チャールズ・コーンウォリス

初代コーンウォリス侯爵
チャールズ・コーンウォリス
Charles Cornwallis
チャールズ・コーンウォリス将軍
トマス・ゲインズバラ
生誕 1738年12月31日
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国
イングランドの旗 イングランドロンドン、グロブナー・スクェア
死没 1805年10月5日(66歳没)
ヴァーラーナシー藩王国英語版ガーズィープル
所属組織 イギリス陸軍
軍歴 1757年-1805年
最終階級 少将
戦闘

七年戦争

アメリカ独立戦争

第三次マイソール戦争
アイルランド反乱(1798年)
除隊後 インド総督アイルランド総督
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初代コーンウォリス侯爵チャールズ・コーンウォリス: Charles Cornwallis, 1st Marquess Cornwallis KG PC1738年12月31日 - 1805年10月5日)は、イギリス軍の将軍であり、世界各地植民地の総督を務めた。アメリカ合衆国イギリスでは、アメリカ独立戦争の時にイギリス軍を指揮した将軍の一人として強く記憶されている。

1781年ヨークタウンの戦いでアメリカ・フランス連合軍に、彼の指揮するイギリス軍が降伏したのが事実上の終戦と考えられることが多いが、実際にはその後も2年間は交戦状態が続いた[1]。このような敗北を経験したにも拘わらず、コーンウォリスはイギリス政府の信頼を繋ぎ止め、その活動的な経歴を続けた。インドでは総督を2度務め、永世統治法を定めたことでも知られる。アイルランド総督としてはカトリック解放を主張し、1798年のアイルランド反乱とフランスによるアイルランド侵略に対処した。また、イングランドとアイルランドの統合を進めた。

1753年から1762年まではブローム子爵、1762年から1792年まではコーンウォリス伯爵として知られ、その後に侯爵になった。

生涯

生い立ち

第5代コーンウォリス男爵チャールズ・コーンウォリス(後に初代コーンウォリス伯爵、1700年3月29日 – 1762年6月23日)と妻エリザベス(1785年12月1日没、第2代タウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンドの娘)の長男として、1738年12月31日にロンドングローヴナー・スクエア英語版で生まれた[2]

コーンウォリス家はアイルランド出身とも、コーンウォール出身ともされる[3]。一家は14世紀よりサフォークアイ英語版近くのブローム・ホール英語版Brome Hall)を本拠地とした[4]。1627年に準男爵に叙されたフレデリック・コーンウォリス英語版清教徒革命チャールズ1世に味方して戦い、その息子であるチャールズ2世とともに亡命したのち、1661年コーンウォリス男爵に叙された[4]。以降コーンウォリス男爵家は婚姻で有力者との繋がりを得た[4]。たとえば、コーンウォリス侯爵の父にあたる5代男爵は首相ロバート・ウォルポールの姪と結婚して、1753年にコーンウォリス伯爵に叙された[4]

七年戦争までの軍歴

コーンウォリスはまず1753年から1754年にかけてイートン・カレッジに通ったが[5]ホッケーをやっているときに事故でシュート・バリントン閣下英語版(のちのダラム主教英語版)から殴られ、目を怪我した[4]。この怪我はのちに治ったが、ものを見るときにやや歪みが生じ、常にいぶかしげな表情をするようになってしまった[3]。1755年12月31日にケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学したが[6]、1756年12月8日にグレナディアガーズエンサイン英語版(歩兵少尉)としての辞令を得てイギリス陸軍に入った[4]。軍人としての教育がここから始まり、プロイセン陸軍のド・ロギン(de Rougin)大尉と大陸ヨーロッパを旅行した後、トリノの陸軍士官学校で学んだ[4]

コーンウォリスのサイン

1758年夏、ジュネーヴ滞在中にグレナディアガーズがフェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルとの合流を命じられたと聞くと、連隊に合流しようとして失敗したのち、フェルディナントの本営に向かい、グレナディアガーズ本隊より6週間前に到着した[4][3]。命令の目的はハノーファー選帝侯領フランスオーストリア軍から守備することである[3]。そこでグランビー侯爵ジョン・マナーズ英語版エー=ド=カン英語版(副官)への任命を受け、1年ほど務めた[4]。在任中に七年戦争におけるミンデンの戦い(1759年)に参戦し、1759年8月に帰国した[4]。同年8月4日に第85歩兵連隊英語版の大尉に昇進[7]、1761年5月1日に第12歩兵連隊英語版の中佐に昇進、6月にはその指揮をとった[4]。以降ドイツを転戦し、同年7月15日のフィリングハウゼンの戦い、1762年のヴィルヘルムスタールの戦いルッターベルクの戦いに参戦した[4]。終戦後の1764年、大佐に昇進した[5]

政界入り

1760年1月のアイ選挙区英語版での補欠選挙において、無投票で庶民院議員に当選した[8]。アイはコーンウォリス伯爵家の懐中選挙区であり、ブローム子爵は1761年3月の総選挙においても無投票で再選した[8]。その後、1762年6月23日に父が死去すると、コーンウォリス伯爵位を継承して[2]、11月より貴族院議員を務めた[3]。1年半ほどの議員歴だったが、前述通りそのほとんどの時間をドイツでの戦闘に費やしており、議会活動は少ないとみられる[5]

貴族院ではホイッグ党に属する貴族とともに行動し、ビュート伯爵内閣に反対し[4]グレンヴィル内閣期には1765年印紙法に反対票を投じた[3](『英国議会史英語版』では大ピットを追随したとし[5]、『オックスフォード英国人名事典』ではロッキンガム侯爵派だとした[3])。1765年7月にホイッグ党内閣である第1次ロッキンガム侯爵内閣が成立すると、寝室侍従英語版と国王ジョージ3世の副官に任命された[4]。寝室侍従には8月に退任したが[5]、1766年3月に第33歩兵連隊英語版隊長に任命され、1805年に死去するまで務めた[4]。また、1765年印紙法の廃止にあたり、廃止に賛成したほか、イギリス本国の米州植民地への徴税権を主張する1766年宣言法英語版に反対票を投じた貴族5名のうちの1名だった[2][5]

ロッキンガム侯爵内閣は1766年8月に倒れ、コーンウォリス伯爵も国王副官を退任するが、友人で七年戦争の戦友だった第2代シェルバーン伯爵ウィリアム・ペティの影響を受け、グラフトン公爵内閣期にも与党にとどまった[2][4]。そのため、1767年1月12日に南トレント巡回裁判官英語版に任命され、1769年3月21日まで務めた[9]。シェルバーン伯爵が南部担当国務大臣を辞任すると、コーンウォリス伯爵も南トレント巡回裁判官を辞任した[4]。もっとも、それ以降も官職への任命は続き、1769年から1770年までアイルランド副大蔵卿英語版[5]、1770年11月21日より枢密顧問官、1770年から1784年2月までロンドン塔管理長官を務めた[2]。陸軍でも1775年10月21日に少将に昇進しており[10]、『英国人名事典』はこれらの任命からコーンウォリス伯爵がほかのホイッグ党指導者ほどジョージ3世に嫌われていないと推論している[4]。『オックスフォード英国人名事典』ではコーンウォリス伯爵が忌憚せずに意見を発表しつつも、国王と国への義務を最優先としたため、ジョージ3世から尊敬されたとしている[3]

アメリカ独立戦争

コーンウォリス伯爵はアメリカ独立戦争の遂行に政治家として反対したが、軍人としてはアメリカで軍を率いた[5]。伯爵は1776年2月12日に7個連隊を率いてコークを発ったが、5月3日にケープ・フィア英語版(現ノースカロライナ州の一部)に到着したときにはサー・ウィリアム・ハウボストンからハリファックス(Halifax)に撤退していた[3][4]

ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦

上官サー・ヘンリー・クリントン率いる第一次チャールストン包囲戦の失敗を経て[3]、クリントンとコーンウォリスは北に向かい、ニューヨーク市に対する方面作戦を指揮するウィリアム・ハウ将軍と合流した[4]。このとき、イギリス軍が再編され、ヘンリー・クリントンが第1師団、パーシー伯爵ヒュー・パーシーが第2師団の指揮官になり(2人ともに中将であった)、コーンウォリス伯爵は予備師団の指揮官になった[4]

コーンウォリス伯爵は8月27日から28日にかけてのロングアイランドの戦いジョージ・ワシントンに勝利し、ホワイト・プレインズの戦いを経て11月18日にもリー砦を占領したが、12月1日にニューブランズウィックラリタン川英語版岸で停止した[3]。この行動は賛否両論であり、コーンウォリス伯爵はハウからそれ以上前進しないよう命じられていたうえ、自軍が数週間にわたる追撃で疲れきっていると主張したが、一方でもう少し進めばワシントンを捕虜にできたとも批判されている[3]

トレントンとプリンストン

イギリス軍によるニューヨーク方面作戦とその後のニュージャージー占領後、コーンウォリスは軍隊が冬季宿営に入るために、イングランドへ戻る準備をしていた。しかし12月に出航準備をしているときに、ワシントンがトレントンを急襲した。このために帰国を取り消し、ハウからワシントン軍に対処するよう命じられた。当時クリントンはイギリスに居たので、コーンウォリスはハウの下に直接就いた。

コーンウォリスはニュージャージー中に散らばっていた守備隊を集めて、トレントンに移動させた。1777年1月2日、アッサンピンク・クリーク近くに陣を取ったワシントン軍と対峙した。その日の午後遅くに起こった第二次トレントンの戦いでは、ワシントン軍陣地を攻撃したがうまく行かなかった。翌日もワシントン軍攻撃を続けるために軍隊に準備させた。しかしその夜、ワシントン軍は抜け出してプリンストンのイギリス軍陣地を攻撃した。大陸軍がコーンウォリス軍との会戦をうまく避けたことについて、ワシントンがキャンプの火を焚かせ動きがあるように音を出させ続けるという策略を用いたことが功を奏したとされる一方で、コーンウォリスが大陸軍の動きを探る偵察部隊を送っていなかったことも災いした。

プリンストンの戦い後、ワシントン軍は北のモリスタウンに向い、イギリス軍はニューブランズウィックとパースアンボイを中心に守る冬季宿営に入った。この冬の間、大陸軍が物資を得られないようにし、自軍の補給のために略奪戦争と言われる襲撃に参加した。早春4月13日、コーンウォリスはバウンドブルックでベンジャミン・リンカーンの守備隊を攻撃して成功した。しかし、この成功も長続きせず、ハウはフィラデルフィアに対する方面作戦のためにその軍隊をニューヨーク市に戻すことに決めた。

フィラデルフィア方面作戦

コーンウォリスはハウの下に就いている間に、1777年のフィラデルフィア方面作戦で野戦指揮官として参戦した。ハウは一撃で戦争を終わらせることを期待してフィラデルフィアに対する攻勢を始めるつもりだった。コーンウォリスは軍隊中の軽歩兵部隊の指揮を任された。9月11日のブランディワインの戦いでは側面攻撃を担当し、大陸軍をその陣地から後退させることになった。10月4日のジャーマンタウンの戦いと11月20日のマーサー砦占領でも重要な役割を果たした。その後フィラデルフィアで冬季宿営に入った間に、コーンウォリスは重要な情報を持って遅れていた帰国の旅に出た。

コーンウォリスはフィラデルフィアに戻り、ハウに代わって総司令官になっていたクリントンの下に副指揮官として就いた。サラトガの戦いでイギリス軍のジョン・バーゴインの軍隊が降伏し、フランスが参戦した後で、イギリス軍はフィラデルフィアを占領していることを他所で必要とされる貴重な軍隊と資源を浪費していると見なすようになった[11]。コーンウォリスはフィラデルフィアからニューヨークへ陸路撤退するイギリス軍の殿軍を務め、1778年6月28日モンマスの戦いでは重要な役割を演じた。コーンウォリスはイギリス軍の後衛を急襲された後で、反撃を率い敵のそれ以上の前進を阻んだ。11月に再度イギリスに戻り、病気療養中の妻を見舞ったが、妻は1779年2月に死んだ。

南部戦線

コーンウォリスは1779年7月にアメリカに戻り、南部戦線でイギリス軍の中心的役割を担うことになった。この年の暮れ、クリントンとコーンウォリスはイギリス軍の大軍をアメリカ南部に送り、1780年春の第二次チャールストン包囲戦を始めた。これはベンジャミン・リンカーンが指揮する大陸軍の降伏に繋がった。この包囲戦に続いてワックスホーでエイブラハム・ビュフォードのバージニア連隊を潰した後、クリントンがニューヨークに戻ったので、コーンウォリスは南部の指揮官となった。

コーンウォリスは敵に対する徹底的な勝利を求める任務に直面しており、それはハウ将軍が北部で何度か勝利を上げながらも到達できなかったことだった[12]。これを成すために与えられた軍隊は、ニューヨークでクリントン配下の大部隊がワシントン軍をつけねらい続ける必要性のために限られたものになった。上官のクリントンからはアメリカ南部の植民地には数多くいると考えられたロイヤリストの支援を有効に使うように告げられた。コーンウォリス自身はクリントンやハウがやったよりも大胆で攻撃的な作戦を採ることを好んだ[12]。またロイヤリスト側を圧倒的に支持する黒人奴隷を、斥候、労働者および兵隊として徴募するという既に認められていたイギリスの政策を拡げてもみた。

1780年8月、コーンウォリス軍はホレイショ・ゲイツの指揮する敵の大部隊ではあるが実戦経験の無い軍と遭遇し、キャムデンの戦いで大きな損失を負わせた[13]。このことでサウスカロライナから敵軍を事実上一掃してしまい、敵の士気を大きく挫くことになった。この勝利はコーンウォリスの評判を高めたが、アメリカ反逆者軍の潰走はコーンウォリスの技術によるというよりもゲイツの失敗に多く拠っているものだった。コーンウォリスは抵抗勢力が無くなったと考え、北のノースカロライナへの進軍を始めた。ロイヤリストの支援を糾合しようと試みていたが、コーンウォリスとその軍隊から1日の行軍距離しか離れていない所で、ロイヤリストの大部隊がキングスマウンテンの戦いで敗北を喫し、また別の大きな分遣隊がカウペンスの戦いで大敗を喫したことで、重大な打撃を受けることになった。続いてナサニエル・グリーン将軍の下に再建された大陸軍とギルフォード郡庁舎の戦いで衝突した。コーンウォリスの軍隊はここで数的に勝る敵軍に銃剣突撃を掛けたことで、犠牲が多くて引き合わない勝利を得た。

コーンウォリスは補給のために海岸のウィルミントンにその軍隊を動かした。コーンウォリス自身、戦闘では概ね実績を挙げていたが、連続する移動と損失のために軍隊の勢力が弱まりまた疲れさせてもいた。グリーン軍はギルフォード郡庁舎の戦いで損失を受けた後も健在であり、ウィルミントンに向かうコーンウォリス軍を付け狙っていたが、その後サウスカロライナに入り、数ヶ月の間にその大半の支配を取り戻した。

コーンウォリスはウィルミントンで伝言を受け取り、ウィリアム・フィリップスとベネディクト・アーノルド各将軍の指揮で別のイギリス軍がバージニアに派遣されることを知ったので、この軍隊と合流しバージニアの大陸軍補給基地を攻撃する決断をした。

バージニア方面作戦

コーンウォリスはバージニアに到着するとフィリップス軍の指揮を引き継いだ。その部隊は直前までコーンウォリスの親友であるウィリアム・フィリップス少将が指揮していたが、フィリップスはコーンウォリスがピーターズバーグの陣地に到着する1週間前に死んでいた[14]。コーンウォリスはクリントンに自軍の動きを報せず行軍してきていたので(当時イギリス軍の2人の指揮官の通信は海上経由によっていたので極端に遅く、3週間を要することもあった[15])、北に移動したこととチェサピーク湾地域でアメリカ軍の補給基地を潰すことに携わるという伝言を送った。

コーンウォリス卿の降伏

1781年3月、アーノルドとフィリップスの軍による脅威に反応したワシントンはラファイエットに部隊を付けてバージニア防衛のために派遣した。この若いフランス人は指揮下に3,200名の部隊を持っていたが、バージニアにいるイギリス軍は総勢7,200名に上っていた[16]。ラファイエットは援軍を集めながらイギリス軍との会戦を避け、コーンウォリスとの小競り合いを続けた。この頃にクリントンからバージニア半島(当時の手紙ではウィリアムズバーグ・ネックと呼ばれていた)で陣地を選び、戦列艦を保護できるような要塞化した海軍基地を建設せよという命令を受けた[17]。コーンウォリスはこの命令を実行する間に罠に嵌ってしまう位置に自らを置いてしまった。ド・グラス伯爵が指揮するフランス艦隊とワシントンが指揮するフランス・アメリカ連合軍が到着するに及んで、コーンウォリスは自軍が遮断されたことを覚った。トマス・グレイブス提督が指揮するイギリス海軍がチェサピーク湾の海戦でフランス艦隊に敗れ、フランス軍攻城部隊がロードアイランドニューポートから到着すると、コーンウォリス軍の状態は耐え難いものになった。1781年10月19日、コーンウォリスはワシントン将軍とフランス軍指揮官ロシャンボー伯爵に対して降伏した[18]。コーンウォリスはワシントンと顔を合わせたくなかったので、降伏の日には病気と言ってチャールズ・オハラ准将を送り、儀礼通り剣を収めさせた。ワシントンは副司令官のベンジャミン・リンカーンにコーンウォリスの剣を受け取らせた。

イギリスへの帰還

チャールズ・コーンウォリス
チャールズ・コーンウォリス、ジョン・シングルトン・コプリー画

1782年、コーンウォリスは、ロンドンで囚われており同等の階級と考えられたヘンリー・ローレンスとの捕虜交換で釈放された[19]。コーンウォリスはベネディクト・アーノルドと共にイギリスに戻り、1月21日にイギリスに上陸したときに快哉を叫んだ[20]。アメリカの特に南部戦線で採用したコーンウォリスの戦術はロンドンの政敵達によって酷評された。しかしコーンウォリスは国王ジョージ3世とイギリス政府の信頼を保ち続けた。

コーンウォリス軍の降伏で戦争が終わったわけではなかったが、アメリカ大陸の戦場では最後の大きな戦闘となった。コーンウォリスは、戦争が継続していたにも拘わらず、即座に別の指揮に就くこともなく、独立戦争は1783年パリ条約で終わりを告げた。

帰国後もシェルバーン伯爵が政界における盟友であり[4]、1783年のフォックス=ノース連立内閣には野党の立場をとった[2]ウィリアム・ピット(小ピット)首相就任に際して、1784年1月にいったんロンドン塔管理長官を辞任したが、同年11月に再び任命を受けた[4]

1785年8月から9月にかけて、シュレージエンにおけるプロイセン王国陸軍の閲兵式へのイギリス代表としてプロイセンに渡った[4]

インド総督

1782年5月にインド総督およびインド駐留軍総指揮官への就任を打診され、1785年2月にも小ピットとヘンリー・ダンダスからインド総督就任を打診されたが、いずれも辞退している[4]。そして、3度目の打診になり、コーンウォリス伯爵は1786年2月23日に就任を許諾した[4]

1786年6月2日、ガーター勲章を授与された[2]。インドでは農地改革を実施し、イギリス軍とその管理機構を再編した。本国のウィリアム・ピット(小ピット)政権との結びつきを強めるようになり、国王ジョージ3世が病気から快復したことで安心したと本国に伝えて、そのことでチャールズ・ジェイムズ・フォックスに率いられる急進的な反対党が権力を握ることを妨げた[21]

マイソールとの紛争

マイソール王国の強力な王であるティプー・スルターンと紛争が繰り返された後、コーンウォリスは最終的にマイソール首都シュリーランガパトナを包囲して、第三次マイソール戦争を有利な講和で終わらせた。これによってイギリスによる南インド支配への道が固まった。

帰国

1792年10月8日、グレートブリテン貴族であるコーンウォリス侯爵に叙された[2][22]。その後、1793年10月10日にインドを発ち、1794年2月3日にイングランドに到着した[4]。インドでの時代はヨークタウンで蒙った汚名を返上させるには大いに力になった。

軍需総監

1795年2月に説得を受けて軍需総監英語版に就任し、閣僚になった[4]。閣内では唯一の将官であり、本国防衛の監督を担当した[4]

しかしインドではイギリス陸軍イギリス東インド会社に所属する軍人の間で不和が生じた[4]。すなわち、階級では陸軍が上であり、人事任命も陸軍出身者が優先されたことに対し、東インド会社所属軍人が不満を感じたのである[4]。ダンダスはコーンウォリスのインド行きを促し、コーンウォリスは1797年2月1日にインド総督およびインド駐留軍総指揮官への任命を受けたが、インド駐留軍総指揮官サー・ロバート・アバークロンビー英語版の機転と東インド会社理事会の譲歩により不満が和げられ、コーンウォリス侯爵がインドに行く必要がなくなった[4]

アイルランド総督

インド情勢が好転した一方、アイルランドではより緊迫した情勢になっており、1797年5月にもコーンウォリス侯爵のアイルランド駐留軍総指揮官就任の噂が流れ、アイルランド総督第2代カムデン伯爵ジョン・プラットがコーンウォリス侯爵に歓迎の手紙を書くほどだった[4]。このときは失言しなかったが、1798年5月には情勢がさらに悪化し、コーンウォリス侯爵はアイルランド総督および駐留軍総指揮官への就任を求められて受諾した[4]。そして、1798年6月に正式に任命を受けた[23]

それはアイルランド共和派とイギリス政府との間に反乱が起こったあとだった。その任官は、前任者のカムデン伯爵を好んでいたアイルランドの貴族達には暖かく迎えられなかった。彼等はコーンウォリスが圧倒的にカトリックの反乱者に対して寛容な同情を抱いていると疑っていた。しかし、コーンウォリスはアイルランド長官のカースルレー子爵と良好な協働関係を作り上げた。

コーンウォリスは総督と総司令官双方の役割を組み合わせて、アイルランドの反乱者とハンベール将軍に率いられて1798年8月にコノートに上陸したフランス侵略軍の双方を打ち負かすことになった。フランス軍の上陸とカースルバーでのイギリス軍の敗北によって恐慌に陥ったイギリスは数千の援軍を派遣したので、アイルランドの軍隊は6万名にまで脹れ上がった[24]。フランス侵略軍はバリナマックの戦いで敗北し、降伏を強いられた。その年の秋、コーンウォリスは島全体の統制を取り戻し、アイルランド統一党の残党の動きを抑圧した。

コーンウォリスはダブリンの南にまで反乱者を潰走させるために、ウィックローでの軍事道路建設を命じた。これは抵抗勢力の最後の地域を掃討する長く続いた作戦の一部であり、コーンウォリスが1801年に離任するまで続いた。1800年にアイルランド議会グレートブリテン王国アイルランド王国を統合しグレートブリテン及びアイルランド連合王国を創ることになる合同法を成立させたとき、コーンウォリスはその提唱者でもあった。

1801年にカトリック解放をめぐり小ピットが首相を辞任すると、コーンウォリス侯爵は即座にアイルランド総督と軍需総監を辞任し、同年2月の手紙で「アイルランドにおける迫害と排除の制度を守るような、国益と国防も知らないような政権につくことはできない」と述べた[4]。もっとも、コーンウォリス侯爵は後任のハードウィック伯爵が到着するまでアイルランドにとどまった[4]

アミアンの和約

アミアンの和約交渉時のコーンウォリスの功績を記念する貨幣、1802年

1801年5月にアイルランド総督を退任した後、コーンウォリス侯爵はサフォークカルフォード英語版の邸宅に戻り、政界から引退したが、1801年7月にコルチェスターを任地とする東部軍英語版総指揮官に任命され、さらに同年10月にフランス革命戦争におけるフランス統領政府との講和交渉でのイギリス代表に任命された[4]

コーンウォリス侯爵は11月3日にドーバーを発ち、パリで第一統領ナポレオン・ボナパルトに謁見したのち、アミアンでフランス代表ジョゼフ・ボナパルトとの交渉を始めた[4]。コーンウォリス侯爵には外交官としての経験がなく、フランス語をあまり覚えておらず、交渉では度々タレーランの助言を受けたジョゼフに太刀打ちできなかった[4]。しかし両国ともに講和に前向きだったため、最終的には1802年3月27日にアミアンの和約が調印された[4]。この条約により、バタヴィア共和国はイギリスにセイロン植民地を、スペインはイギリスにトリニダード島を割譲し、イギリスはそれ以外に占領した植民地から撤退した[4]。それ以外の問題はうやむやにされ、講和というよりは休戦条約に近かった[4]

2度目のインド総督と死去

ガーズィープルにあるコーンウォリスの墓

フランスから帰国したコーンウォリス侯爵は再びカルフォードに戻ったが、1805年に三たびインド総督に任命された[4]。インド総督は66歳の侯爵にとって厳しい仕事だったが、それでも侯爵は責任感をもって受諾し、同年3月にイングランドを発ち、7月29日にカルカッタに上陸した[4]

このとき、インドでは第二次マラーター戦争の最中であり、ムクンドワラ峠の戦いでウィリアム・モンソン(William Monson)がホールカル家に敗北したとの報せが届いた[4]。そのため、コーンウォリス侯爵は直ちにホールカル家とシンディア家と講和すべきだと判断し、より戦場に近づくようガンジス川を上ったが、9月19日に最後の手紙を出したのち健康が悪化した[4]。そして、ガーズィープルで一旦上陸したが、回復しないまま10月5日に死去した[4]。息子チャールズが爵位を継承した[2]

ガーズィープルではコーンウォリス侯爵の記念碑が立てられ、マドラスボンベイにはコーンウォリス侯爵の彫像が立てられた[4]。また東インド会社理事会が4万ポンドをコーンウォリス侯爵の遺族に贈った[4]

遺産

今日、コーンウォリスはヨークタウンで降伏したイギリス軍指揮官として主に記憶されている。この包囲戦とその結果がアメリカ史に与えた影響が大きかったので、アメリカ合衆国でも良く知られており、大衆文化の中で言及されることも多い。ジョン・ペンドルトン・ケネディによる1835年の小説『ホースシュー・ロビンソン』では、アメリカ独立戦争の南部戦線を背景にした歴史小説という設定になっており、コーンウォリスが登場して小説の中の登場人物と交流する。コーンウォリスは礼儀正しい人物として描かれているが、自軍の中で能力不足とされた者や、敵の捕虜に対する残酷な処置について寛容であり、支持すらしている。2000年の映画『パトリオット』では、ヨークタウンに繋がる出来事を追っており、コーンウォリスの役はイギリス人俳優のトム・ウィルキンソンが演じた[25]

アイルランドではバリナマックの戦い後に、バリナリーで反乱者の捕虜を処刑したために、今日まで続く悪評を得た。レンスター地方北部のロングフォード県にある村落では、処刑の場所がベリーズエーカーと呼ばれている。

インドではマイソール戦争中にナンディヒルズでティプー・スルターンを破ったことで知られており、また歳入と司法権法を発布したことでも知られている。さらにインドではその残酷さと狡猾さでも知られている。

1786年プリンス・オブ・ウェールズ島ジョージタウン(現在のマレーシアペナン州)に設立されたコーンウォリス砦は彼に因む命名である。

カンタベリーケント大学の建物およびサフォークのロイヤル看護学校寮にはコーンウォリスの名前が付けられている。ロンドンのセント・ポール大聖堂にはコーンウォリスの大きな彫像がある。

家族

コーンウォリス伯爵夫人ジェマイマ、1771年画。

1768年7月14日、ジェマイマ・タリケンズ・ジョーンズ(Jemima Tulikens Jones、1747年[3] – 1779年4月14日、ジェームズ・ジョーンズの娘)と結婚[2]、1男1女をもうけた[26]

恋愛結婚であり、ジェマイマが軍人の娘で持参金は持たなかったが、2人は仲が良かった[3]

出典

  1. ^ Harvey p.526
  2. ^ a b c d e f g h i j k Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 455–456.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n Bayly, C. A.; Prior, Katherine (22 September 2011) [23 September 2004]. "Cornwallis, Charles, first Marquess Cornwallis". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/6338 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw Stephens, Henry Morse (1887). "Cornwallis, Charles (1738-1805)" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 12. London: Smith, Elder & Co. pp. 234–241.
  5. ^ a b c d e f g h Brooke, John (1964). "CORNWALLIS, Charles, Visct. Brome (1738-1805).". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年12月29日閲覧
  6. ^ "Cornwallis, Charles, Viscount Brome. (CNWS755C)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
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  9. ^ Sainty, John Christopher (November 2002). "Justices in Eyre 1509-1846". Institute of Historical Research (英語). 2003年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月29日閲覧
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  13. ^ Harvey p.424-427
  14. ^ Wickwire (1970)[要ページ番号]
  15. ^ Cornwallis Papers, Public Record Office the dates of receipt throughout this period of the war are usually two to three weeks after the date of dispatch
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  17. ^ Clinton to Cornwallis, 15 June 1781, Cornwallis Papers, Public Record Office
  18. ^ Unger pp.158-9
  19. ^ Bicheno p.265
  20. ^ Weintraub p.315
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  22. ^ "No. 13450". The London Gazette (英語). 14 August 1792. p. 635.
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伝記

一次史料

  • Public Record Office, United Kingdom: Cornwallis Papers, Ref: 30/11/1-66
  • The Correspondence of Charles, First Marquis Cornwallis, Vol. 1, 1859, ed. Ross.

二次史料

  • Bicheno, H: Rebels and Redcoats: The American Revolutionary War, London, 2003
  • Harvey, R: A Few Bloody Noses: The American War of Independence, London, 2001
  • Harvey, R: War of Wars: The Epic Struggle Between Britain and France 1789-1815, London, 2007
  • Hibbert, C: Rebels and Redcoats: The American Revolution Through British Eyes, London, 2001
  • Hibbert, C: King George III: A Personal History,
  • Unger, H.G:Lafayette, New York, 2002
  • Weintraub, S: Iron Tears, Rebellion in America 1775-1783, London, 2005
  • Wickwire, F: Cornwallis, The American Adventure, Boston, 1970

外部リンク

公職
先代
クレア子爵
アイザック・バレー英語版
アイルランド副大蔵卿英語版
1769年 - 1770年
同職:クレア子爵
次代
クレア子爵
ジョージ・エッジカム閣下英語版
先代
ジョン・マクファーソン英語版
ベンガル総督
1786年 - 1793年
次代
テインマス男爵
先代
リッチモンド公爵
軍需総監
1795年 - 1801年
次代
チャタム伯爵
先代
カムデン伯爵
アイルランド総督
1798年 - 1801年
次代
ハードウィック伯爵
先代
ウェルズリー侯爵
インド総督
1805年
次代
サー・ジョージ・バーロウ準男爵英語版
司法職
先代
モンソン男爵英語版
巡回裁判官(南トレント)
1767年 - 1769年
次代
サー・フレッチャー・ノートン
外交職
空位
最後の在位者
ゴア伯爵
在フランスイギリス大使
1801年 - 1802年
次代
ウィットワース男爵
軍職
先代
ジョン・グリフィン英語版
第33歩兵連隊英語版隊長
1766年 – 1805年
次代
アーサー・ウェルズリー閣下
先代
ロバート・スローパー卿
インド総司令官
1786年 - 1793年
次代
ロバート・アバークロンビー
先代
ラルフ・アバークロンビー
アイルランド総司令官
1798年 - 1801年
次代
ウィリアム・メドーズ
先代
レイク男爵英語版
インド総司令官
1805年
次代
レイク男爵英語版
名誉職
先代
ストラットンのバークリー男爵
ロンドン塔長官
タワー・ハムレット統監

1771年 - 1784年
次代
ジョージ・レノックス卿
先代
ジョージ・レノックス卿
ロンドン塔長官
タワー・ハムレット統監

1784年 - 1805年
次代
モイラ伯爵
グレートブリテンの爵位
爵位創設 コーンウォリス侯爵
1792年 - 1805年
次代
チャールズ・コーンウォリス
先代
チャールズ・コーンウォリス
コーンウォリス伯爵
1762年 - 1805年