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第三次ホムスの戦い 」は
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(2019年7月 )
この項目では、第三次ホムスの戦いについて説明しています。その他のホムスで行われた戦いについては「ホムスの戦い (曖昧さ回避) 」をご覧ください。
第三次ホムスの戦い は、1299年 にモンゴル がマムルーク朝 に勝利した戦いである[ 2] 。合戦のあった戦場の地名をとって、ワーディル・ハズナダール(アラビア語 : وادي الخزندار , ラテン文字転写 : Wādī al-Ḵaznadār )の戦いともいう[ 2] 。
背景
1260年 、モンゴルのフレグ・ハン ははるばるパレスチナ を目指して中東 レヴァント 地域を侵略した。エジプト ・マムルーク朝の侵入に対抗しようとする直前、彼はモンゴルのカアンで長兄のモンケ の死去による跡継ぎ問題のため、急遽モンゴルに呼び戻された。やむなく彼は、将軍キト・ブカ の下に2つのトゥメン (万人隊×2, 計20,000騎) を防衛のために残して去った (ただし、結果的に彼はモンゴルには戻らず、帰路の途上で次兄クビライ と弟アリクブケ による帝位継承戦争 が始まったことを聞くと、イランの地でイルハン朝を建国した)。しかし、この防衛軍はアイン・ジャールートの戦い で敗れ、モンゴル軍はパレスチナ、シリア の地を追われる結果となった。
フレグは再軍備してレヴァント地域に戻ろうとしたが、マムルーク朝とひそかに同盟していたジョチ・ウルス のベルケ (フレグのいとこにあたる) がコーカサス で内戦 を扇動した (ベルケ・フレグ戦争 (英語版 ) ) ことにより阻まれ、再侵略を阻止された。
レヴァントを回復した後、マムルーク朝は、どちらもモンゴルの保護国 となっていたキリキア・アルメニア王国 とルーム・セルジューク朝 への侵入を試みたが、敗れ、シリアに押し戻された。
1299年、モンゴルがシリアで最後に敗れた第二次ホムスの戦い からほぼ20年が経ち、ガザン・ハン 率いる60,000騎の自軍と40,000騎のグルジア およびアルメニア兵は、マムルーク朝とイルハン朝の国境線でもあったユーフラテス川 を渡り、アレッポ を占拠した。
モンゴル軍は、南へ進軍した。彼らは幅約10マイルの戦線をホムスのわずか2-3マイル北に展開し、そこからモンゴルの軍は南へ進軍した。
マムルーク朝のスルタン 、ナースィル・ムハンマド はこの時シリアにあって、20,000~30,000騎 (他の出典ではそれ以上) のマムルーク軍をダマスカス の北方に行軍させ、1299年12月22日の早朝5時、ホムスの北東2-3アラブファルサフ (=6-9マイル) にあるワーディル・ハズナダールでモンゴル軍と相対した[ 2] 。太陽は既に昇っていた。
戦闘
マムルーク軍騎兵がモンゴル軍に襲い掛かったことから戦いが始まった。その後、モンゴルの弓騎兵 が彼らの馬の後に立ってマムルーク軍に矢を浴びせる間に、モンゴルの重騎兵 はマムルーク軍の中に突っ込んだ。戦いの初期、両軍は早くから白兵戦 に陥っていた。結局午後に、マムルーク軍の右翼がモンゴル軍によって突破され、モンゴル軍の進撃の報を聞いて、即座にマムルーク軍は総崩れに陥った。軍団内の伝令が戦場の反対側の側面につくまでに時間がかかった。モンゴル軍はその突破口を利用して、最終的に戦場全体を完全に支配し、残りのマムルーク軍を蹴散らした。
モンゴルのレヴァント侵攻 (1299年-1303年) 中の第三次ホムスの戦いの場所
損害
マムルーク朝側の出典では、モンゴル軍の犠牲者が5,000-10,000人を数えた間、マムルーク朝の兵は200人が死んだだけだと伝えている。戦いの帰趨がマムルーク軍の右翼が崩壊したことにあり、それでも全犠牲者が200人という事実は考えにくく、誤認もしくは誇張と思われる。明らかな犠牲者格差にもかかわらず、モンゴル軍が戦場を支配し続け、ダマスカスの占拠に向かったという事実からも、マムルーク軍が実は「深刻な敗北」を被っていたことが推測される[ 3] 。
戦後の動き
マムルーク軍はダマスカスに向かって南方へと撤退した。しかし、途中で、祖国の独立を望んだマロン派キリスト教徒 12,000人とドゥルーズ派 の弓兵 によって、彼らは絶えず悩まされた。将軍ムーレイに率いられたモンゴル軍の一部隊は、ガザンの主力部隊から分かれて、ガザ 付近までマムルーク軍を追撃し、彼らをエジプトへと追い返した。
「大勝利」を宣言したモンゴル軍はダマスカス到着まで、南から進軍を続けた。ダマスカスの都市は直ぐに略奪され、ダマスカス城砦 (英語版 ) は包囲された。
モンゴル軍の勝利を足掛かりとするキリスト教国家の十字軍側の対マムルーク朝で協調した動きは見られず、マムルーク軍はモンゴル軍の撤退の後直ぐにシリアおよびパレスチナの奪還に動き出した。グルジア軍やキリキア・アルメニア軍の参加は、西側のキリスト教十字軍とは明らかに関係の無い動機だった。
第三次ホムスの戦いの後、モンゴル軍は、パレスチナを圧迫し続け、最終的にエルサレム に到着した。1300年、騎馬の飼葉の補給が切れ、チャガタイ・ハン国 の侵入を撃退するためモンゴル軍 (イルハン朝軍) が撤退するまで、小規模な襲撃部隊がガザに至るパレスチナ中を略奪した。
脚注
^ a b c Mazor, p. 116
^ a b c Amitai, R. (2002). "Wadi 'L-Khaznadar". Encyclopaedia Islamica . Vol. XI. ed. P.J.Bearman, T.Bianquis, C.E.Bosworth, E. van Donzel and W.P.Heinrichs. Brill. p. 18.
^ Burns, Ross (2005) Damascus, a History . Routledge, ISBN 978-0-415-27105-9 , p. 202.
出典
座標 : 北緯34度44分12秒 東経36度42分56秒 / 北緯34.73678度 東経36.71559度 / 34.73678; 36.71559