鈴木 武蔵(すずき むさし、1994年2月11日 - )は、ジャマイカ・モンテゴ・ベイ生まれ[1]、群馬県太田市出身のプロサッカー選手。ポジションはフォワード(FW)。元日本代表。
ジャマイカ人の父と日本人の母を持つ[1]。血液型B型[2]。既婚。NPO法人Hokkaido Dream代表理事[3]。
来歴
プロ入り前
中学時代はFCおおたジュニアユースの初代団員として活躍。
桐生第一高等学校に進学後、あまりに荒削りなプレーを見かねた総監督の小林勉から徹底的な基礎練習を命じられ、1年生の頃は全く公式戦に出場しなかった[1]。
2011年末、第90回全国高等学校サッカー選手権大会群馬県大会決勝で5連覇中だった前橋育英高等学校を下し、全国大会に出場。初戦島根県立大社高等学校戦でハットトリックを達成するなど、初出場ながらベスト8まで進出したチームの躍進を支え、大会優秀選手に選出された。
アルビレックス新潟
2012年、アルビレックス新潟に入団。リーグ開幕直前に右膝半月板を損傷し出遅れたものの[4]、4月4日のヤマザキナビスコカップ清水エスパルス戦で公式戦デビュー。グループリーグ最終節大宮アルディージャ戦では、0-3からの逆転劇を締めくくる決勝ゴールを決め、公式戦初得点を記録した[5]。
2013年、開幕直後に左足関節を捻挫し[6]、約2ヶ月間の離脱を余儀なくされたが、復帰初戦となったJ1第13節川崎フロンターレ戦でリーグ戦初得点を記録した。2015年からは背番号を19に変更したものの、なかなか結果を出せず8月3日に水戸ホーリーホックへの期限付き移籍が発表された[7]
翌2016年、新潟に復帰。2017年は矢野貴章の新潟復帰により、背番号19を譲り49に変更[8]。8月17日に松本山雅FCへ期限付き移籍が発表されたが[9]、スタメンには定着できず9試合無得点に終わった。
V・ファーレン長崎
2018年よりV・ファーレン長崎へ完全移籍[10]。9月15日、J1第26節・対名古屋グランパス戦でプロ入り後リーグ戦初ハットトリックを達成した[11]。チームは最下位となりJ1残留とはならなかったが、リーグ戦通算で11得点とプロ入り後自身初の2ケタ得点を達成した。
北海道コンサドーレ札幌
2019年より北海道コンサドーレ札幌へ完全移籍[12]。3月2日、第2節の浦和レッズ戦で移籍後初得点を含む2得点を決めて勝利に貢献した[13]。さらに、ホーム開幕戦となる第3節清水エスパルス戦でも先制点とPKを獲得して勝利した。この活躍が認められ、3月14日には日本代表に初選出された。この年はリーグ戦通算で13得点を決め、2年連続となる2桁得点を達成した。また、ルヴァンカップではチームの準優勝に貢献し、自身は7得点を決め大会得点王となった[14]。
KベールスホットVA
2020年8月18日、ベルギー1部のKベールスホットVAへの完全移籍が発表された[15]。8月30日、第4節のスタンダール・リエージュ戦でベルギーデビューを果たした[16]。背番号は10。9月18日、第6節のシャルルロワSC戦で移籍後初ゴールを決めた[17]。10月31日、第11節のOHルーヴェン戦では2試合連続得点を決めて勝利に貢献した[18]。
2021-2022シーズンは得点力不足と最下位に沈むチームの中で自身の得点数が伸びないシーズンを送っている[19]。背番号10を着用したが、25試合出場1得点で不振に終わり、チームも2部リーグに降格した。
ガンバ大阪
2022年6月30日、J1のガンバ大阪に完全移籍加入することが発表された。チームは低迷。
2023年も残留争いをする低迷したチームで活躍はなかった。これにより3年連続で全公式戦通算で得点が1点に留まった。
北海道コンサドーレ札幌(第2次)
2024年シーズンから古巣・J1の北海道コンサドーレ札幌へ期限付き移籍することが発表された[20]。チームは低迷し、前半戦を最下位で折り返した。後半戦はシャドーで起用されることでプレーに輝きを取り戻し始めたが、第23節で勝ち越しのPKを外し、その場に倒れ込んだ。チームは9試合振りの勝利を飾れなかった[21]。しかし、第24節の浦和戦で自身今季初ゴールを決めたことをきっかけに徐々に得点への嗅覚を取り戻し始めた。自身にとっては4年連続で所属チームが1部リーグ残留を争うことになっている。
日本代表
2010年、桐生第一高校サッカー部監督・小林勉の「面白いやつがいるから見てみてよ」という進言により[1]、吉武博文率いるU-16日本代表に選出され、国際ユースサッカーin新潟に出場。それまでは無名の選手であったにも関わらず、3試合で3得点を挙げる大活躍を見せ、一躍注目を浴びた[22]。
2011年、FIFA U-17ワールドカップ直前のスロバキア遠征で肋骨2本と腰椎を骨折する大怪我を負ったが[23]、本大会を戦うU-17日本代表に選出され、計4試合に出場。得点こそなかったものの、爆発的なスピードで対戦国の選手を圧倒し[1]、自国開催だった1993年大会以来となる18年ぶりのベスト8進出に貢献した。
2012年、U-19日本代表に選出され、AFC U-22アジアカップ予選に参加。第1戦マカオ戦でハットトリックを達成し勝利に貢献したが、この試合で左足関節脱臼骨折の重傷を負い全治4ヶ月と診断され[24]、残りシーズンの大半を棒に振った。
2013年、U-20日本代表の一員として参加した第6回東アジア競技大会では、3試合3得点の活躍で日本の銅メダル獲得に貢献した。
2016年、リオ五輪最終予選兼AFC U-23選手権2016のメンバーに選出。グループリーグ第2戦のU-23タイ代表戦では決勝トーナメント進出を決める貴重な先制点を挙げた。7月3日、リオデジャネイロオリンピックのメンバーである久保裕也がクラブとの兼ね合いで代表を辞退して、バックアップメンバーの鈴木が追加招集された[25]。初戦のナイジェリア戦では途中出場で得点を挙げた[26]。2試合1得点と結果を残したが、チームはグループリーグ敗退となった。
2019年、クラブでのリーグ戦開幕3試合3得点の活躍が評価され日本代表に初選出される。北海道コンサドーレ札幌所属の選手としてA代表に選出されたのは1999年の吉原宏太以来2人目[27]。3月22日のコロンビア戦で先発起用され、代表初出場を果たした。同年6月にも代表に招集されるもリーグ戦で内転筋を負傷し代表を辞退している[28][29]。12月にはEAFF E-1サッカー選手権2019のメンバーに選出され[30]、初戦の中国戦にてA代表初得点を決めた[31]。
人物・エピソード
- 『武蔵』という名前は、鈴木の母が「武士のように強く生きてほしい」という思いから名付けたもので、鈴木本人も「一番好きですし格好いい」と気に入っている[23][32]。
- 高校生の時点で50m走のタイムは5秒9だった[32]。また体力測定で垂直跳びを行った際は、測定機器の限界値である90cmをオーバーし測定不能となった[32]。
- V・ファーレン長崎に所属していたとき、同クラブの髙田明元社長(元ジャパネットたかた社長)のモノマネをして話題になった。本人の公認を受けているらしく、北海道コンサドーレ札幌に移籍後も度々披露している。
- 2021年2月『ムサシと武蔵』を出版。群馬では小学生の時から、クラスメイトや大人からいじめを受けてきたことを明かした。所属していたサッカー少年団では「汚いからパス出すな」といじめを受けた事があり、ハーフであることがコンプレックスだったという。「鏡に映る自分を見るのが嫌だったし、『なんで自分だけ肌の色が違うの?』といつも悩んでいました。『白くなりたい』『周りと同じ色になりたい』と思っていて、おばあちゃんの化粧台の引き出しにあったシッカロール(ベビーパウダー)を全身に塗りたくって、肌を白くしようともしました。でも、シャワーを浴びればみるみるうちに元の色に戻ってしまう。それが本当に悲しかった。何度もやればいずれは白くなるんじゃないかと思ったけど、結局は変わらなかった」白く濁って流れる水、鏡に映る元の自分の姿を見るとより悲しみは大きくなった。学校から泣きながら帰っても、母に見られないように玄関で涙を拭ってから帰宅していた[33]。「何を言われても明るく振る舞い、優等生になれば、誰も僕の悪口を言わなくなる。自分の感情は消して、周囲と調和するしか道はないと思い、『明るくて良い子』を演じるようになりました。中学の時には学級委員長に立候補するなど、周りと軋轢(あつれき)を生まないようにすることばかり考えていました」と話した[34]。
- 試合で活躍できないと、SNSなどに「ジャマイカで代表をやれ」「あの見た目で日本代表なんて」と差別的な言葉を書き込まれた[35]。
- 「いじめや差別はする側が100パーセント悪い、でも完全に無くなることはない」と話した[36]。
- 2024年4月ごろに父を亡くしている[37]。
- 2024年シーズン、チームは残留争いで低迷し、自身はリーグ戦では無得点が続いた。試合中の暗い表情に加えて「自分一人でどうにかする」と話しており[38]、メンタル面を心配する声もあがる中、クラブOBの吉原宏太は「今年に懸ける思いはよく分かるが、観ていて表情に余裕がない。中盤でボールを追う姿勢はいいが、そこでパワーを使い、シュートの時の余力がなくなっている。「点を取ればいいんでしょ」と中盤は仲間に任せ、ゴール前だけ仕事するくらいの気持ちでやっていいと思う。能力は間違いなく日本トップクラスだから。武蔵がもうひと花咲かせて厳しい今季を乗り切れたら、クラブとしてもステップアップできる」と話した[39]
所属クラブ
個人成績
国内大会個人成績 |
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 | オープン杯 |
期間通算 |
出場 | 得点 |
出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
出場 | 得点 |
日本
| リーグ戦 |
リーグ杯 | 天皇杯
|
期間通算
|
2012 |
新潟 |
28 |
J1 |
9 |
0 |
3 |
1 |
0 |
0 |
12 |
1
|
2013 |
15 |
2 |
2 |
0 |
1 |
0 |
18 |
2
|
2014 |
29 |
3 |
6 |
3 |
2 |
3 |
37 |
9
|
2015 |
19 |
13 |
1 |
2 |
0 |
- |
15 |
1
|
水戸 |
40 |
J2 |
6 |
2 |
- |
3 |
1 |
9 |
3
|
2016 |
新潟 |
19 |
J1 |
14 |
0 |
1 |
1 |
3 |
0 |
18 |
1
|
2017 |
49 |
17 |
1 |
5 |
0 |
2 |
0 |
24 |
1
|
松本 |
50 |
J2 |
9 |
0 |
- |
0 |
0 |
9 |
0
|
2018 |
長崎 |
11 |
J1 |
29 |
11 |
0 |
0 |
2 |
1 |
31 |
12
|
2019 |
札幌 |
9 |
33 |
13 |
6 |
7 |
0 |
0 |
39 |
20
|
2020 |
4 |
5 |
1 |
1 |
- |
5 |
6
|
ベルギー
| リーグ戦 |
リーグ杯 | ベルギー杯
|
期間通算
|
2020-21 |
ベールスホット |
10 |
ジュピラー |
26 |
6 |
- |
1 |
0 |
27 |
6
|
2021-22 |
25 |
1 |
- |
1 |
0 |
26 |
1
|
日本
| リーグ戦 |
リーグ杯 | 天皇杯
|
期間通算
|
2022 |
G大阪 |
45 |
J1 |
9 |
1 |
- |
- |
9 |
1
|
2023 |
9 |
20 |
1 |
4 |
0 |
0 |
0 |
24 |
1
|
2024 |
札幌 |
7 |
32 |
6 |
2 |
1 |
0 |
0 |
34 |
7
|
通算 |
日本 |
J1
|
224 |
44 |
32 |
14 |
10 |
4 |
266 |
62
|
日本 |
J2
|
15 |
2 |
- |
3 |
1 |
18 |
3
|
ベルギー |
ジュピラー
|
51 |
7 |
- |
2 |
0 |
53 |
7
|
総通算
|
290 |
53 |
32 |
14 |
15 |
5 |
337 |
72
|
その他の公式戦
国内大会個人成績 |
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ |
リーグ戦 |
期間通算 |
出場 | 得点 |
出場 | 得点 |
日本
| リーグ戦 |
期間通算
|
2014 |
J-22 |
- |
J3 |
1 |
0 |
1 |
0
|
2015 |
2 |
0 |
2 |
0
|
通算 |
日本 |
J3
|
3 |
0 |
3 |
0
|
総通算
|
3 |
0 |
3 |
0
|
出場・得点記録
- ハットトリック
タイトル
クラブ
- 桐生第一高等学校
代表
- U-23日本代表
個人
- 全国高等学校サッカー選手権大会 優秀選手(2011年)
- Jリーグカップ・得点王(2019年)
代表歴
出場大会
- U-16日本代表
- U-17日本代表
- U-18日本代表
- Traditional Winter Tournament Israel(2011年)
- 日本高校サッカー選抜
- NEXT GENERATION MATCH(2012年)
- U-19日本代表
- U-20日本代表
- U-21日本代表
- U-22日本代表
- U-23日本代表
- 日本代表
試合数
- 国際Aマッチ 9試合 1得点(2019年 - 2020年)
出場
ゴール
著書
脚注
- 注釈
- 出典
関連項目
外部リンク