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マイケル・ブレント・カダイアー(Michael Brent Cuddyer, 1979年3月27日 - )は、アメリカ合衆国バージニア州ノーフォーク出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。
1997年のMLBドラフトでミネソタ・ツインズから1巡目(全体9位)指名を受け、8月19日に契約。
1998年は傘下のA級フォートウェイン・ウィザーズ(英語版)でプレー。遊撃手として122試合に出場したが、61失策と問題を残した。
1999年はA級フォートマイヤーズ・ミラクルでプレー。この年から三塁手にコンバートされた[1]。130試合に出場し、打率.298・16本塁打・82打点・14盗塁だった。
2000年はAA級ニューブリテン・ロックキャッツで138試合に出場し、打率.263・6本塁打・61打点・5盗塁だった。
2001年にはAA級ニューブリテンで開幕を迎え、9月18日にツインズとメジャー契約を結んだ。9月23日のクリーブランド・インディアンス戦でメジャーデビュー。8番・指名打者で先発起用され、2打数1安打1四球1三振だった。この年は8試合に出場し、打率.222だった。
2002年の開幕前にはルーキー・オブ・ザ・イヤーの筆頭候補としても名が挙がった。しかし、まだ守備に不安があり、打撃では変化球に弱点があったため結果を残す事ができず、正三塁手のコーリー・コスキーや正一塁手のダグ・ミントケイビッチからポジションを奪うには至らなかった。この年は41試合に出場し、打率.259・4本塁打・13打点・2盗塁だった。
2003年は開幕ロースター入りし、開幕後は右翼手として先発起用された。24試合に出場したが、打率.233と落ち込み、5月9日にAAA級ロチェスター・レッドウイングスへ降格した。8月31日に再昇格。この年は35試合に出場し、打率.245・4本塁打・8打点・1盗塁だった。
2004年は正二塁手のルイス・リバス(英語版)が5月に故障で離脱したため出場機会が増え、この年は115試合に出場した。打率.263・12本塁打・45打点・5盗塁だった。
2005年3月4日にツインズと1年契約に合意。前年オフにコスキーが移籍したため、開幕後は三塁に定着。126試合に出場し、打率.263・12本塁打・42打点・3盗塁だった。
2006年1月21日にツインズと130万ドルの1年契約に合意[2]。それまで右翼を守っていたジャック・ジョーンズがシカゴ・カブスへ移籍。カダイアーは、打撃に専念させる意味で外野へとコンバートされる。そして、チームの中軸でともに左打者のジョー・マウアー・ジャスティン・モルノーとの兼ね合いで4番に入る事が多くなった。シーズンを通しては自身初の20本塁打と100打点を記録し、オフの11月には英語教師をしている女性と結婚した。
2007年2月15日にツインズと375万5000ドル+出来高50万ドルの1年契約に合意[3][4]。この年は144試合に出場し、打率.276・16本塁打・81打点・5盗塁だった。
2008年1月25日にツインズと総額2400万ドルの3年契約(2011年・1050万ドルの球団オプション付き)に合意[5][6]。6月29日に左手人差し指の怪我で15日間の故障者リスト入りし、9月13日に復帰。長期離脱の影響で71試合の出場にとどまり、打率.249・3本塁打・36打点・5盗塁だった。
2009年は153試合に出場し、打率.276・32本塁打・94打点・6盗塁だった。オフの11月7日にツインズが2011年シーズン・1050万ドルの球団オプションを行使した[7]。
2010年は右翼手として開幕を迎えたが、7月にジャスティン・モルノーが故障で離脱したため、一塁でも起用された。この年は157試合に出場し、打率.271・14本塁打・81打点・7盗塁だった。
2011年は怪我人続出のツインズで唯一出場し続けた。また、この年キャリア11年目にして初めてオールスターにも出場した。この年のオールスターゲームはツインズからはこのカダイアーただ1人だった。7月25日のテキサス・レンジャーズ戦では大差でリードされた終盤に、ツインズの野手としては21年ぶりとなる公式戦登板を果たした。この年は139試合に出場し、打率.284・20本塁打・70打点・11盗塁だった。オフの10月30日にFAとなった。
2011年12月20日にコロラド・ロッキーズと総額3150万ドルの3年契約を結んだ[8][9]。
2012年は、ロッキーズ打線の中軸を担う戦力として期待されたが、8月19日にこのシーズン2度目の故障者リスト入りしてしまい[10]、101試合の出場に留まった。故障者リスト入りするまでの成績は、打率.260・16本塁打・58打点・8盗塁というもので、二塁打30本に関しては既に前年を上回っていた。この年は、主に右翼を守った。
2013年は、期待に応えられなかった前年とは打って変わり、ヒットを量産。自身2度目となるオールスターのメンバーに選出された。最終的には130試合に出場し、2年ぶりの規定打席到達を果たしたばかりか、打率.331を記録して自身初の打撃タイトルとなる首位打者に輝いた。また、打撃面での活躍が評価され、シルバースラッガー賞にも選出された。守備面では、右翼で守備防御点-16と散々だったが、拙守と前年の不振を補って余りある活躍ぶりだった。
2014年は、またしても戦線離脱を繰り返してしまい、2003年以来の少なさとなる49試合の出場に留まった。しかし、打率.332・OPS.955という成績は、いずれも首位打者に輝いた2013年を上回る数字であり、前年の打棒がまぐれでない事を証明。パワー面での10本塁打を含む計26本の長打を放ち、2試合未満で1本というハイペースで長打を生産した。オフの10月30日にFAとなった。その後ロッキーズは1年1530万ドルのクオリファイング・オファーを提示した[11]が、承諾しなかった。
2014年11月10日にニューヨーク・メッツと総額2100万ドルの2年契約を結んだ[12][13]。メッツでは117試合に出場したが、ヨエニス・セスペデスの加入やマイケル・コンフォルトの台頭もあり、ポジションはやや流動的な部分もあった。打撃面では打率.259・10本塁打・41打点・2盗塁という成績を記録、7年連続で二桁本塁打をクリアしたものの、過去2シーズンと比すると低調だった。守備で最も多く守ったのは左翼手(69試合)で、3失策・守備率.971・DRS - 3という内容だった。他には一塁手(18試合)と右翼手(6試合)も守っており、いずれでも無失策だった。
シーズン終了後、2年契約が1年残った状況ながら、故障を繰り返した事で自身の体に限界が訪れたとして、現役引退を表明した[14]。
2021年6月にU18 アメリカ合衆国代表(英語版)のアシスタントコーチに就任した[15]。
メインポジションは右翼手で、三塁手・一塁手・二塁手・左翼手・中堅手・投手のプレー経験がある。
ポール・モリターに似たコンパクトな速いスイングで、パワーもあり選球眼も悪くないが、ストライクゾーンを外れた外角の変化球には弱い。足は遅くはないが、走塁技術には難点がある。三塁手としては難のある捕球を強肩でカバーしていたが、外野手としては最短距離でボールに向かい、送球も正確で補殺も多い[1][16][17]。
手品が得意で、ツインズ時代はロッカールームなどでもチームメイト相手に手品を披露し、チームのムードメーカー的存在にもなっている。
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