第二次世界大戦に従軍後、トンプソンは再び脚本家としてアソシエイテッド・ブリティッシュ・ピクチャー・コーポレーションで働くこととなった。1950年、彼はついに“Murder Without Crime”で映画監督デビューを果たす。しかし、この作品は無視されたといっていいほど誰からも評価されず、彼の監督作で最初に注目されたのは1953年の“The Yellow Balloon”であった。1954年の“The Weak and the Wicked”はジョーン・ヘンリーによる回顧録に基づいた作品であり、彼女は後にトンプソンの二番目の妻となった。
そしてアレクサンダー・マッケンドリック監督の後任となって、メジャースタジオ製作のA級アクション大作『ナバロンの要塞』(The Guns of Navarone1961年)を発表し、彼はハリウッドでも名声を得ることとなった。同作でトンプソンは第34回アカデミー監督賞にノミネートされ、作品自体も作品賞にノミネート。また大ヒットして低迷期にあったグレゴリー・ペックの復活作となるなど大きな話題となった。
『ナバロンの要塞』の後もアクション(『マッケンナの黄金』)、サスペンス(『恐怖の岬』)、史劇(『隊長ブーリバ』)といったさまざまなジャンルの作品を発表した。1970年代以降は『猿の惑星・征服』(Conqest of the Planet of the Apes1972年)や『誕生日はもう来ない』(Happy Birthday to Me1981年)といった、中規模のB級作品を手がけるようになったが、評価・興行成績ともに不振に終るものが多くなった。1980年代はチャールズ・ブロンソンと組みアクション映画を多数、監督したが、1989年の『禁じ手』(Kinjite: Forbidden Subjects)を最後に監督業から引退した。この晩年期のヒット作には全米初登場4位を記録した、チャック・ノリスとルイス・ゴセット・ジュニア競演のバディ・ムービー『ファイアーウォーカー』(Firewalker1986年)がある。