花山院 師賢(かさんのいん もろかた)は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。内大臣・花山院師信の二男。官位は正二位・大納言、贈太政大臣。後醍醐天皇の討幕計画に参加したが、幕府に拘束されて配所の下総国で没した。
後醍醐朝の有力歌人であり、『続千載和歌集』以下の勅撰和歌集に14首が入集したほか、准勅撰和歌集『新葉和歌集』にも文貞公(ぶんていこう)の諡号で49首が採られた。
経歴
正安4年(1302年)1月に僅か2歳で叙爵。徳治元年(1306年)12月に侍従になり、右少将・左中将などを経て、正和5年(1316年)11月に従三位、翌文保元年(1317年)12月に参議として公卿に列した。同2年(1318年)2月後醍醐天皇が践祚すると、7月には上席参議4人を越えて権中納言に任じられる。当初は父と同じく持明院統に出仕した師賢だが、その母が天皇の母(談天門院)と近い血縁に当たるためか、やがて後醍醐から重用されるようになり、中宮権大夫・左衛門督・弾正尹などを歴任した。正中3年(1326年)2月権大納言、嘉暦2年(1327年)11月正二位に叙任され、同4年(1329年)6月には大納言に転じた。また、『増鏡』によれば、後醍醐天皇と側室の二条藤子の間に生まれた「若宮」(懐良親王[2])の乳父(後見人・教育係)になったという。
元弘元年/元徳3年(1331年)8月元弘の乱が勃発して天皇が京都から逃れるに及び、北長尾の山荘に隠棲していた師賢はこれに供奉して三条河原まで赴いたが、勅命によって天皇の身替りとなり、服装と腰輿を整え、四条隆資らの公卿を従えて比叡山に登った。これを天皇と思った延暦寺衆徒は大いに士気を挙げ、押し寄せる六波羅の幕府軍をよく撃退したので、天皇は追撃を受けずに笠置に潜幸することが可能となったのである。じきにその謀略が露見し、失望した衆徒は離反するに至り、師賢らは密かに山を下って笠置に拠る天皇と合流した。しかし、1か月に及ぶ幕府軍との攻防の末、9月28日に笠置が陥落し、師賢は天皇に従って敗走するも、その途中で捕捉されて、翌29日に出家を遂げた。法名を素貞という。10月宇治平等院から六波羅に移送され、長井遠江入道の許へ預けられた。翌元弘2年/正慶元年(1332年)4月幕府から遠流の処分が伝えられると、翌月中旬に京都を発って下総国に下り、千葉貞胤の家で拘禁の身となるが、10月末に病のため同地で薨去。享年32。後年、師賢を愛惜した天皇より太政大臣を追贈され、文貞公と諡された。
人物
二条派の廷臣歌人として、元亨以降の公宴(くえん)に詠進したが、元弘の乱に際してその感慨を詠じた作品は特に評価が高い。『続千載和歌集』以下の勅撰集に14首、南朝の准勅撰集『新葉和歌集』に49首が採られた他、『臨永和歌集』などの私撰集にも入集する。『二八要抄』の編者ともされ、日記に『師賢卿記』(元応3年2月分のみ現存)がある。
『太平記』
『太平記』では、後醍醐天皇は即位初期から鎌倉幕府を打倒して朝権を回復せんとの意志があり、日野資朝・俊基が催した討幕の密議(無礼講)には師賢もその同志として参加した、と描かれている。しかし、師賢が無礼講や正中の変に加わっていたことを示す実証的証拠はない。2007年には河内祥輔によって正中の変が討幕計画だったとする説そのものに疑問が提起された。詳細は正中の変。
略譜
系譜
脚注
- ^ a b 『常楽記』・『新葉和歌集』による。『南方紀伝』・『南朝編年記略』などは具体的に10月29日(11月17日)とする。
- ^ 法仁入道親王とする場合もある。
- ^ 『南方紀伝』・『花山院家譜』による。『南朝編年記略』は同年9月21日とし、『断絶諸家略伝』は建武元年(1334年)とする。
参考文献
関連項目
外部リンク