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アンドリュー・ジェームズ・ヴァンスライク(Andrew James Van Slyke, 1960年12月21日 - )は、アメリカ合衆国・ニューヨーク州オナイダ郡ユーティカ出身の元プロ野球選手(外野手)。右投左打。
1979年のMLBドラフト1巡目(全体6位)でセントルイス・カージナルスから指名され、プロ入り。1983年はAAA級で打率.368・出塁率.445・長打率.582[1]の好成績を挙げ、6月17日のシカゴ・カブス戦でメジャーデビュー[2]。同年は打率.262・8本塁打・21盗塁の成績。1984年は打率.244・7本塁打に終わるが、出塁率.354・28盗塁を記録する。1985年は右翼手のポジションに定着し、打率.259・13本塁打・34盗塁を記録してチームの地区優勝に貢献。ロサンゼルス・ドジャースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.091に終わる[3]が、チームはリーグ優勝を果たす。カンザスシティ・ロイヤルズとのワールドシリーズでも打率.091と不振[3]で、チームも王手をかけてから3連敗を喫し3勝4敗で敗退した。1986年は打率.270・13本塁打・21盗塁の成績だった。
1987年開幕直前の4月1日にトニー・ペーニャとのトレードで、他2選手と共にピッツバーグ・パイレーツへ移籍した。同年は6月から中堅手に転向[4]。打率.293・21本塁打・82打点・34盗塁・11三塁打を記録し、打撃面で飛躍する。1988年はオールスターゲームに初選出される。打率.288・25本塁打・100打点・30盗塁、リーグトップの15三塁打の成績で、シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞を初受賞。以後1992年まで五年連続して同賞を受賞する。1987年頃には「自分がゴールドグラブ賞を獲るためには、3割30本100打点ぐらい打たないと無理だね」と語っていた。というのも、当時のナ・リーグのゴールドグラブ賞は殿堂入りの好打者トニー・グウィンや、強打者のアンドレ・ドーソン、エリック・デービス、デール・マーフィーらが「常連」であったからなのだが、打撃面の成長もあってか1988年から5年連続での受賞に結びついた。また、この年と1992年にはシルバースラッガー賞を受賞している。
当時のパイレーツは左翼手がバリー・ボンズ、右翼手がボビー・ボニーヤと強打者揃いで、その真ん中にあって好守・巧打と俊足を誇り、リーグ最強の外野陣の声もあがった(ただしボンズとは仲が悪く、試合中に口論をしたこともあった)。
1990年から1992年のチームのナ・リーグ東地区3連覇にも貢献するが、チームはこの間一度もワールドシリーズ出場はならなかった。1992年にリーグ最多の199安打を打って、自己最高の打率.324を記録。ボニーヤは1991年限りでニューヨーク・メッツへ、ボンズも1992年限りでサンフランシスコ・ジャイアンツにそれぞれフリーエージェントで移籍し、外野トリオも解体。バンスライク自身も1993年以後は成績が下降し、1995年にはボルチモア・オリオールズに移籍するが、わずか17試合に出場したのみでフィラデルフィア・フィリーズに再度移籍し、その年限りで現役を引退した。
2006年より、パイレーツ時代の監督ジム・リーランドが監督を務めるデトロイト・タイガースで一塁ベースコーチを務める。2006年にはリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズにも出場。2007年のオールスターでも一塁ベースコーチを務めた。2009年のシーズン終了後、タイガースを退団した。
2014年のシーズンよりシアトル・マリナーズのコーチを務めていたが、2015年オフに監督のロイド・マクレンドンらと共に解任された。
息子、アンディ・バンスライク・ジュニアとスコット・バンスライクはいずれもマイナーリーガーとなっている。アンディ・ジュニアはカージナルスのマイナー組織でプレイ。スコットは2012年にロサンゼルス・ドジャースでメジャー昇格し、親子メジャーリーガーとなった。
※1957年のみ、両リーグ合同で選出。ミノーソとケーラインはアメリカンリーグ所属選手。
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