロン戦争 にも深くかかわり、国王およびエドワード太子(後のエドワード1世 )側についてシモン・ド・モンフォールや造反諸侯を相手に戦った。1265年 のイーヴシャムの戦い で決定的な敗戦を経験しながらも、ウィリアムは1296年 に死去するまでヘンリー3世とエドワード1世に仕え続けた。
ウィリアムの息子のうち最年長のエイマー (英語版 ) が父の財産を受け継いだが、母親であるジョアンが1307年に死亡するまでの間、正式にペンブルック伯とは認められなかった。1306年 にはスコットランド の守護者に任じられたが、エドワード2世 が即位してコーンウォール伯ピアーズ・ギャヴィストン が勢力を増すと、エイマーの影響力は小さくなった。エイマーは不平貴族らの中心人物となったが、1312年 にウォリック伯 ガイ・ド・ビーチャム が裏切り、捕虜にしたギャヴィストンを処刑した時、諸侯の同盟を去り国王側についている。バノックバーンの戦い が起きた1314年 にエイマーは存命しており、エドワード2世がランカスター伯 トマス を打ち負かすのを手伝ったりした。だが、エイマーが1324年 に死去した時、エイマーは財政面で困難に陥っていた。また、エイマーの妻だったマリー・ド・シャティヨン はヘンリー3世の子孫であり、ペンブルック・カレッジ の創始者でもある。
第4期:ヘイスティングス家(1339年 - 1389年)
ウィリアム・ド・ヴァランスの曾孫であったローレンス・ヘイスティングス (英語版 ) は女系の系図をたどってペンブルック伯を継承、あるいは新たに叙任され、ヴァランス家のペンブルック伯領の一部を相続した。
彼の息子のジョン (英語版 ) はエドワード3世 の娘マーガレット・プランタジネット (英語版 ) と結婚したが子供は生まれず、再婚した女性との間に生まれた同名の息子ジョン (英語版 ) が継承した。
3代伯爵ジョンも王族でエドワード3世の孫娘に当たるランカスター公 ジョン・オブ・ゴーント の娘エリザベスと結婚したが子供が生まれなかったため、1389年 にジョンが死ぬとヘイスティングス家は断絶、ペンブルック伯領は再び王家に返却された。
第5期:プランタジネット家(1414年 - 1447年)
ヘンリー4世 の4番目の息子であるハンフリー・オブ・ランカスター は、生涯の間グロスター公 とペンブルック伯を兼ねた。しかし1447年 に政敵のサフォーク公 ウィリアム・ド・ラ・ポール の画策で失脚、同年に死去したハンフリーに相続人がなかったので、ペンブルック伯領はウィリアムに渡された。
第6期:ポール家(1447年 - 1450年)
ハンフリーを追い落としてウィリアム・ド・ラ・ポール がペンブルック伯になったが、彼も政争に敗れ1450年 に暗殺 され、爵位は失われた。
第7期:テューダー家(1452年 - 1461年、1485年 - 1495年)
サー・ジャスパー・テューダー はヘンリー6世 の異父弟であり、薔薇戦争 ではランカスター派 に属していたため、ヨーク派 が優勢だった1461年 から1485年 の24年間に爵位を失っている。1485年に爵位を取り戻しベッドフォード公爵 にも叙せられたが、1495年 に子供が無いまま死去したため断絶した。この頃ウェールズの島セント・キャサリン島 を所有していた[ 2] [ 3] 。
第8期:ハーバート家(1468年 - 1479年)
ジャスパー・テューダーが爵位を剥奪された後、熱心なヨーク党だったサー・ウィリアム・ハーバート (英語版 ) がエドワード4世 によりハーバート男爵として貴族階級に取りたてられた。そして内戦中にジャスパーが亡命している間、ウィリアムはジャスパーに取って代わったことにより、1468年 にペンブルック伯に叙任された。
息子で同名の2代伯ウィリアム・ハーバート (英語版 ) はペンブルック伯領の代わりにハンティングトン伯領を継承し、ペンブルック伯領はエドワード4世に返還している。
第9期:ヨーク家(1479年)
1479年 、エドワード4世は息子エドワード をプリンス・オブ・ウェールズ に叙任、彼がエドワード5世 として王位についた時、ペンブルック伯領は王位と併合された。伯領はヨーク家の敗北とテューダー家 のヘンリー7世 の王位継承によってジャスパー・テューダーに戻された。
ペンブルック侯爵アン・ブーリン(1532年)
アン・ブーリン はヘンリー8世 と結婚する数ヶ月前、本来は男性の称号であるペンブルック侯爵に叙任されている。イングランドの貴族の中でも、男性の称号を与えられたのは彼女だけである。この称号が侯爵たるアンと王との結婚によって統合されてしまったのか、それとも彼女が1536年 に刑死したことで断絶したと理解すべきなのかは、見解に対立がある。
第10期:ハーバート家(1551年 -)
1551年 、ペンブルック伯位はウィリアム・ハーバート (英語版 ) に与えられることで復活した。父親のリチャードが第8期ハーバート家の初代伯ウィリアムの非嫡出子に当たる彼はアン・パー(ヘンリー8世の6番目の妃キャサリン・パー の姉妹)と結婚し、1551年にペンブルック伯に叙任された。ペンブルック伯の称号は、現在に至るまでウィリアムの子孫によって継承されている。
現在、爵位の法定推定相続人は18代伯の息子のハーバート卿(儀礼称号)レジナルド・ヘンリー・マイケル・ハーバート(2012年10月21日生)である。
ヘンリー8世の遺言執行者にして価値のある領土の受取人である初代ペンブルック伯ウィリアム・ハーバート (英語版 ) はエドワード6世 の治世下において突出して権勢のあった人物であった。また、サマセット公 エドワード・シーモア とその政敵であり、後のノーサンバーランド公爵 ジョン・ダドリー の庇護者をつとめ、策略を使い支援したりもした。ダドリーと共にサマセット公を投獄し、サマセット公の失脚後はウィルトシャーの領地と爵位を得ることになったが、ジェーン・グレイ の戴冠のために画策したと言われている。いずれにせよ、彼はジェーン・クレイの短い統治下において助言者を務めたが、ジェーンの支持が失われた時、メアリー1世 側につくことを宣言した。
こうした経緯からメアリー1世やその一派から度々ウィリアムは忠誠心は疑われたが、カレー の知事およびウェールズの長官その他の職務をこなし、スペイン 王フェリペ2世 (メアリー1世の夫)の信頼もある程度得ていた。エリザベス1世 の治世下でも1569年 までその地位を保持していたが、メアリー・スチュアート とノーフォーク公 トマス・ハワード を結婚させる計画に関与したとの疑いを持たれてしまっている。ウィリアムが与えられていた土地にはソーズベリーの近くのウィルトンがあり、ここは現在もペンブルック伯の住居がある。
爵位を継承した長男の第2代ペンブルック伯ヘンリー (英語版 ) は1586年 から死ぬまでウェールズの長官を務め、1577年 にヘンリー・シドニー (英語版 ) とその妻メアリー・ダドリーの3番目の娘メアリー・シドニー (英語版 ) と結婚している。妻メアリーはペンブルック伯爵夫人として有名であり、兄のフィリップ・シドニー とは生涯を通じて深い係わりを持ち、フィリップ・シドニーは1580年 の夏で妹と共にウィルトンもしくはアイビーチャーチで過ごし、その付近で彼女の好きな隠遁生活を送った。また、妹の要求にこたえる形で、出版する意図でなくただ彼女を喜ばせることだけを目的として『ペンブルック伯爵夫人のアルカディア (英語版 ) 』の執筆を開始した。2人は詩篇 の韻律の編集も行っている。
兄の死にメアリーはひどく悲しむと、自ら兄の遺産管理人に就任し未完成のアルカディアやその他、1590年 から1591年 の間に作られた兄の詩を修正したりした。また、兄が保護しようと眼を掛けた詩人たちのパトロンなども行っている。エドマンド・スペンサーは彼女に対して『時の廃墟』(The Ruines of Time)を捧げており、『コリン・クラウト故郷に帰る』という作品では彼女を「文芸の女神 」と言及している。また、『アストロエル』において彼女は「クロリンダ」と表記されている。1599年 にエリザベス1世が客としてウィルトンにやってくると、メアリーは女王を星乙女 とたたえる詩を製作している。夫が亡くなるとメアリーは主にロンドン のクロスビー・ホールに住み、そこで死去した。
メアリーは他にフランス人のフィリップ・ド・モルネー (フランス語版 ) の『死と生について』(A Discourse of Life and Death)、ロベール・ガルニエ (フランス語版 ) の悲劇に対する批評『アントニー』などを翻訳した。また、ある学者などはウィリアム・シェイクスピア 名義の作品の真の著者はメアリーだったのではないかという推測をしている。ロビン・ウィリアムはアメリカのウィルトン・サークルから『愛しきエイボンの白鳥』(Sweet Swan of Avon) を出版しているが、以下に述べるような2人の息子と同様、彼女の波乱万丈の人生について記載している。
ヘンリーとメアリーの長男の第3代ペンブルック伯ウィリアム・ハーバート は、当時の社会およびジェームズ1世 の宮廷では有名な人物であった。何度かバッキンガム公 ジョージ・ヴィリアーズ に反対することもあり、アメリカ大陸 の植民地化に対して強い関心を持っていた。彼は1615年 から1625年 の間王家の宮内庁長官官房を務め、1626年 から1630年 の間は侍従を務めた。1624年 にはオックスフォード大学 の学長になっており、トマス・ディスデルとリチャード・ウィックがブロードゲート・ホールを再建した時はペンブルック伯の名誉にちなんでこれをペンブルック・カレッジと名づけている。
あるシェイクスピア研究家からは、トマス・ソープ (英語版 ) が出版したシェイクスピアのソネット集 の献辞に「唯一の父親」(the onlie begetter) として言及する「W・H氏」がウィリアムと同一人物であると考えている。一方で彼の愛人のメアリー・フィットン (英語版 ) はソネットにおける「黒の淑女」(dark lady) と同一視される。だが、「唯一の父親」および「黒の淑女」の特定は非常に疑わしい。ウィリアムと弟のフィリップはシェイクスピアの『ファースト・フォリオ 』において「比類なき兄弟」(incomparable pair of brethren) として言及されている。なお、フィリップの方はジェームズ1世の同性愛の相手として寵愛された時期に莫大な利益を得ていた。
1630年 4月10日 、ウィリアムは子供を儲けることなく死去した。クラレンドン伯爵 エドワード・ハイド は彼について褒め称えているが、実際は薄弱で自堕落な人物であったというように見える。ガードナーは彼を「英国宮廷のハムレット」というように形容している。また、ウィリアムは文学趣味もあり、自身で詩を書いたりしていた。彼の最も親しい詩人はジョン・ダン であり、ベン・ジョンソン 、フィリップ・マッシンジャー (英語版 ) などに対し寛大に接していた。
後を継いだ弟の第4代伯フィリップ は魅力的な容姿と激しい情熱および野外での運動一般の能力によって、ある時期においてジェームズ1世の寵臣であった。ジェームズ1世は、1605年 にフィリップをモンゴメリー伯爵 およびシューランドのハーバート男爵 に叙任している。この叙任によりフィリップがペンブルック伯領を継承すると、ハーバート家の長はペンブルックとモンゴメリーの2つの伯爵位を所持することになった。
フィリップは喧嘩っ早い性格であったためにしばしばトラブルを引き起こしたが、ジェームズ1世からの評価は失わず、彼から幾つも領地や官職を与えられ、息子のチャールズ1世 からも信頼を得ている。1626年 、チャールズ1世から宮内庁長官官房に任命された上、しばしばチャールズ1世がウィルトンを訪問しているからである。
1639年 と1640年 にはチャールズ1世とスコットランド の間で平和をもたらすために尽力したが、チャールズ1世と議会との間ので再び不和が起きた際、チャールズ1世から侍従の官職を剥奪されると見限り、第一党からの信頼を得たフィリップはワイト島 の知事に任命され、幾度も議会の代表の1人に選ばれている。特に清教徒革命 (イングランド内戦 )の最中の1645年 にアクスブリッジ と、1648年 のニューポートと、1647年 にスコットランドがチャールズ1世の身柄を引き渡した際の交渉などを担当している。また、1641年 から1643年 および1647年から1650年 の間はオックスフォード大学の学長を務めている。
フィリップが学長をしていた1648年 、厳粛な同盟と契約 に反対する立場の重役を何人か解任している。その際放った罵詈雑言により「罵倒語に能弁な人間には、大学の学長よりも精神病院の院長に相応しい」との評価を招いてしまっている。1649年 には貴族だったにもかかわらず、バークシャー選挙区 (英語版 ) から下院議員として選出されている。この現象は王党派の著作において「下位への上昇」(ascent downwards) と皮肉られている。なお、フィリップは絵画の収集家であり、建築に対してもある程度の関心があった。
フィリップの生存している子供のうち最年長だった同名の息子フィリップ (英語版 ) は第5代伯を継承した。彼は2度の結婚をし、順に3人の息子を儲けたが、後を継いだ長男のウィリアム (英語版 ) と次男のフィリップ (英語版 ) は相次いで早世し、末子のトマス が第8代ペンブルック伯爵および第5代モンゴメリー伯として継承した。
第8代伯になったトマスはウィリアム3世 とアン女王 の治世下において著名な人物であった。彼は1690年 から1697年 の間には海軍卿 を務め、それから1699年 まで王璽尚書 を務めたが、イングランドが大同盟戦争 の講和条約であるレイスウェイク条約 を調印する際の全権大使になっている。トマスが海軍卿をしていた期間に2つの出来事があり、1つ目は彼が枢密院議長 とアイルランド総督 を兼任していた一方で、7度も司法卿の1人として働いたことである。2つ目は1689年 から1690年の間に王立協会 の理事長をしていたことである。
トマスの息子で第9代伯になったヘンリー (英語版 ) は軍人であったが、むしろ「建築家伯爵」として有名で、ウェストミンスター橋 の建築で主要責任者を務めた。
その後に称号を受け継いだ第10代伯ヘンリー (英語版 ) も軍人であり、1762年 に『馬の調教方法について』(Method of Breaking Horses) という著作を書いた。
第11代伯爵のジョージ (英語版 ) は1807年 にウィーン への特命大使を務めている。
第12代伯のロバート (英語版 ) は子供を儲けることなく1862年 にフランスで死去、パリ のペール・ラシェーズ墓地 に埋葬された。
第13代伯のジョージ (英語版 ) は第10代伯ヘンリーの孫にして、兄の死によって家族の称号を全て相続したシドニー(1853年 生まれ)の次男であるヒューバート・オブ・リー男爵の息子にあたる。
その他
フロリダ州ペンブロークパインズ はブロワード郡 の初期の地主であったペンブルック伯にちなんで名づけられている。ニューハンプシャー州 ペンブローク (ニューハンプシャー州) (英語版 ) は第9代伯にちなむものであり、州知事のベニング・ウェントワース によって名づけられた。
分流にカーナーヴォン伯爵 ハーバート家がある。
注記
第7代伯は、2度も殺人事件についての裁判に関与している[ 4] [ 5] 。1677年から1678年の裁判と、1680年におきたロンドンの警察官、ウィリアム・スミスに対する殺人事件がそれである[ 6] [ 7] 。
脚注
^ Debrett's Peerage, 1968, p.873
^ “Tenby's landmark St Catherine's Island to reopen as a tourist attraction ”. Wales Online (27 May 2015). 11 September 2016 閲覧。
^ Williams, Kathryn; Knapman, Joshua (2017年1月15日). “Revealed: Sherlock's Sherrinford is Tenby landmark St Catherine's” . Wales online . http://www.walesonline.co.uk/lifestyle/tv/revealed-sherlocks-sherrinford-tenby-landmark-12457490 2017年8月7日 閲覧。
^ Thomas Jones Howell, William Cobbett. A complete collection of state trials and proceedings for high treason and other crimes and misdemeanors from the earliest period to the year 1783, with notes and other illustrations, Volume 15
^ Sir Richard Bulstrode. The Bulstrode papers: Volume I
^ Stephen (Sir Leslie), Sir Sidney Lee, Robert Blake, Christine Stephanie Nicholls. The Dictionary of national biography, Volume 9
^ James Thorne. Handbook to the environs of London: alphabetically arranged, containing an account of every town and village, and of all places of interest, within a circle of twenty miles round London, Part 2
参照文献
この記事にはアメリカ合衆国 内で著作権が消滅した 次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh , ed. (1911). "Pembroke, Earls of ". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 21 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 78-80.
G. T. Clark, The Earls, Earldom and Castle of Pembroke (Tenby 1880)
J. R. Planche, "The Earls of Strigul " in vol. x. of the Proceedings of the British Archaeological Association (1855)
G. E. C(okayne), Complete Peerage, vol. vi. (London, 1895).
Giraldus Cambrensis, Expugnatio hibernica
the Song of Dermot, edited by G. H. Orpen (1892).
the metrical French life, Histoire de Guillaume le Marchal (ed. P. Meyer, 3 vols., Paris, 1891–1901)
the Minority of Henry III., by G. J. Turner (Trans. Royal Hist. Soc., new series, vol. xviii. pp. 245295)
W. Stubbs, ConstitutIonal History, chs. xii. and xiv. (Oxford, 1896f 897).