トッド・ヘルトンTodd Helton
コロラド・ロッキーズでの現役時代 (2013年8月18日)
基本情報 国籍
アメリカ合衆国 出身地
テネシー州 ノックスビル 生年月日
(1973-08-20 ) 1973年 8月20日 (51歳) 身長 体重
6' 2" =約188 cm 210 lb =約95.3 kg 選手情報 投球・打席
左投左打 ポジション
一塁手 プロ入り
1995年 MLBドラフト1巡目 初出場
1997年8月2日 最終出場
2013年9月29日 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選出年
2024年 得票率
79.74% 選出方法
BBWAA 選出
トッド・リン・ヘルトン (Todd Lynn Helton , 1973年 8月20日 - )は、アメリカ合衆国 テネシー州 ノックスビル 出身の元プロ野球選手 (一塁手 )。左投左打。1997年 から2013年 までMLB コロラド・ロッキーズ に所属した。
リーグを代表する強打者で、現代MLBでは数少ないフランチャイズ・プレイヤー の1人。1998年 から2005年 まで8年連続で打率.315以上を記録し、これを達成しているのは一塁手としてはルー・ゲーリッグ 、ビル・テリー とヘルトンの3人のみ。
経歴
プロ入り前
5歳のとき、ミネソタ・ツインズ のマイナーリーグに所属していたことのある父がガレージに洗濯機のホースを利用したティーを作り、練習をさせていた[ 1] 。
1992年 、ノックス・セントラル高校3年生の時に打率.655(78打数51安打)を記録し、有力野球 雑誌ベースボール・アメリカ誌による高校全米選抜に選出される。
高校卒業後、MLBドラフト 2巡目でサンディエゴ・パドレス から指名を受けるが、アメリカンフットボール (クォーターバック )と野球の両方で推薦を受け、テネシー大学 に進学[ 2] 。だがフットボールでは、大学在学中に後にNFL でスター選手となるペイトン・マニング の加入によってベンチに追いやられ、結果として野球に専念するようになる。
ロッキーズ時代
1995年 のMLBドラフト 1巡目(全体5位)でコロラド・ロッキーズ から指名されて入団。A級アッシュビル・ツーリスツ からプロとしてのキャリアをスタートする。同年の冬にはハワイ・ウィンターリーグ に参加し、マウイ・スティングレイズで松井稼頭央 などとチームメートとなる。
1996年 はAA級ニューヘブン・レイブンズ で開幕を迎える。7月にAAA級コロラドスプリングス・スカイソックス へ昇格し、所属したイースタン・リーグ では守備が評価されるものの、この年は最後までマイナー で過ごした。シーズン後はアリゾナ・フォールリーグに参加し、ピオリア・ジェイブリナスでプレイした。
1997年 はAAA級コロラドスプリングスでシーズンを迎えたが、8月までに打率が.352に達するなど突出した成績を収めていたためにメジャーから招集がかけられる。昇格した翌日の8月2日のピッツバーグ・パイレーツ 戦でメジャーデビュー。守備は本来の位置とは違う左翼手 についたが(この年は本来の一塁手 のほか左翼に13回、右翼手 に1回守備についている)、打撃では4打数2安打、本塁打 も1本放ち、打点 1も記録した。この翌日の試合でも本塁打を放つ。1年目は35試合 に出場し、打率.280、5本塁打、11打点という成績だった。
1998年 、当時ロッキーズのスター選手だったアンドレス・ガララーガ がブレーブス に移籍するのに伴い、スタメン に定着。打撃3部門でメジャー新人選手1位となる打率.315、25本塁打、97打点を記録した[ 3] 。新人王 争いはケリー・ウッド (シカゴ・カブス )に次ぐ2位で終わったが、チームメートはヘルトンを「ロッキーズを代表する選手」に選出した。ルーキーが選ばれるのは極めて異例である。
1999年 3月2日に4年契約を結び開幕を迎えた[ 4] 。打率は.320を超え、本塁打も1998年に比べて10本増。打点も100の大台を突破し、チームの主砲となった。6月19日のフロリダ・マーリンズ 戦ではサイクル安打 を達成している[ 5] 。
2000年 は首位打者 と打点王 の二冠に輝いた他、過去64年間で最多となるシーズン59二塁打 を放ち[ 6] 、安打 ・二塁打・塁打 ・出塁率・長打率 ・OPS はすべてリーグ1位の成績を残した。シーズンで最も素晴らしい活躍をしたとされる打者に贈られるハンク・アーロン賞 も受賞し、MLBオールスターゲーム やシルバースラッガー賞 にも選出された。この年、一瞬だけ「503打席以上で4割を超える打率」つまり規定打席を満たしての4割打者 になった。それは、8月18日のマーリンズ戦で6回裏、この日の3本目の安打となる二塁打を放ったヘルトンの打率は、一旦4割を超えた。当時はMLBのスコアボードで事細かに選手の打撃成績を表示していなかったため、規定打席を満たして4割に到達したことに誰も気がつかず、3点ビハインドを追いかける次の打席にも登場したヘルトンは一ゴロに倒れ、結局、この試合の.399を最後に二度と4割に近づくことはなく.372でシーズンを終えた。このとき、打率4割の状態でベンチに下がり、残り試合を欠場していたらテッド・ウィリアムズ 以来の打率4割を達成していたことになる。
2001年 4月に2003年から9年総額1億4150万ドルで契約延長した[ 7] 。この年は打率が.036も低下したが、それでも.336という高打率を記録し、最終的にはリーグ2位となった。本塁打は昨年の自己ベストを更新する49本塁打を記録した。長打数は105で2年連続で100長打を達成した。100長打を2回達成した選手はルー・ゲーリッグ 、チャック・クライン がいるが、2年連続はMLB史上初めての快挙となった[ 8] 。更に守備力も評価を高めるようになり、自身初のゴールドグラブ賞 にも輝いた。
2002年 は成績全般が低下したが、打率.329、30本塁打、109打点を記録している。さらに2年連続となるゴールドグラブ賞も獲得した。しかしこのシーズン中から痛めていた背中に、診察の結果、遊離骨が見つかる[ 9] 。手術は回避したが、この年から慢性的な背中の痛みに悩まされ続ける事になる。
2003年 は月間打率が3割を下回ることなくシーズンを終えたが[ 10] 、首位打者争いでアルバート・プホルス が打率.35871でタイトルを獲得し、ヘルトンの打率は.35849でリーグ2位におわった。前年以上の本塁打と打点も記録した。オールスターには4年連続で出場。シルバースラッガー賞にも2000年から4年連続で選出された。
2004年 はバリー・ボンズ が首位打者のタイトルを獲得し、2年連続で打率がリーグ2位に終わった。本塁打は30本の大台に乗せたが、得点圏に走者がいるときの打数は127で四球が55と勝負を避けられ[ 11] 、打点は6年ぶりに100を下回った。その恩恵でヘルトンの後を打つビニー・カスティーヤ は打点王 となった[ 11] 。守備では高く評価され、2002年以来となるゴールドグラブ賞に輝いている。
2005年 明けに今まで背中の痛みを抱えながらプレイしていたことを公表した[ 12] 。7月26日から8月9日にかけて自身初の故障者リスト 入りした。開幕から打率が低迷したが、7月下旬に打率.300を記録し、最終的には.320という成績を残している。しかし、20本塁打、79打点はメジャー定着後ワーストの成績となった。
2006年 は15試合を終えた時点で.347、1本塁打と上々の滑り出しであったが、4月に腸の感染症にかかり入院した。欠場自体は15試合だけだったがその後も腹痛は続き、シーズン終了時の打率と本塁打はレギュラー定着以来自己最悪の数字になった。この影響もあり、シーズンにはボストン・レッドソックス との間でトレード が交渉されたが、結果的にこれは決裂し、ロッキーズにとどまる事になった[ 9] 。
2007年 は打率.320、17本塁打、91打点と打撃3部門で前年を上回る成績を記録。二塁打では史上初めて10年連続で35二塁打を達成した[ 13] 。チームはワイルドカードでポストシーズンへ進出し、リーグ優勝した。ヘルトンはプレーオフ初出場を果たした。
腰の椎間板 の手術を2008年 に受けたが、2009年 は月間打率が3割下回ることなくシーズンを終えた[ 1] 。5月19日の対アトランタ・ブレーブス 戦にてMLB通算255人目の2000本安打を達成した[ 14] 。2010年 3月11日に球団と2011年の年俸1910万ドルのうち1300万ドルを2014年以降に10年間分割で支払うことに合意し、2012年は2300万ドルのオプション(違約金460万ドル)だったが、それに代わり、契約金1070万ドルと2013年までの2年990万ドルの契約に合意した[ 15] 。
2010年だったが、2008年に続いて不振に陥り、出場試合数自体は2008年よりも35試合多い118試合であり、8本塁打、37打点という数字はいずれも2008年を上回るものではあったが、打率は2008年よりも低い.256に終わった。更に、規定打席には到達していないながら、8年ぶりに90以上の三振を喫するなど、打撃面で精彩を欠いた。
2013年9月14日に同年限りで現役引退を表明。ファンの前で感謝の手紙を読み現役生活に別れを告げた。
引退後
ヘルトンの背番号「17 」。 コロラド・ロッキーズの永久欠番 に2014年 指定。
2014年8月17日にヘルトンの背番号『17 』はロッキーズの選手として初[ 16] の永久欠番 に指定された[ 17] 。
2024年 1月24日、得票率79.7%で資格取得6年目にしてアメリカ野球殿堂 入りを果たした[ 18] 。
人物
チームで行われる礼拝には欠かさず出席するなど、敬虔なキリスト教 徒としても知られている。また慈善事業にも熱心で、ロッキーズの "Care and Share" プログラムに賛同しているほか、ファンに "Autograph for a Cause" プログラムを通じて彼のサイン入り写真と引き換えに25ドルを募金してくれるようにファンに呼びかけている。
妻クリスティー、娘ターニーと共にコロラド州 ブライトン に在住。
薬物疑惑とは無縁の人物という評価もある。MLB公式サイトが2020年1月23日、2021年の米国野球殿堂入りメンバー候補について、「もっと注目されるべき5人」を選出したが、それは全米野球記者協会 の投票で前回から得票率を9%以上アップさせた候補者の中で薬物疑惑とは無縁の候補者に絞ったものであった[ 19] 。その評価通り、2024年に殿堂入りが実現している。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度
球 団
試 合
打 席
打 数
得 点
安 打
二 塁 打
三 塁 打
本 塁 打
塁 打
打 点
盗 塁
盗 塁 死
犠 打
犠 飛
四 球
敬 遠
死 球
三 振
併 殺 打
打 率
出 塁 率
長 打 率
O P S
1997
COL
35
101
93
13
26
2
1
5
45
11
0
1
0
0
8
0
0
11
1
.280
.337
.484
.821
1998
152
595
530
78
167
37
1
25
281
97
3
3
1
5
53
5
6
54
15
.315
.380
.530
.910
1999
159
656
578
114
185
39
5
35
339
113
7
6
0
4
68
6
6
77
14
.320
.395
.587
.982
2000
160
697
580
138
216
59
2
42
405
147
5
3
0
10
103
22
4
61
12
.372
.463
.698
1.161
2001
159
696
587
132
197
54
2
49
402
146
7
5
1
5
98
15
5
104
14
.336
.432
.685
1.117
2002
156
667
553
107
182
39
4
30
319
109
5
1
0
10
99
21
5
91
10
.329
.429
.577
1.006
2003
160
703
583
135
209
49
5
33
367
117
0
4
0
7
111
21
2
72
19
.358
.458
.630
1.088
2004
154
683
547
115
190
49
2
32
339
96
3
0
0
6
127
19
3
72
12
.347
.469
.620
1.089
2005
144
626
509
92
163
45
2
20
272
76
3
0
1
1
106
22
9
80
14
.320
.445
.534
.979
2006
145
649
546
94
165
40
5
15
260
81
3
2
0
6
91
15
6
64
10
.302
.404
.476
.880
2007
154
682
557
86
178
42
2
17
275
91
0
1
0
7
116
16
2
74
15
.320
.434
.494
.928
2008
83
361
299
39
79
16
0
7
116
29
0
0
0
0
61
8
1
50
9
.264
.388
.391
.779
2009
151
645
544
79
177
38
3
15
266
86
0
1
0
10
89
5
2
73
15
.325
.416
.489
.904
2010
118
473
398
48
102
18
1
8
146
37
0
0
0
6
67
3
2
90
10
.256
.362
.367
.728
2011
124
491
421
59
127
27
0
14
196
69
0
1
0
8
59
5
3
71
6
.302
.385
.466
.850
2012
69
283
240
31
57
16
1
7
96
37
1
1
0
3
39
1
1
44
6
.238
.343
.400
.743
2013
124
442
397
41
99
22
1
15
168
61
0
0
0
5
40
1
0
87
4
.249
.314
.423
.737
MLB :17年
2247
9450
7962
1401
2519
592
37
369
4292
1406
37
29
3
93
1335
185
57
1175
186
.316
.414
.539
.953
年度別守備成績
年 度
球 団
一塁(1B)
左翼(LF)
右翼(RF)
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
1997
COL
8
68
10
0
7
1.000
13
14
2
0
0
1.000
2
2
0
0
0
1.000
1998
146
1164
146
7
156
.995
-
-
1999
156
1243
103
9
152
.993
-
-
2000
160
1326
149
7
143
.995
-
-
2001
157
1302
120
2
139
.999
-
-
2002
156
1357
113
7
138
.995
-
-
2003
159
1418
156
11
149
.993
-
-
2004
153
1356
144
4
130
.997
-
-
2005
144
1237
120
5
136
.996
-
-
2006
145
1367
87
4
156
.997
-
-
2007
153
1448
95
2
153
.999
-
-
2008
81
830
57
3
79
.997
-
-
2009
149
1349
96
3
115
.998
-
-
2010
115
932
77
8
116
.992
-
-
2011
119
985
104
3
110
.997
-
-
2012
67
566
57
2
53
.997
-
-
2013
110
941
92
2
96
.998
-
-
MLB
2178
18889
1726
79
2028
.996
13
14
2
0
0
1.000
2
2
0
0
0
1.000
タイトル
表彰
記録
背番号
脚注
関連項目
外部リンク
業績
1870年代 1880年代 1890年代 1900年代 1910年代 1920年代 1930年代 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1870年代 1880年代 1890年代 1900年代 1910年代 1920年代 1930年代 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
球団 歴代本拠地 文化 永久欠番 ワールドシリーズ敗退(1回) リーグ優勝(1回) できごと 傘下マイナーチーム