サルデーニャ王国
Rennu de Sardigna (サルデーニャ語) Regno di Sardegna (イタリア語) Royaume de Sardaigne (フランス語)
国の標語: Foedere et Religione Tenemur 我等、法と神によって守られん 国歌 : S'hymnu sardu nationale(サルデーニャ語) サルデーニャの国歌 1850年
サルデーニャ王国 (サルデーニャおうこく、サルデーニャ語 : Rennu de Sardigna 、イタリア語 : Regno di Sardegna )は、13世紀から19世紀にかけて存在したヨーロッパの国家である。領土は現在のイタリア とフランス にまたがり、サルデーニャ島 、ピエモンテ 、サヴォワ とニース 伯領(アルプ=マリティーム県 )を統治した。その存続期間の大半において、王国の本拠はサルデーニャ島ではなく大陸のピエモンテにあり、首都はトリノ であった。
サヴォイア家 が支配するこの王国は、19世紀のイタリア統一運動 (リソルジメント)において中核となり、近代イタリア王国 の前身となった。
本項ではサヴォイア家以前の「サルデーニャ王」についても略述する。
概要
「サルデーニャ王」の称号は中世に登場し、その領土は名目上「サルデーニャ王国」となった。13世紀末以降、サルデーニャはイベリア半島 のアラゴン王国 (のちにスペイン王国)によって事実上の植民地として支配された。
サヴォイア(現在はフランス領のサヴォワ )から興ったサヴォイア家 (サヴォイア公国 )は、1720年 にシチリアと交換する形でサルデーニャの領土を獲得し、サルデーニャ王国を称した。サヴォイア家は従来通り大陸を本拠とし、ピエモンテのトリノ を首都としたことから、「ピエモンテ王国 」とも呼ばれる。ナポレオン戦争 期には大陸領土を失陥し、サルデーニャ島のみを支配する国家となって、カリャリ に本拠を移した。
1815年 、ウィーン会議 によりジェノヴァ共和国 をふくむ旧領を回復。1860年 に一応のイタリア統一を果たし、1861年 にイタリア王国 の建国が宣言された。
歴史
前史: 18世紀以前のサルデーニャ
「サルデーニャ王」の称号
東ローマ帝国 の支配が名目化した後、サルデーニャにはカリャリ、トッレス、ガッルーラ、アルボーレアの4つの「裁判区」(giudici)と呼ばれる自治区が形成されるが、これらを治めた「裁判官」(giudice)の中には、神聖ローマ皇帝 から「サルデーニャ王」として承認される者もいた。しかし、中世に在地勢力からサルデーニャ全島の実効支配を達成した人物はなかった。11世紀以降、サルデーニャにピサ とジェノヴァ の勢力が侵入し、両市による植民化が進む。
1297年 、ローマ教皇 ボニファティウス8世 は、アラゴン国王 ハイメ2世 に対して、シチリア王国 に関する権利を放棄してアンジュー家 に返還するよう迫ったが、その見返りとしてサルデーニャ「王国」をコルシカ とともに授封した(サルデーニャ国王 ジャコモ1世)。この返還はその後、事実上無効化されたが、両島の授封については1302年 のカルタベロッタの和約 で追認された。
ハイメ2世は1323年 からサルデーニャへの侵攻を開始したが、先住民やジェノヴァ人、ピサ人たちの抵抗に遭い、征服は進まなかった。しかし、その後1世紀近くにわたる抗争のうちに、ジェノヴァやピサの勢力は衰退し、アラゴン=カタルーニャ連合王国 による支配が確立していった(コルシカはジェノヴァの勢力下にとどまった)。以後、サルデーニャは名目上アラゴン連合王国の一王国として、実態はカタルーニャ人 の植民地として支配され、スペイン王国の成立後もこの状況が続いた。
スペイン継承戦争とサルデーニャ島
1700年にスペイン・ハプスブルク家 が断絶すると、スペインにブルボン家 の王を送り込んだフランス と、ハプスブルク家 の同族であるオーストリア とが争い、ヨーロッパ諸国を巻き込んでスペイン継承戦争 (1701年 - 1714年 )が勃発した。サヴォイア公 ヴィットーリオ・アメデーオ2世 は、当初フランス側で参戦したが、途中でオーストリア側に転じている。
1713年 に結ばれたユトレヒト条約 で、サルデーニャ島 はスペインからオーストリアに、シチリア島はスペインからサヴォイアに割譲された。ヴィットーリオ・アメデーオ2世はシチリア王 (1714年 - 1720年 )となった。
しかし、スペインは旧領回復を目指してサルデーニャ島とシチリア島を占領し、四カ国同盟戦争 (1718年 - 1720年 )が勃発した。イギリス・フランス・オランダ・オーストリアの四国同盟 に対して敗勢に回ったスペインは、1720年にハーグ条約 を結んで和平に至った。この戦争ではシチリア島とその周辺の海上で同盟軍とスペインとの戦闘が展開された。サヴォイアは遅れて同盟に加わったため、大きな役割は果たさなかった。
サヴォイア家のサルデーニャ王国
1796年のイタリア(サルデーニャ王国は青)
サルデーニャ王国の成立
1720年 、ヴィットーリオ・アメデーオ2世は、シチリア島をオーストリア のカール6世 に割譲し、その代償としてオーストリアからサルデーニャ島 を割譲された。ヴィットーリオ・アメデーオ2世はサルデーニャ王の称号を得、「サルデーニャ王国」を成立させた。
ポーランド継承戦争 (1733年 - 1738年)では、フランス・スペインに与して参戦し、ロンバルディア を支配するオーストリアと戦った。
フランス革命・ナポレオン戦争
フランス革命戦争 に際しては、フランス革命政府から反オーストリア同盟を締結する提案を受けたが、代償としてサヴォワ ・ニース の割譲を要求されたため、1792年 9月より同盟を拒否してオーストリア側で参戦した。しかし、まもなくフランス軍に敗北。1796年 4月28日 にケラスコの休戦を結び、サヴォイア(サヴォワ )、ニッツァ(ニース )、クーネオ 、テンダ(現在仏領)などをフランス に割譲した。1798年 には、カルロ・エマヌエーレ4世 がトリノから追放され、ピエモンテにはピエモンテ共和国 が成立し、後にフランスに併合される。カルロ・エマヌエーレ4世はサルデーニャ島に拠点を移した。
1802年 、ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世 が即位、近代化政策を進めた。
1815年 、ウィーン会議 の決定に従って、フランス革命戦争 及びナポレオン戦争 で失った領土の回復を果たした。また、この際にジェノヴァ を併合した。
1821年 3月、自由主義将校団を中心とした立憲革命が勃発した。王家の一門貴族であるカリニャーノ公 カルロ・アルベルト (のちに国王となる)の理解を得て立憲制への移行が実現しようとしたが、革命の方針をめぐる内部分裂もあり、オーストリア の軍事干渉を受けて失敗した。
イタリア統一への道
1839年のサルデーニャ王国
カヴール首相。サルデーニャの近代化に尽力。
1831年 、カルロ・フェリーチェ が子のないまま死去し、サヴォイア本家(サヴォイア=ブレッセ家 )は男子継承者を失った。このため傍系のカリニャーノ公 カルロ・アルベルト が王位を継承した。カルロ・アルベルトは近代化政策を進めたが、一方で絶対主義的君主として振る舞い、1833年 には青年イタリア に弾圧を加えている。
1848年 、フランスの二月革命 を契機としてヨーロッパ各地で自由主義 ・ナショナリズム が高揚した(諸国民の春 )。北イタリアでも反オーストリアの反乱が勃発する(ミラノの5日間 など)。カルロ・アルベルトはこれに乗じてオーストリアに宣戦し、ロンバルディア 地方の併合を図った(第一次イタリア統一戦争 )。しかし、共和派との反目などがあり、ヨーゼフ・ラデツキー 率いるオーストリア軍に敗北した。権威を失墜させ、1849年に、カルロ・アルベルトは退位と亡命を余儀なくされた。
父カルロ・アルベルトの退位によって即位したヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 は、1852年 、首相としてカヴール伯爵カミッロ・ベンソ を登用した。
イタリアの多くの国家が1848年 の熱狂を経て反動化したのに対し、サルデーニャでは自由主義的な憲法 が維持され、教育の充実・工業化の推進・交通網の整備など、一連の近代化政策が推進された。このことはイタリア各地の人々に、立憲君主制 国家であるサルデーニャを中心としたイタリア統一への支持を強めさせることになった。
しかし、サルデーニャを強国にするためには、当時の大国と同盟関係を結ぶことが必要であった。その上で、経済的にも豊かなロンバルド=ヴェネト (オーストリア帝国領)を併合することが望まれた。そのため、東方で起こっていたクリミア戦争 ではオスマン帝国 側で参戦し、フランス・イギリスの歓心を得て、イタリア統一に向けて有利な国際関係を構築していった。
1858年 、サルデーニャはプロンビエールの密約 をフランス と結び、対オーストリア戦争に向けての外交的準備は整った。1859年 4月29日 よりサルデーニャとオーストリアの戦争が開始され(第二次イタリア独立戦争 )、フランス軍の援助を受けてソルフェリーノの戦い で勝利を収めてロンバルディア とヴェネト の一部を手に入れた。中部イタリアでは、パルマ公国 ・モデナ公国 ・トスカーナ大公国 でサルデーニャ王国への合流が選択された(中央統合諸州 )。
1860年 には、ガリバルディ の義勇軍(千人隊 、あるいは赤シャツ隊 )が南イタリアの両シチリア王国 を征服した。しかし、中央統合諸州の編入に際して、フランスがプロンビエールの密約の履行を要求したため、サヴォワ とニース 伯領(アルプ=マリティーム県 )の割譲を余儀なくされる。1860年 10月26日 、ガリバルディとヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の会見(テアーノの握手 (イタリア語版 ) )で、ガリバルディは彼に従う兵士に「ここにイタリア国王がおられるのだ!」と告げ、占領地をサルデーニャ王国に献上した。
1861年 、トリノに召集された第1回イタリア国民議会は、2月18日 にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のイタリア王即位を承認。3月17日 、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のイタリア王即位が正式に宣言された。ここに、サルデーニャ王国はイタリア王国 となる。
歴代国王
ヴィットーリオ・アメデーオ2世 (1720年 - 1730年 )
カルロ・エマヌエーレ3世 (1730年 - 1773年 )
ヴィットーリオ・アメデーオ3世 (1773年 - 1796年 )
カルロ・エマヌエーレ4世 (1796年 - 1802年 )
ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世 (1802年 - 1821年 )
カルロ・フェリーチェ (1821年 - 1831年 )
カルロ・アルベルト (1831年 - 1849年 )
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 (1849年 - 1861年 ) → イタリア国王 へ
脚注
注釈
出典
参考文献
イタリアに存在した国
古代 中世前期 中世盛期から近世
近代
現代