UFO(ユー・エフ・オー)は、イングランド出身のハードロック・バンド。
「レッド・ツェッペリン」「ディープ・パープル」「ブラック・サバス」らと同時期に活躍したブリティッシュ・ハードロックバンドの一つ。技巧派ギタリスト、マイケル・シェンカーを輩出した事でも知られる。
VH1選出「ロック・バンド・ランキング」84位[3]。
1969年8月、フィル・モグ(vo.)、ミック・ボルトン(g.)、ピート・ウェイ(b.)が在籍するHocus Pocusというバンドにアンディ・パーカー(ds.)が加わった際、バンド名を「UFO」に改名して結成された。バンドはロンドンのクラブ・シーンで活動し、1970年3月、イギリスのマイナー・レーベルであったビーコン・レコードと契約し本格的なプロ・デビューを果たした。
1970年に発表したデビュー・アルバム『UFO1』[4]と翌年発売の『UFO2/Flying』は英米では売れ行きが不振だった。
初期のUFOは、ディープ・パープル、レッド・ツェッペリン、ジェフ・ベック・グループなどからの影響を受けながら独自のサウンドを模索していたが、二枚目のアルバムではOne Hour Space Rockというキャッチ・フレーズをつけ、スペース・ロック的なロック音楽に接近した。
日本公演後に行われたドイツ公演では、ミック・ボルトンが突然失踪したため、サポート・バンドだったスコーピオンズのギタリストマイケル・シェンカーが急遽代役を務めた。1972年1月、ミック・ボルトンが脱退(脱退理由は諸説あり)。これを機にUFOはよりオーソドックスなロックにシフトし、それに相応しいギタリストを探し始めた。
ミックの後任ギタリストにはラリー・ウォリス(1972年2月〜10月)やバーニー・マースデン(1972年10月〜1973年6月)の参加を経て、以前から加入要請のアプローチを続けていたマイケル・シェンカーの加入が決定。1973年6月にバンドに迎え入れた。
このラインアップで新たにクリサリス・レコードと契約。シングル「Give Her The Gun/Sweet Little Thing」をドイツでリリースし、12月にはレオ・ライオンズ(元テン・イヤーズ・アフター。クリサリス所属でもあった)のプロデュースでアルバムのレコーディングを開始した。
1974年4月に発売されたアルバム『現象』(Phenomenon)は、ハードなギター・リフが印象的な「Rock Bottom」や後にライブ音源でシングルヒットとなった「Doctor Doctor」のように、マイケル・シェンカーの鋭角なギターサウンドがうまく取り込まれ、バンドの英米での知名度を上げた。
アルバム『現象』発売後の1974年5月には、さらなるバンド体制の強化をねらい、新たにセカンド・ギタリストとしてポール・チャップマンを加入させ、5人編成とした。イギリスとヨーロッパをツアーするが、マイケル・シェンカーとポールの間に軋轢が生じたために同年9月にポールはバンドを脱退。ポールは自らのバンドローン・スターを結成した。バンドは4人のまま10月には初のアメリカ公演を行った。
1975年春には、レオ・ライオンズのテン・イヤーズ・アフター時代の同僚チック・チャーチル(Key.)をゲストに迎え、アルバム『フォース・イット』(Force It)の製作を開始、同年7月にリリースした。バンドは専任キーボード・プレイヤーの必要性を感じ、8月に元ヘヴィ・メタル・キッズのダニー・ペイロネル(Key.)を加入させ本格的なアメリカ・ツアーを開始した。
1976年4月に発売されたアルバム『ノー・ヘヴィ・ペッティング』(No Heavy Petting)ではキーボード・サウンドの導入により、アレンジの幅を広げたが、マイケル・シェンカーがよりバランスのとれたサウンドを求めたため、9月にはダニーを解雇。1976年12月には、キーボードだけでなくギターも弾ける元チキン・シャック、サヴォイ・ブラウンのポール・レイモンド(G. & Key.)が加入した。(レイモンドはその後もシェンカーと行動を共にし、MSGに加わる)
ロン・ネヴィソンをプロデューサーに迎え製作され、1977年5月にリリースしたアルバム『新たなる殺意』(Lights Out)は「Too Hot To Handle」「Lights Out」「Alone Again Or」やストリングスを導入した7分の大作「Love To Love」といった曲を収録した。70年代後半にはUFOは英米だけでなく、日本やヨーロッパにも知られるようになり、マイケル・シェンカーもハードロック・ギタリストとして人気が出始めた。
1978年6月にはアルバム『宇宙征服』(Obsession)を発売。前作の勢いを引き継ぎ「Cherry」「Only You Can Rock Me」といった曲を収録している。
1978年12月にはライブ・アルバム『UFOライブ』(Strangers In The Night)をリリース。脂の乗り切ったバンド演奏と聴衆の熱狂が収録されている。
UFOはハードロック・バンドとして有名になった。しかしその裏では、「堅物かつ酒豪」で知られたリーダーのフィル・モグと、英会話に難を抱え、完璧主義者である若きマイケル・シェンカーとの間に大きな軋轢が生まれており、既に精神のバランスを失っていたマイケルがしばしば失踪を繰り返していた。 そしてついに、『UFOライブ』発売直前の1978年11月、マイケルが正式に脱退する。(その後スコーピオンズに一時的に復帰したがすぐに脱退、ドラッグとアルコール中毒から脱するリハビリの後、自らのバンドであるマイケル・シェンカー・グループを結成しシーンに復帰する。)
マイケル脱退後、UFOは即座に後釜として、再びポール・チャップマンを迎えてツアーを再開。1979年6月には来日公演を行った。
翌1980年1月にはビートルズのプロデュースで知られるジョージ・マーティンを起用し、アルバム『ヘヴィ・メタル・エクスペリエンス』(No Place to Run)を製作、発表。 若手によるNWOBHMムーブメントがベテラン・バンドへの追い風にもなり、バンドは精力的にツアーをこなし、8月にはレディング・フェスティバルでトリも務めた。しかし直後にポール・レイモンドが脱退し、後任にニール・カーター(g. & key.)が加入。バンドは以前と変わらないように見えたが、勢いを失いはじめていた。
1981年1月に発表されたアルバム『ワイルド/ウィリング/イノセント』(The Wild, The Willing And The Innocent)は、バンドによる初のセルフ・プロデュース作品で、シングル「Lonely Heart」をイギリスでリリースした。
1982年2月に発売されたアルバム『メカニックス』(Mechanix)はゲイリー・ライオンズをプロデューサーに迎えたことでバランス感覚の優れた1枚となり、イギリスでは久々にチャートのTOP10に入るヒット作となった。 ポップなシングル「let it rain」もイギリスでは好調だった。しかしアルバム発表後のアメリカ・ツアー中、バンドの音楽性に異を唱えたピート・ウェイが自己のグループを立ち上げるために脱退。バンドは代役にピーター・ファーンドンを起用しツアーを遂行した。
バンドは専任ベーシスト不在のままアルバム『メイキング・コンタクト』(Making Contact)を製作、1983年初頭に発売した。シンフォニックなキーボードとメタリックなギターを前面に打ち出し、新たなスタイルを提示するがセールスは伸び悩んだ。
バンドはピートの後任にビリー・シーン(b.)を加えヨーロッパ・ツアーを開始、その後のイギリス・ツアーでは元ダムド(パンク・バンド)のポール・グレイ(b.)に交代した。
しかしバンドは不安定なメンバー構成とセールス不振に疲弊し、1983年4月、遂に解散することになった。このため翌5月に予定されていた来日公演は幻となってしまった。
バンド解散後の1983年10月、彼等の歴史を総括したようなベスト・アルバム『ヘッドストーン』(Headstone)をリリース。
1984年12月、フィル・モグ主導により新しいメンバーでUFOが再始動する。注目のギタリスト候補には、当時売り出し中だったイングヴェイ・マルムスティーンの名前もあったが、結局日系人ギタリストアトミック・トミー・Mが迎えられた。ベースはピート・ウェイではなく、前作のツアーから引き続いてポール・グレイが担当、キーボードにはポール・レイモンドが復帰した。
イギリス・ツアーを経て1985年11月、アルバム『ミスディミーナー』(Misdemeanor)をリリース。キーボードサウンドに、トミーの卓越したギター・プレイをフィーチャーしたアルバムは、前作『メイキング・コンタクト』で打ち出したサウンドをより発展させた意欲作であった。
その後アメリカ・ツアーも行われたが、バンドを再興しようとしたフィルの熱意も商業的には成功せず、1987年に主要メンバーが脱退しバンドは再び崩壊してしまう。翌1988年には次回作用に録音された音源が、ミニ・アルバム『殺気!』(Ain't Misbehavin)として発売された。主要メンバーは抜けてしまったが、フィル・モグは独自にメンバーを集い1989年頃まで細々ながらも活動を続けた。
1991年、フィル・モグとピート・ウェイは三たびUFOを立ち上げるべく活動を開始。ギタリストにはフィル・ライノットの「グランド・スラム」での活動でも知られるローレンス・アーチャーを起用し、マイナーレーベルからアルバム『暴発寸前!』(High Stakes & Dangerous Men)を発表、来日も果たした。(この日の演奏はのちに『lights out in tokyo』として発売される。)
これが切っ掛けとなり、完全復活への道が開けたUFOは、翌年フィル、ピート、”マイケル・シェンカー”、ポール・レイモンド、アンディ・パーカーの最盛期のメンバーでバンドを再編成。1994年にはマイケルを擁するラインナップで来日を果たした。
1995年、復活アルバム『ウォーク・オン・ウォーター』(Walk on Water)をリリース。このメンバーにドラムとしてAC/DCのサイモン・ライトがサポートとして参加、ワールド・ツアーへ出発した。しかし、例によってマイケルが他のメンバーと衝突し途中で脱退。(最後は1998年の東京公演で、マイケルがライブ中にギターを放り出し演奏を拒否。そのままライブは打ち切られてしまう。)公演こそサポートメンバーを加えて乗り切るが、またしてもバンドは空中分解した。
その後、マイケルがUFOのバンド名の使用権利を主張。マイケルなしでUFOを名乗れなくなったフィル・モグとピート・ウェイは、Mogg/Wayの名での音楽活動を余儀なくされていたが、(2枚のアルバムをリリース。)2000年マイケル・シェンカーが三度目の復帰を決めたため、UFO名義での活動を再開させた。
同年、フィル、ピート、マイケルの3人に元ジャーニーのエインズレー・ダンバー(ds.)を加えたラインナップで、アルバム『聖約』(Covenant)をリリース。初回盤は1995年に行われたライブのCDが付属した2枚組だった。2002年には同布陣による『シャークス』(Sharks)をリリース。
しかし、またしてもマイケル・シェンカーが離脱。だがマイケルがUFOのバンド名の権利を放棄したため、バンドは代わりにヴィニー・ムーアを加入させ、2004年にはジェイソン・ボーナムをドラマーに迎えて『You Are Here』をリリースした。
21世紀に入ってからも、UFOはレコーディングやツアーを積極的にこなしている。2005年11月にはアンディ・パーカーが復帰、スペインのグラナダで開催されたPiorno Rock Festivalで演奏を披露。2006年9月25日には通算19枚目となる『モンキー・パズル』(The Monkey Puzzle)をヨーロッパでリリースした。翌日にはアメリカ合衆国でも発売[5]されている。また、2008年のROCKLAHOMAにも参加した。
翌2009年には『ザ・ヴィジター』をリリース。その後ピート・ウェイが体調不良のためバンドを離れたが[6]、2011年には『セブン・デッドリー』を発表し、ツアーも含めて安定した活動をみせている。
2018年5月28日、フィル・モグはFacebookにて、2019年に行われるUFO50周年記念ツアーをもってUFOから脱退すると発表した。フィルいわく、「ツアーは常に快適というわけではない。とても厄介なものになってきた。僕はいつも、そういう段階に到達したら身を引こうと自分に言い聞かせていた。それを実行する。辞めるに相応しい時期だ」とコメント。また、今後のUFOについては、残ったメンバーの好きなようにしたらいいと考えているという[7]。
2019年3月、紆余曲折を経てファイナルに決定したツアー「ラスト・オーダーズ」が開幕。しかしその最中の4月にクラシックメンバーの一人、ポール・レイモンドが急死[8]。代役には旧メンバー、ニール・カーターが36年ぶりに復帰した[9]。
2020年6月、NWOBHM期の中心メンバー ポール・チャップマンが死去[10]、そして8月には創設メンバー ピート・ウェイが死去する[11]。
コロナ禍で中断していたツアーを再開。しかし2022年8月、フィル・モグが心臓発作で倒れ緊急手術を受ける。リハビリをはじめるが医師からはこのまま引退を助言され、以降の活動は不透明となっていたが[12]、2024年に「Ultimate Classic Rock」が行ったインタビュー内で、UFOでやり残した事はあるかと問われたフィル・モグは「いや、ない。結論に達したと思う。新型コロナウイルスの直前、2019年に最後の英国ツアーを行った。それで終わったようなもので、その時が来たんだ。」と答え、UFOの活動が既に終了している事を認めた[13][14]。
※2024年4月時点
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