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アンリ4世 (フランス語 : Henri IV 、1553年 12月13日 - 1610年 5月14日 )は、ブルボン朝 初代のフランス 国王 (在位:1589年 8月2日 - 1610年 5月14日 )、およびナバラ 国王 エンリケ3世 (バスク語 : Henrike III.a 、在位:1572年 6月9日 - 1610年 5月14日 )。
ユグノー戦争 で叔父コンデ公 ルイ が戦死したため、年少にしてユグノー の盟主となる。1572年 、自身の婚礼に際して企てられたサン・バルテルミの虐殺 に遭遇したが、カトリック に改宗して難を避け、1576年 に脱走して再びプロテスタントに復帰し、1589年 のアンリ3世 の暗殺により王位を継承する。その後再度カトリックに改宗して国内を平定し、1598年 にナントの勅令 を発布してカトリックとユグノーとの国内融和に努め、40年近くにわたる戦争を終結させた。戦後は戦争によって疲弊した国家の再建を行ったが、1610年 に狂信的なカトリック信者によって暗殺 (フランス語版 ) された。在位中から現代に至るまでフランス国民の間で人気の高い王の一人で、大アンリ (Henri le Grand)、良王アンリ (le bon roi Henri)と呼ばれる。1959年 から発行された50フラン 紙幣において肖像が採用されていた。
生涯
幼少期
ブルボン家 のヴァンドーム公アントワーヌ を父に、フランス王フランソワ1世 の姪であるナバラ女王 ジャンヌ・ダルブレ を母に、ナバラ領のポー で生まれた。
母ジャンヌは熱心なユグノー(カルヴァン主義 プロテスタント)であり、その影響で父もプロテスタントに帰依していた。当時のフランスではユグノーが勢力を増してカトリックとの対立が高まり、有力な王位継承権を持つ家柄であるブルボン家当主の父がこのユグノーの盟主となっていた。
1559年 にアンリ2世 が事故死し、フランソワ2世 が即位する。フランソワ2世の治世下では王妃マリー・デコス(スコットランド女王 メアリー・ステュアート )の親族であるギーズ家 が権勢を振っており、ギーズ公 フランソワ は熱狂的なカトリックだった。宗派間の対立が高まり、ギーズ公は1560年 のアンボワーズの陰謀 事件で多数のプロテスタント貴族を粛清している。
フランソワ2世は1560年 に早世し、弟シャルル9世 が即位する。本来ならブルボン家当主のアントワーヌが摂政を務めることになるが、この時は母后カトリーヌ・ド・メディシス が摂政に就任し、アントワーヌは王国総代官(軍最高司令官職)となった[ 1] 。翌1561年 に7歳のアンリは父に呼び寄せられて宮廷に入った[ 2] 。摂政カトリーヌはカトリックとプロテスタントの融和を図るものの、対立は更に激化してしまい、その最中に父がカトリックに寝返り改宗してしまう。熱心なプロテスタントの母ジャンヌは宮廷を去り、幼いアンリはカトリックに強制的に改宗させられた[ 3] 。
ユグノー戦争
1562年 、ギーズ公のユグノー虐殺事件 を契機にユグノー戦争 が勃発する。プロテスタント信仰に忠実な叔父のコンデ公 ルイ1世 がユグノー陣営の盟主となり、母もこれに加わった。一方、改宗した父はカトリック陣営の司令官として戦うが、ルーアン 包囲戦で戦死してしまい、幼いアンリがブルボン家の当主となった。
1563年 2月にギーズ公がプロテスタントの刺客に暗殺、3月にアンボワーズの和議が成立して戦争は一旦終わる。1564年 、シャルル9世と王太后カトリーヌが全国巡幸に出発し、アンリもこれに随行した。この巡行中にサロン=ド=プロヴァンス に立ち寄った際、著名な占星術師 ノストラダムス からアンリが将来国王になると予言された逸話が伝わる[ 4] 。
1567年 に和平は破綻し、再び戦争が始まる。アンリは母にベアルン へ連れ帰され、ユグノー陣営に加わった[ 5] 。ベアルンでカトリックの反乱が起こると、アンリは初めて軍隊の指揮を執り、見事に撃退している[ 5] 。アンリは母と共にユグノーの本拠地ラ・ロシェル に入った。1568年 、ジャルナックの戦い でユグノー盟主の叔父コンデ公が戦死してしまう。このため若いアンリが盟主となり、軍隊の指揮はガスパール・ド・コリニー 提督が執ることになった。戦争ではユグノーは苦戦するものの、やがて有能なコリニー提督の指揮の下で勢いを盛り返し、1570年 に和議が成立して終わった。
王太后カトリーヌはカトリックとプロテスタントとの融和のため、アンリと王妹マルグリット との婚姻を提案する。母は両人の宗派の違いから悩むが、最終的にはこの婚姻に同意した[ 5] 。この結婚同意から程ない1572年 6月に母が急死、アンリはナバラ王位を継承した(アンリ・ド・ナヴァール、スペイン名でエンリケ3世)。
サン・バルテルミの虐殺
同年8月18日 、アンリは王妹マルグリットとの結婚式を挙げる。ところが8月24日 、結婚式参列のためパリ に集まっていたコリニー提督をはじめ多くのユグノー貴族がカトリック派のギーズ公アンリ1世 の兵によって虐殺 された。カトリックは貴族だけでなくプロテスタントの民衆まで無差別に虐殺を始め、数千人が殺された。虐殺はフランス各地にも広がり、死体がパリ市内の至る所に放置される中で、アンリは従弟のコンデ公アンリ1世 とともに強制的にカトリックに改宗させられ、宮廷に幽閉された。
虐殺を契機に戦争が再開すると、アンリはカトリック側で参戦している[ 6] 。途中休戦を挟みつつ戦争が続く中、1574年 にシャルル9世が死去する。弟アンリ3世 は前年の1573年にポーランド の国王に迎えられていたが、兄の訃報を受けるとただちにポーランドを出奔して帰国し、フランス王に即位した。
アンリは幾度かの宮廷脱出の試みの失敗[ 7] の後、1576年 2月3日 の狩猟大会中に逃走に成功する[ 8] 。その後しばらく戦争の情勢を観望したアンリは、同年5月にユグノー有利の和議が成立すると6月13日 にプロテスタントに再改宗し、ユグノー陣営の盟主となった[ 8] 。
即位と王国平定
アンリ3世とナバラ王アンリの和解
カトリック陣営はギーズ公アンリを首領とするカトリック同盟 を結成して巻き返し、またも戦争が再開する。1584年 、王弟アランソン公フランソワ の死に伴い、ナバラ王アンリは筆頭王位継承権者 となった。宗教戦争にフランス王位継承問題もからみ、アンリ3世とカトリック同盟のギーズ公アンリ、そしてユグノー盟主のナバラ王アンリによる、三アンリの戦いと呼ばれる様相を呈するようになった。
危機感を覚えたギーズ公は、アンリ3世に圧力をかけて1585年 にヌムール勅令 を出させ、ナバラ王アンリの王位継承権を無効とさせる。ローマ教皇 シクストゥス5世 もこれに同調する教書を出す。不利になったナバラ王アンリだったが、穏健派カトリック貴族の協力を得て、1587年 のクートラの戦い ではカトリック軍に大勝することに成功している[ 9] 。
アンリ3世は交渉による和平を模索するが、1588年 5月にパリで起こったバリケードの日 事件を契機としてギーズ公はアンリ3世に、自らの推すブルボン枢機卿シャルル (ナバラ王アンリの叔父)を王位継承者と認めさせることに成功し、カトリック側が優位に立った。だが、巻き返しを図るアンリ3世は同年12月、ギーズ公とその弟ギーズ枢機卿ルイ を暗殺 (英語版 ) した。カトリック同盟と敵対したアンリ3世はナバラ王アンリのユグノー軍と合流して、カトリック同盟の本拠地パリの奪回を図るが、1589年 8月にアンリ3世もまた熱狂的なドミニコ会 士の凶刃に倒れた。
アンリ3世は死の床にナバラ王アンリを呼んで王位を託し、同時にカトリックへの改宗を勧めた[ 10]
。8月2日、アンリ3世が死去してヴァロワ朝 は断絶した。35歳のナバラ王アンリがフランス王位を継承してアンリ4世となり、新たにブルボン朝が開かれることになる。
イヴリーの戦い
しかし、スペイン の後ろ盾を持つカトリック同盟はローマ教皇から破門 されていたアンリ4世を認めず、ギーズ公の弟のマイエンヌ公シャルル を盟主に擁立、ブルボン枢機卿に「シャルル10世」を称させて新国王に擁立し、アンリ4世に戦いを挑んだ[ 11] 。アンリ4世は各地を転戦してカトリック同盟と戦いつつパリ攻略を目指すが、頑強な抵抗を受け容易に陥落できなかった。一方、1590年 にブルボン枢機卿が死去したためカトリック同盟も決め手を欠いていた。
アンリ4世は、カトリック信者が圧倒的なパリがプロテスタントの王を受け入れることがないと悟った。1593年 7月にアンリ4世は寵妃ガブリエル・デストレ へ「とんぼ返りを打つことにする」と手紙を書き送っている[ 12] [ 13] 。同年7月25日 、アンリ4世はサン=ドニ大聖堂 で司祭の祝福を受けてカトリックに改宗した[ 14] 。巷間知られるところによれば「Paris vaut bien une messe 」(パリはミサを捧げるに値する都市である)と語ったとされる[ 15] 。
これによって、なおカトリックが優勢であったフランス国民の広汎な支持を受けることに成功し、1594年 2月27日 にシャルトル大聖堂 で正式に成聖式(戴冠式)を執り行うことができた(本来はランス大聖堂 で行わねばならないが、この時点では未だカトリック同盟の勢力下にあった)。同年3月22日 に遂にパリ入城を果たす。その後、地方の各都市も続々とアンリ4世に帰順し、マイエンヌ公と甥でギーズ公の遺児シャルル1世 も帰順しカトリック同盟は瓦解した。
ブルターニュ ではスペインの支援を受けたメルクール公 が抵抗を続けており、1595年 にアンリ4世はスペインに宣戦布告をしてブルターニュ平定を行った。メルクール公が降伏し、スペインとの和平交渉も始まった1598年 4月30日 にアンリ4世はナントの勅令 を発した。同勅令はカトリックをフランスの国家的宗教であると宣言しつつ、プロテスタントに多くの制約はあるものの信仰の自由を認め、フランスにおける宗教戦争の終息を図ったものであった。
再婚
ガブリエル・デストレ
サン・バルテルミの虐殺のため、不幸な結婚となったアンリ4世と妻マルグリットとの関係は冷え切ったものであり、子供もいなかった。共に好色な夫婦は長きにわたって別居状態で、それぞれが大っぴらに幾多の愛人を抱えていた。後にマルグリットは一人でオーヴェルニュ のユソン 城に移り住んでいる。
アンリ4世がフランス王位に就くと、側近たちは後継者問題で再び内戦状態にならないためにもきちんとした後継者を残すよう提言した。アンリ4世はローマ教皇にマルグリットとの結婚の無効 を認めてもらうことで、すでに3人の子供を生んでいるガブリエル・デストレ を正式な妻に迎えたいと望んでいた[ 16] 。身分の問題から側近は反対したが、ガブリエルが1599年 4月に急死したことで問題は立ち消えとなった。同年、教皇からマルグリットとの結婚が無効であったとの宣言が下され、1600年 にアンリ4世はメディチ家 のマリー・ド・メディシス と結婚した。2人の間には6人の子が生まれている。だが、政略結婚である2人の仲は決して円満ではなく、多情なアンリ4世は多くの愛人を持ち、その数は56人以上に及んだとする説もある[ 17] 。アンリ4世は愛人の中でもとりわけアンリエット・ダントレーグ を深く愛した[ 18] 。
統治
ヘーラクレース に扮するアンリ4世
アンリ4世は賢明で有能な君主であった。反対派貴族を武力で弾圧するのではなく、懐柔することに努め、そのためには賠償金の支払いさえ辞さなかった。さらに国民の生活状態を配慮する姿勢が評価されて絶大な人気を誇り、「良王アンリ」と呼ばれるようになる[ 19] 。
まず、内戦で疲弊したフランスを立て直すために、側近であったシュリー公マクシミリアン に国家経済の再建、農業の促進、開墾地の拡大、公共事業の活発化などの政策を行わせた。さらに教育機関の拡充、街道の整備、森林の保護、橋や運河 の整備を推し進めた。また、セーヌ川 にまたがるポンヌフ 橋の建造を中心とした首都パリの大規模な再開発計画を実行し、パレ・ロワイヤル やルーブル宮殿 の大ギャラリーを建造した。このギャラリー は長さ400m、幅30mにも及ぶ、当時の世界では最大級の建築物であった。さらにアンリ4世はあらゆる芸術家・工芸家を招いてルーブル宮殿に住まわせ、創作活動を行わせた。これはナポレオン・ボナパルト が禁止するまで、歴代の王によって継承される政策となった。
行政面では、税の支払いの見返りに官職の世襲を保証するポーレット法 を定め、また金融家から地域の税金を前借りして代わりに徴税を請け負わせる徴税請負人制度 (英語版 ) を作り、財政の再建に努めている[ 20] 。
アンリ4世の暗殺
フランソワ・ラヴァイヤックの公開死刑
アンリ4世のヴィジョンは国内を越えており、北アメリカ の探検にサミュエル・ド・シャンプラン を派遣している。これは後にカナダ にフランスの植民地 が築かれる基礎となった。また、悲惨な戦争の惨禍を防ぐため、ヨーロッパ各国が共同して国際裁判所と国際軍を持ち、侵略行為に対抗するという「大計画」を構想していた[ 21] 。
有能な君主として国民に広く愛されたアンリ4世だったが、たびたび暗殺の危機にさらされていた。1594年 にはジャン・シャテル (Jean Châtel )による暗殺未遂で重傷を負った。
そして1610年 5月14日 、アンリ4世は馬車に乗ろうとした際に狂信的なカトリック教徒のフランソワ・ラヴァイヤック に刺殺された[ 22] 。事件は単独犯として決着したが、多くの歴史家たちは権力上層部による陰謀であったと考えている[ 23] 。5月27日 にラヴァイヤックは、16年前のシャテル同様、パリで惨たらしい方法による公開死刑 に処されている[ 24] 。
アンリ4世はサン=ドニ大聖堂 に埋葬され、8歳の王太子ルイがルイ13世 として即位し、成人する1617年 まで母后マリーが摂政 として政務を執ることになった。
崩御後
アンリ4世の遺体はフランス革命 後の1793年 に墓から暴かれ、頭部は切断されて行方不明となった。その後頭部は各地を転々としたが、崩御後400年経った2010年 になって、法医学者の鑑定によって正式にアンリ4世のものと確認された[ 25] 。ミイラ化した頭部の保存状態は良好で、1594年の暗殺未遂の傷跡などが残っていたという。また、2012年には、ルイ16世 の処刑時に使われたとされるハンカチと比較するDNA鑑定 が行われ、決定的と報じられた。
しかし、当時フランス王位請求者 だったパリ伯 兼フランス公アンリ・ドルレアン は、復元された頭部の外観がブルボン家の特徴と合致しないとし、検査結果に納得しなかった[ 26] 。また、ブルボン家の末裔3名のDNAと、前回の検査に使われた物証からのDNAを比較するDNA鑑定が行われ、初回のテスト結果は否定された[ 27] 。
家系
父アントワーヌ・ド・ブルボン
母ジャンヌ・ダルブレ
母方の祖母マルグリット・ド・ナヴァール はフランソワ1世 の姉であり、アンリ4世はヴァロワ朝 末期の3人の王(フランソワ2世 、シャルル9世 、アンリ3世 )および最初の妃マルグリット・ド・ヴァロワ の又従兄弟に当たる(そのため妃マルグリットとは婚姻の無効 が成立しえた)。ただし、王位継承権自体は直接にはこの血縁および婚姻関係でなくサリカ法 に基づき、カペー家 の男系支流であるブルボン家 の家長であったことによるものである。ブルボン家の祖であるクレルモン伯ロベール は、ルイ9世 の六男、フィリップ3世 の末弟で、アンリ4世から9世代さかのぼる、約300年前の人物である。
一方、ナバラ 王位は女系 継承が認められており、母ジャンヌ・ダルブレ の死によりアンリ4世が継承することになった。以後、ブルボン朝の歴代フランス王はナバラ王を兼位し、「フランスとナバラの王」を称した。ナバラ王の血筋を遡ると、同様にフランスとナバラの王を兼ねたカペー朝 末期のルイ10世 に至る。ただし、曽祖母カタリナ の時代にナバラ王国は大部分がスペインに併合されており(スペイン側でも歴代スペイン王がナバラ王の称号を用いている)、ルイ10世の時代より領土は大幅に縮小している。
なお、祖母マルグリットはナバラ王アンリ・ダルブレ とは再婚であり、最初の夫アランソン公シャルル4世 はアンリ4世の父方の祖母フランソワーズ・ダランソン の兄であった。シャルル4世とフランソワーズの家系アランソン家 は王位継承権を持つヴァロワ家 の有力な支流であったが、シャルル4世の死により断絶していた。
父ヴァンドーム公アントワーヌ の家系はブルボン=ヴァンドーム家といい、元来ブルボン家 でも傍系であったが、祖父シャルル の時代に本流が断絶したためブルボン家家長となり、ヴァロワ家 断絶後のフランス王位継承権を得ることになった。また、カトリーヌ・ド・メディシス の母方の祖母ジャンヌ・ド・ブルボン=ヴァンドーム はシャルルの父ヴァンドーム伯フランソワ の姉であった。さらに、シャルルの妹アントワネット はギーズ公クロード に嫁いでギーズ公フランソワ やスコットランド 王妃メアリー・オブ・ギーズ をもうけており、アンリ4世はフランソワ2世の王妃でもあったスコットランド女王メアリー や、敵対関係にあったギーズ公アンリ の又従弟でもあった。加えて、アントワーヌの母方の祖母マルグリット・ド・ロレーヌ はロレーヌ公 ルネ2世 の妹でギーズ公クロードの叔母に当たり、アンリ4世とギーズ家とはロレーヌ家 の血を通じてもつながりがあった。なお、マルグリット・ド・ナヴァールの父シャルル・ドルレアン と母ルイーズ・ド・サヴォワ が共にブルボン家本流の血を引いている。また、ロレーヌ家との関係ではさらに、アンリ4世の妹カトリーヌ がロレーヌ公アンリ2世 (マルグリット・ド・ヴァロワらの甥にあたる)と結婚している。
シャルルの母マリー・ド・リュクサンブール はルクセンブルク家 の最後の末裔であるが、神聖ローマ皇帝 やボヘミア王 の家系となった本流でなく、分家リニー家 の子孫である。ジャンヌ・ダルブレの父方の祖母カトリーヌ・ド・フォワ と母方の祖父シャルル・ドルレアン は共にボヘミア王ヨハン の娘ボンヌ の血を引いているので、アンリ4世はルクセンブルク家本流とも血のつながりはあることになる。
子女
アンリ4世と家族
マリー・ド・メディシス との間に6子を儲けている。
ガブリエル・デストレ との間に死産を除き庶子3人を儲けている。
略系図
脚注
^ 「聖なる王権ブルボン家」P15
^ 「聖なる王権ブルボン家」p15
^ 「聖なる王権ブルボン家」p17
^ 「聖なる王権ブルボン家」p20
^ a b c 「聖なる王権ブルボン家」p23
^ 「聖なる王権ブルボン家」p31
^ 「聖なる王権ブルボン家」p31-32
^ a b 「聖なる王権ブルボン家」p33
^ 「聖なる王権ブルボン家」p40
^ 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p36
^ 「聖なる王権ブルボン家」p44-46
^ 「世界の歴史7 文芸復興の時代」p271
^ 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p38
^ 「聖なる王権ブルボン家」p47
^ 「世界の歴史15 近代ヨーロッパへの道」p167
^ 「聖なる王権ブルボン家」p53-54
^ 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p42
^ 「聖なる王権ブルボン家」p55-56
^ 「世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花」p256
^ 「世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩」p256
^ 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p40-41
^ 「世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花」p257
^ 「聖なる王権ブルボン家」p59
^ 「聖なる王権ブルボン家」p60
^ 流転200年・・・仏国王アンリ4世の頭部、本物と断定 、AFPBB News 、2010年 12月31日閲覧
^ ジャンニ・デイヴィス 『消えた屍体:死と消失と発見の物語』 堀口容子著・訳 グラフィック社 2019年 ISBN 978-4-7661-3202-1 pp.86-91.
^ 仏国王の頭部は「偽物」、先行研究覆すDNA分析結果 - AFPBB News 、2013年10月11日、2019年3月29日閲覧
参考文献
小説・伝記
ハインリヒ・マン 『アンリ四世の青春』
ハインリヒ・マン『アンリ四世の完成』
以上、小栗浩訳(晶文社 、1989年) - 長編小説の大著。
フランソワ・バイルー 『アンリ四世 自由を求めた王』
幸田礼雅訳(新評論 、2000年) - 伝記大著、著者は著名な政治家。
関連項目