鳥海(ちょうかい、旧仮名:てうかい)は、日本海軍の砲艦[15]。 艦名は秋田・山形県境の鳥海山にちなんで命名された[15][16]。
石川島造船所で建造[2]、1887年に進水した[7]砲艦[3]。 「愛宕」と同型(摩耶型砲艦[5])になる[17]。
朝鮮半島・清国沿岸の警備任務に多く従事し[18]、 日清戦争では第三遊撃隊の1艦として威海衛攻略作戦に従事した[16]。 北清事変に従軍。 日露戦争では第三艦隊所属で、主に沿岸防御に従事した[16]。 1908年除籍[8]。 以後は佐世保水雷団の練習船となり[7]、 1911年廃船[9]、 船体は翌年売却された[10]。
製造契約時の要目は以下の通り[24]。
1885年(明治18年) 1月頃に「愛宕」と同型の砲艦を石川島造船所で1隻、小野浜造船所で1隻(後の「摩耶」)製造することが決定し[17]、 3月2日に石川島造船所と製造契約を締結[7]、 製造期限は23カ月[24]、 契約金額は164,500円[27]、 または162,830.94円[28]。 3月5日「鳥海」と命名された[7]。 艦名候補として榛名(ハルナ)、赤城(アカギ)、妙義(ミャウギ)(みょうぎ)、武甲(ブカウ)(ぶこう)、葦穂(アシホ)、磐梯(バンダイ)、飯豊(イヒデ)(いいで)、鳥海(テウカイ)(ちょうかい)があった[29](読み仮名は全て旧仮名遣い、括弧内は現代仮名遣い)。 1886年(明治19年)1月25日起工した[7]。 5月には製造期限(契約時は明治19年12月まで)延長の申し出、6月には製造費増額(196,643.94円に増額[28])の申し出が石川島造船所から提出された[30]。 1887年(明治20年)8月20日命名進水[7][31]、 1888年(明治21年)5月18日横須賀鎮守府所属とされた[7][32]。 12月6日試運転を施行、標柱間(1往復)での平均速力は7.99ノットだった[25]、 12月27日品海で造船所から鳥海艦長品川四方一へ引き渡し(竣工[7])、12時30分に国旗を掲揚した[33]。
1889年(明治22年) 5月28日佐世保鎮守府所轄航海練習艦に定められた[7]。 12月26日佐世保鎮守府警備艦に指定された[7][34]。
1890年(明治23年) 1月6日朝鮮国警備のために佐世保を出港した[18]。 8月23日第一種に指定[7]。 10月4日「鳥海」は長崎港に帰国した[18]。
1892年(明治25年) 8月20日朝鮮国警備のために佐世保を出港[18]、 1893年(明治26年) 7月25日佐世保港に帰国した[18]。
1894年(明治27年) 4月4日練習艦の役務を解かれ[35]、 5月23日予備艦に指定[36]、 同日第1予備艦に編入[37]、 第1予備艦の間は定員67名とされた[38]。 6月5日予備艦だった「鳥海」は警備艦に指定された[39][40]、 6月10日朝鮮国警備のために佐世保を出港した[18]。 7月19日常備艦隊に編入された[41][40]。
日清戦争では旅順・大連・威海衛攻略作戦等に参加。
1895年(明治28年) 9月10日常備艦隊から除かれ、西海艦隊に編入された[42][40]。 11月15日西海艦隊から除かれ、佐世保鎮守府警備艦に定められた[40]。 11月23日佐世保港に帰国した[18]。
1896年(明治29年) 3月16日常備艦隊に編入された[40]。 3月17日に朝鮮国警備のため佐世保を出港[18]、 8月27日竹敷に帰国した[18]。 10月21日役務を解かれた[40]。
1897年(明治30年) 3月8日第1予備艦とされ、4月12日常備艦隊に編入された[40]。 5月8日朝鮮国警備のために佐世保を出港した[18]。
1898年(明治31年) 1月19日尾崎に帰国した[18]。 1月28日常備艦隊より除かれ、第2予備艦に定められた[40]。 3月21日類別等級を二等砲艦とされた[40]。 5月3日警備艦兼練習艦に定められた[40]。 8月2日常備艦隊に編入された[40]。 9月4日韓国警備のために佐世保を出港した[18]。
1899年(明治32年) 3月11日竹敷に帰国した[18]。 5月3日常備艦隊から除かれ[40]、第1予備艦に定められた[43]。 6月17日佐世保鎮守府艦隊に編入された[43]。 9月29日常備艦隊に編入された[43]。 10月16日に清国警備のために佐世保を出港した[18]。
1900年(明治33年) 5月15日佐世保港に帰国[18]、 5月20日役務を解かれ、同日第1予備艦に定められた[43]。
1900年(明治33年) 8月11日常備艦隊に編入された[43]。 8月27日佐世保を出港[18]、 北清事変では大沽方面の警備に従事した。 12月15日佐世保港に帰国した[18]。 12月18日役務を解かれ、第2予備艦に定められた[43]。
1901年(明治34年) 12月に従来のボイラーが老朽化のため、佐世保造船廠に於いて同形式の新ボイラーと交換された[26]。 1902年(明治35年) 1月28日第3予備艦に定められた[43]。
1903年(明治36年) 1月23日第1予備艦に定められた[43]。 6月22日常備艦隊に編入[44]、 翌23日居留民保護の為に清国派遣が命令された[44]。 7月14日北清警備のために佐世保を出港[18]、 9月14日佐世保港に帰国した[18]。 10月23日居留民保護の任務が解かれ、帰国命令が出された[44]。 12月28日第三艦隊に編入された[44]。
1904年(明治37年) 1月29日韓国南岸の警備のために竹敷を出港、2月2日竹敷に帰国した[18]。
2月6日日露戦争開戦[18]。 「鳥海」は2月12日尾碕を出港[18]、 5月26日、砲艦「筑紫」とともに対地支援射撃を実施して陸軍第2軍(司令官:男爵奥保鞏大将)の南山攻撃を援護したが、ロシア軍南山砲台から反撃を受け艦長林三子雄中佐が戦死した。 8月からの旅順攻略作戦に参加。
1905年(明治38年) 1月25日神ノ浦に一時帰国[18]、 3月29日神ノ浦を出港[18]、 4月18日尾崎に一時帰国した[18]。 6月14日第四艦隊に編入された[44]。 7月6日鴛泊港を出港[18]、 樺太作戦に参加、 8月1日小樽港に帰国した[18]。 8月20日第四艦隊から除かれ、警備艦に定められた[44]。 10月16日終戦となった[18]。
1905年(明治38年) 11月4日旅順鎮守府司令長官の指揮下に入った[44]。
1906年(明治39年) 2月8日遼東半島警備のために神ノ浦を出港[18]、 8月4日佐世保港に一時帰国[18]。 8月9日佐世保を出港、引き続き遼東半島の警備任務に就いた[18]。 11月5日旅順鎮守府司令長官の指揮下から除かれ、同日第2予備艦に定められた[44]。 11月18日薄香港(長崎県平戸市)に帰国した[18]。
1908年(明治41年) 4月1日除籍[8][44]、艦艇類別等級別表からも削除された[45][46]。 同日雑役船舟とされ、練習のために佐世保海兵団の附属とされた[46]。 同地で五等機関兵の実地訓練等に使用された[47]。
1911年(明治44年) 4月1日「鳥海」は佐世保海兵団から還納の上、廃船とする訓令が出された[46]。 5月23日廃船[9]。 12月21日売却訓令[48]。 翌1912年(明治45年)3月5日に売却が報告された[10]。
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
この項目は、軍艦に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:軍事・PJ軍事・PJ船)。
Lokasi Pengunjung: 18.119.128.77