菊田神社(きくたじんじゃ)は、千葉県習志野市津田沼(旧津田沼町大字菊田字宮越[1])にある神社。旧社格は村社。神紋は「菊に田の字」。
祭神
由緒
旧久々田村の産土神で、古くは「久々田大明神」と称された。弘仁年間(810年~824年)頃に創建されたと伝わる。かつては境内地周辺は入り江で、当社は島の上に鎮座していたと言われている。時が経つにつれ入り江が浅瀬となり、やがて浅瀬も埋め立てられ周辺が水田地帯となった[2]。「久々田」(くくだ・くぐた)という地名はかつてこの周辺に生えていた「クゴ」という草から来ていると伝わる[3]。
当社の神主を務める植草氏所蔵の「菊田神社古文書」載録の、慶長2年(1597年)5月に行われた本殿の修復に当たって書き残された棟札の裏書の書写には以下のように記されている。
当社安鎮
者往昔何
礼乃時
尓加有
計牟、
大己貴命斎祭
奈利、其後
治承五歳
辛丑夏四月、藤原師経卿罪有
氐、当国
へ左遷時、御船久々田浦
尓着給
布、御船
乃居
礼留地名
乎円田
ト云
布、今宮田
ト云
奈利、後世神
ン祝田ト奈留、師経卿
波神山
尓止
リ住給
布、今
神山明神是也、久々田社
者始
氐着給
布旧跡
奈礼波、御先祖
藤原時平公乎久々田社
乃相殿
仁斎鎮賜
布、社之形如船、一之碇二之碇
止云
布旧跡有
利、今水神ニ祭
留鎮座以来
ノ末社也、
(以下略)[4]
(当社の安鎮は往昔何れの時にか有りけむ、大己貴命を斎み祭るなり。其の後、治承五歳(辛丑)夏四月、藤原師経卿罪有りて当国へ左遷の時、御船久々田浦に着き給ふ。御船の居れる地名を円田と云ふ。今宮田と云ふなり。後世神祝田となる。師経卿は神山〔=三山〕に止まり住み給ふ。今の神山明神これなり。久々田社は始めて着き給ふ旧跡なれば、御先祖・藤原時平公を久々田社の相殿に斎鎮し賜ふ。社の形船の如し。一之碇・二之碇と云ふ旧跡有り、今水神に祭る鎮座以来の末社なり。)
これによれば、治承5年(1181年)に罪を受けて下総国に流罪となった藤原師経[要曖昧さ回避]が久々田浦に漂着し、大己貴命を祭神とする当社に祖先の藤原時平を合わせ祀った。後に師経は千葉郡三山郷(現在の二宮神社)に移住したという[5]。境内が船の形をしているのは、師経一族の着船の記念するためであると伝えられている[2][6][注釈 1]。
もう一つの伝承によれば、師経とその一族郎党が相模国から上総国に渡ろうとして船に乗ったが時化に遭い、姉の乗った船は上総の姉崎(現・市原市)に着いて、いっぽう師経は下総の久々田浦へ流された。鷺沼源太光則という土地の豪族が師経を迎えて、他の一行に無事に到着したことを知らせるために久々田村と鷺沼村の境界にある小丘で烽火をあげた。師経・光則らがかがり火を焚いたと言われる場所は「神之台(かんのだい、かんのんだい)」または「火の口台」と呼ばれ、二宮神社の七年祭りの時に二宮神社と当社の神輿がここに立ち寄るのが恒例となっている[6][10]。
宝暦年間(1751年~1763年)には「菊田大明神」と改称。大正元年(1912年)11月、近隣区内の金刀比羅神社等6社を境内社として合祀。昭和53年(1978年)10月、千葉県神社庁より「顕彰規範神社」に指定された[2]。
境内
御池
境内にある池の水源は二宮神社と言われている。この地域は低地で中世は海が近く、流罪に処せられた師経・師長ら一党が神社の池周辺の入り江に上陸したという伝説も残されている。古墳時代は海岸線が今の陸地に近かったため、この入り江が船着き場であった可能性があると推測する研究家もいる。習志野市周辺の村落に住んでいる人々は海路で、関西方面から来たという伝承の残る旧家が多く存在する。
参道
50-60m程度の比較的整備された参道が延びている。安政5年(1858年)6月建立の鳥居は東日本大震災によって倒壊し、平成23年(2011年)12月に再建された。旧鳥居の一部は境内の一角に陳列されていたが、2020年頃から敷地内の整備のため撤去された。
鳥居から社殿までの間に3対の狛犬があり、一番手前の1対(天保9年(1838年)建立)の吽形にはその表情から「アイーン狛犬」というあだ名がつけられている[11][12][13]。
社殿
社殿が改造営・改修された時期は以下の通りである。
- 康元元年(1256年)- 社殿が木造に改築造営
- 慶長2年(1597年)5月
- 正保3年(1646年)9月
- 寛保2年(1742年)9月
- 宝暦3年(1753年)9月 - 拝殿造営
- 寛政8年(1796年)11月
- 文政3年(1820年)8月
- 弘化3年(1846年)9月
- 明治26年(1893年)12月 - 拝殿・玉垣再造営
- 昭和48年(1973年)9月 - 本殿の屋根、銅板瓦葺に改修
- 平成7年(1995年)9月 - 神輿庫改築、神輿新調
摂末社
祭事
- 歳旦祭(1月1日)
- 節分祭(2月3日)
- あんば様(3月15日に近い日曜日)
- 3月15日に近い日曜日に行われる民間信仰の行事。「あんばーおーせー(阿波大杉)大明神、悪魔を払ってよーいやせ」と唱えながら地区内を神輿渡御する。正しくは「阿波様(あばさま)」といい、明治期に天然痘(ほうそう)流行を防ぐために始まったと言われている。言い伝えによると、久々田村の行商が伝染病に効くと言われている常陸国阿波村(現・茨城県稲敷市)の大杉神社(大杉大明神)の御札を持ち帰ったところ、疫病の流行が治まったという。それ以降、大杉神社の分霊を境内に祀り「あんば様」の祭りが続けられている。
- 船橋市三山にある二宮神社を中心とし、船橋市・千葉市・八千代市・習志野市の9神社が参加する祭り。当社は「叔父(おじ)」の役割を務める。
交通アクセス
関連場所
- 藤原師経が荒天に遭遇してこの地に流れ着いた際に、見失った姉の船に合図の烽火を上げたと伝わる場所。七年祭りの終わりに際して二宮神社の神輿がここに安置され、神事が行われる[6][14][15]。
- 位置:北緯35度40分38秒 東経140度01分25.5秒 / 北緯35.67722度 東経140.023750度 / 35.67722; 140.023750
脚注
注釈
- ^ なお、安元3年・治承元年(1177年)3月29日に備後国に配流された人物に藤原師経(師恒とも。西光の次男で藤原師高の弟に当たる)がいるが、この師経は時平ではなく藤原魚名を祖とし、また下総国に左遷されることなく同年6月に起こった鹿ケ谷の陰謀に際して京都の六条河原で斬首された[7][8]。このことから当社の師経伝承は後世に成立したものと考えられている[9]。
出典
参考文献・サイト
- 『習志野市史 第一巻 通史編』習志野市教育委員会編、習志野市役所、1995年。
- 『習志野市史 第三巻 史料編』習志野市教育委員会編、習志野市役所、1993年。
- 将司正之輔『ならしの見聞記』将司正之輔、1979年。
- 『菊田神社(小冊子)』菊田神社。
- “御祭神・御由緒”. 菊田神社公式HP. 2019年11月23日閲覧。
- “年中行事”. 菊田神社公式HP. 2019年11月23日閲覧。
関連項目
外部リンク