蔡州の戦い

蔡州の戦い
モンゴル帝国の金朝征服
戦争第二次対金戦争
年月日太宗5年/天興2年9月9日 - 太宗6年/天興3年1月10日1233年10月13日 - 1234年2月9日
場所蔡州(現在の河南省駐馬店市
結果モンゴル帝国南宋の勝利、金朝の完全滅亡
交戦勢力
モンゴル帝国
南宋
金朝
指導者・指揮官
オゴデイ
タガチャル
セウニデイ
史天沢
張柔
孟珙
哀宗 
末帝 
石抹世勣 
高剌哥 
王愛実 
戦力
5万以上 不詳
損害
不詳 全軍壊滅

蔡州の戦い(さいしゅうのたたかい)は、1233年から1234年初頭にかけて行われたモンゴル帝国南宋連合軍による蔡州の包囲戦。

蔡州は金朝の皇帝哀宗が最後に逃れた地であり、金軍の決死の抵抗によって蔡州城下・汝水で4カ月近くに渡って激戦が繰り広げられた。しかし、年が明けて1234年正月にモンゴル・南宋連合軍の攻撃によって蔡州は陥落し、この時哀宗・末帝がともに亡くなったことにより、金朝は名実共に滅亡するに至った。

背景

1229年正大6年/己丑)に新たに即位したオゴデイは即位後最初の大事業として未だ河南一帯を支配する金朝の征服を掲げ、モンゴル軍伝統の3軍編成で金への侵攻を始めた(第二次対金戦争)。右翼軍を率いるトゥルイは南宋領を経由する大迂回によって南方から河南に入り、三峰山の戦いで金軍の主力を壊滅させることに成功した。

主力軍を失った金朝はもはや野戦でモンゴルに対抗する術を失い、首都の開封はスブタイ率いる軍団によって包囲された。しかし、包囲戦のモンゴルとの講和交渉の失敗や地方の将軍の敗退を受けて哀宗は開封での抗戦を諦め、一部の側近のみを連れて開封を脱出することを決意した。開封を逃れた哀宗らは帰徳を経て蔡州まで至ったが、そこで再びタガチャル率いるモンゴル軍の包囲を受けることになった。

概要

哀宗の開封脱出

現在の開封市

開封からの脱出を決意した哀宗はモンゴルに露見することを恐れ、后妃すら伴わず側近の高官とともに1232年天興元年/壬辰)12月12日に開陽門から城外に出た[1]。金末の著名な文人である元好問には哀宗の開封脱出から開封陥落までを詠った「壬辰十二月車駕東狩後即事五首」という歌があり、その冒頭で哀宗の開封脱出(=車駕東狩)の情景を詠っている[2]

開封を脱出した哀宗は白撒の進言に従い、黄河を北に渡って衛州を奪い返さんと北上し、陳留から杞県・黄城・黄陵岡へと進んだ[3][4]。ところが、先行した白撒は八日も合流に遅れ、武具も整っておらず、しかも白撒が「我が軍は壊滅した。北兵(モンゴル軍)は強大だ」と報告したことによって金軍は戦わずして潰走し帰徳に退却した[5][6]。事を知った哀宗は激怒して白撒を処刑し、直々に将士に対して白撒の失策によって兵を失ったことを述べ、白撒のようにならず国家に尽くせ、と述べたという[7]

また、白撒の処刑の前日(天興2年正月16日)に哀宗は皇后の弟である徒単四喜を開封に派遣し、残してきた太后・皇后らを迎えようとしていた。無事開封にたどり着いた徒単四喜は21日夜に太后・皇后らとともに逃れようとしたが、城外に火の手が上がるのを見て脱出を先のばしにした[8]。ところが22日に崔立によるクーデター(崔立の変)が勃発してしまい、やむなく太后・皇后の救出を諦めて帰徳に戻った徒単四喜は哀宗の怒りを受けて処刑されてしまった[9]

「崔立の変」によって哀宗は開封の情勢に干渉することが困難になり、同年4月18日に崔立がモンゴルに降ったことで西北方に逃れる道は絶たれた。そこで哀宗は6月に元師の王璧を残して帰徳を発ち、南下して蔡州に入った[10]。しかし既に哀宗の行動はモンゴル軍に捕捉されており、開封を包囲していた指揮官の一人、タガチャルによって蔡州は包囲されることになった[11]

南宋の動向

1233年(天興2年/癸巳)6月、モンゴル帝国は南宋に王檝を使者として派遣し、両国で協力し金朝を討つことを申し出た[12][13]。王檝を迎え入れた京湖安撫制置使・知襄陽府の史嵩之はこれを臨安の南宋朝廷に報告したところ、大臣のほとんどがモンゴルの申し出を受け入れることに賛成し、金朝を討ち積年の恨みを晴らすべきであると語りあったという。ただし、権工部尚書の趙范のみは後にかつて北宋が金朝と同盟して遼朝を打倒したものの、結局は金朝によって華北を奪われることになった故事(海上の盟)を引きモンゴルとの同盟に反対したが、南宋朝廷は遂に金朝が滅ぶまでこの協力関係を絶つことは無かった[14][15]

南宋の協力を得たモンゴル軍は南宋領を迂回することで南方から金朝領を奇襲することに成功し、三峰山の決戦において金朝軍主力の殲滅を果たした。モンゴル軍が孤立した首都の開封を包囲するのと並行して、南宋も江陵副都統の孟珙の軍団を派遣して金朝領への侵攻を開始した。孟珙率いる南宋軍の進撃により、まず5月に鄧州が、それから間もなく申州が投降するに至った。更に同年7月には金軍を浙江で破り、8月には唐州を占領した上で息州まで進出した[16][17]

この間、金朝側では前述したように哀宗が開封を逃れて蔡州に逃れており、これを追撃したタガチャルにより蔡州包囲戦が始まっていた。蔡州を短日では攻め落とせないと見たモンゴル軍は8月に再度王檝を南宋領の襄陽に派遣し、両国の間で改めて協力し蔡州を攻めることが約された[18]。これにより、南宋軍も蔡州包囲戦に加わることとなった[19]。一方、金朝は南宋に使者を急派して「唇亡びて歯寒し」の論理を挙げて、モンゴルに対抗する同盟の結成を哀願したが、既に方針を決めた南宋は金朝の提案を一蹴している[20]

蔡州包囲戦

モンゴル・南宋連合軍による金朝侵攻

9月、蔡州に辿り着いたモンゴル軍はまず数百騎を城壁の東に派遣し、「城が早く降れば殺戮は免れるが、さもなければ生者はいなくなるだろう」と呼びかけた[21]。9月9日、哀宗は群臣に訓示を行い酒を賜っていたが[22]、蔡八児率いる精鋭兵100人余りを密かに暗門から出撃させ、蔡八児は汝水を渡ってモンゴル軍への奇襲を成功させた[23][21]。これによって短期決戦を難しいと見たモンゴル軍は城壁を包囲する「長塁」を築き始め[24]、金朝の側でも城内の食糧を集め造酒を禁じて長期戦に備えた[25][21]

10月1日は早くもモンゴル軍が築いた「長塁」が完成し、蔡州城下に迫ったモンゴル兵の旗竿によって空が覆われ、城民は驚き恐れたという[26][27]。包囲から1カ月も経たない10月中には既に城内で食糧不足が起こり、餓えた民は救いを有司に求めたため、哀宗は日に千人、しかも幼老病人のみが城を出ることを許した[21]。この時、皇族の傍系である完顔絳山は民の飢餓を憐れんで規定数以上を城外に出してしまったことにより杖刑を受けたが、やがて密かに城外に出る者が増えすぎてこの措置は止められた[28][21]。やむなく、朝廷は餓民に船を供給し、城壕で水草を採り飢えを凌ぐことを許したという[29][21]。激戦の最中、モンゴル側の前鋒のタタルが金将に鬚を掴まれて危うい所を、クチャ・バートルが救ったとの記録もある[30]

11月、孟珙率いる5万の南宋軍が30万石の食糧とともに蔡州に到着し[31][32][33]、南宋軍は城の南門から、モンゴル軍はそれ以外の東・北・西門から攻城を開始した[34][27]。追い詰められた金軍は必死の防戦を行い、北門への攻撃を担当した史天沢セウニデイは筏を組んで汝水を渡り、「連日血戦が行われた(血戦連日)」という[35][36][27]。一方、南門を攻める南宋軍は進軍を阻む柴潭の水を涸らそうとしたため、金軍は南門から決死軍を出して激戦が繰り広げられたが、モンゴルに仕える漢人世侯の一人の張柔の奮戦によって南門でも金軍は撃退された[37][27]

12月初め、モンゴル・南宋連合軍が武仙を息州で破ったことにより、海州・沂州・萊州・濰州の各州はモンゴルに降伏し、蔡州の孤立は決定的となった[38]。同月、追い詰められた金軍は戸籍のある民を全て徴兵し、体の丈夫な女性も男子の衣服を着て石を運ぶのを手伝い、哀宗自ら軍を指揮した[39][40][27]。12月7日(己丑)、モンゴル軍は練江を、南宋軍は柴潭をそれぞれ進んで汝水を渡り、9日(己卯)には蔡州の外城を破って宿州副総帥の高剌哥を戦死せしめた[41]

12月19日(己丑)、モンゴル軍が蔡州の西城を突破したことにより、状勢を悲観した哀宗は侍臣たちに「我は金紫(高官)として十年、太子として十年、皇帝として十年、自ら大いなる過悪がないことを知るため、死すとも恨みはない。しかし、恨むのは祖宗か百年伝えられた祭祀を我の代で絶ってしまうことと、古の荒淫暴乱により国を滅ぼした君主たちと一緒になってしまったことである」と語った。また、「古より滅びなかった国家は存在しないが、亡国の君主は往々にして投獄されて囚人となり、或いは俘虜として献上され、或いは階庭で辱められる。朕は必ずそのようにはならない」とも述べている。同日、砲軍総帥の王鋭は、元帥の谷当哥を殺害し、30人の部下とともにモンゴルに降伏した[42]

蔡州の陥落

汝水流域

12月24日(甲午)、哀宗は側近の兵とともに城の東から密かに逃れ出ようとしたが、モンゴル軍の築いた柵に阻まれ、やむなく戦いつつ撤退した[43]。1234年(天興3年/甲午)1月9日(戊申)夜、追い詰められた哀宗は百官を集めて族兄の呼敦(完顔承麟)に譲位せんとした。はじめ、呼敦は固く譲位を拒絶したが、哀宗は「朕は太っていて、馬に乗って戦いを指揮することができない。もし蔡州城が落ちれば、馬に乗って逃げるのは難しいだろう。一方、そなたは体力があり、強靭で、さらに将略に長けているため、万一の時は蔡州から脱出し皇統を保って欲しいというのが朕の志である」と説得したため、呼敦はやむなく即位を受け入れた[44]

その翌日の1月10日(己酉)、すぐに呼敦の即位式が行われたが、儀礼が終わった直後にモンゴル・南宋連合軍の総攻撃が始まった。まず南門が陥落して敵兵が城内に侵入し始めたため、状勢を悲観した哀宗は城奥の幽蘭軒において自ら縊死した。哀宗の死の知らせを受けた呼敦は残りの廷臣を集め、先帝の廟号を「哀宗」と定めたが、それから間もなく乱戦の中で自らも殺された[45][46]。在位僅か1日にも満たなかった呼敦は後世の史書で金の「末帝」と呼ばれている[47]

最後まで哀宗に付き従った者の内、蔡八児は末帝への拝礼を拒んで「事ここに至れば死あるのみである。どうして今更仕える主君を代えられようか」と語り、遂に戦死を遂げた[48]。また、完顔絳山は完顔斜烈より哀宗が命を絶った幽蘭軒を焼き払うようにとの遺言を実行した後、敢えて逃げることなくモンゴル兵に捕まった。不審に思ったモンゴル兵に何故逃げなかったのか尋ねられた完顔絳山は幽蘭軒が燃え尽きた後遺骨を集めるつもりだったと語り、モンゴル兵から笑われたが、かえってタガチャルは「奇男子である」と称え、完顔絳山を釈放した。完顔絳山は前言通り幽蘭軒の灰を集めて汝水の傍らに埋めた後、自らも汝水に身を投げんとしたが、周囲の軍士に留められ、その後の去就は伝えられていないという[49]。蔡八児・完顔絳山らは『金史』において忠義伝に立伝されている。

西方イランフレグ・ウルスで編纂されたペルシア語史料の『集史』オゴデイ・カアン紀は、哀宗の遺骸について漢文史料に見られない別の伝承を伝えている[50]。『集史』によると、モンゴル軍は自分達が殺害したのが「アルタン・ハンの後継者(qāyem-maqāmī)」、すなわち末帝(呼敦)であったことを知ると、改めてアルタン・ハン=哀宗の身柄を捜した[50]。ヒタイ人たち(khitāīyān=旧金朝領の漢人)は「アルタン・ハンの遺体は焼かれた」と報告したがモンゴル人はこれを信じず、その首を検分(tahqīq)のため要求した。やがてナンギャス人(nangiyāsyān=南宋の臣民)たちも事情を知るとヒタイ人たちに味方し、最終的にモンゴル人には哀宗とされる遺体の腕(dast)部分が引き渡された[50]。モンゴル人たちはこの件でナンギャス人に怒りを抱いたが、やむなく遺体の腕を受け容れて帰還したとされる[50]。この逸話に対応するように、『宋史』には戦後哀宗の遺骨を臨安の太廟に祀った、との記録がある[51]

脚注

  1. ^ 高橋2021,113頁
  2. ^ 高橋2021,119頁
  3. ^ 高橋2021,121頁
  4. ^ 『金史』巻18哀宗本紀下, 「[天興元年十二月]辛丑、至開陽門外、麾百官退。詔諭戍兵曰『社稷宗廟在此、汝等壮士也、毋以不預進発之数、便謂無功、若保守無虞、将来功賞顧豈在戦士下』。聞者皆灑泣。是日、鞏昌元帥完顔忽斜虎至自金昌、為上言京西三百里之間無井竈、不可往、東行之議遂決、以為尚書右丞従行、遂次陳留。壬寅、次杞県。癸卯、次黄城。丞相完顔賽不之子按春有罪、伏誅。甲辰、次黄陵岡。乙巳、諸将請幸河朔、従之」
  5. ^ 高橋2021,121頁
  6. ^ 『聖武親征録』,「癸巳春正月二十三日、金主出南京、入帰徳。金人崔立遂殺留守南京参政二人、開門詣速不台抜都降。四月、速不台抜都至青城、崔立又将金主母后・太子二人曁諸族人来献、遂入南京」
  7. ^ 高橋2021,121-122頁
  8. ^ 高橋2021,122頁
  9. ^ 高橋2021,123頁
  10. ^ 『金史』巻18哀宗本紀下,「[天興二年六月]辛卯、上発帰徳、留元帥王璧守之。壬辰、次亳州。癸巳、以亳州節度使王進・同知節度使王賓徴民丁運鉄甲糗糧、留権参政張天綱董之、就遷有功将士。臨淄郡王王義深拠霊璧望口寨以叛、遣近侍直長女奚烈完出将徐・宿兵討之、義深敗走漣水、入宋。丙申、亳州鎮防軍崔復哥殺守臣王賓等、張天綱以便宜授復哥節度使、罷運鉄甲糗糧、州人乃安。己亥、上入蔡州、詔尚書省為書召武仙会兵入援。徐州行省抹撚兀典赴蔡州。起復右丞相致仕賽不代行省事」
  11. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「詔塔察児等進囲汴城。金主即以兄子曹王訛可為質、太宗与睿宗還河北。塔察児復与金兵戦於南薰門。癸巳、金主遷蔡州、塔察児復帥師囲蔡。甲午、滅金」
  12. ^ 『四庫全書総目提要』巻52使北日録,「理宗紹定六年癸巳、史嵩之為京湖制置使、與蒙古會兵攻金。会蒙古遣王檝來通好、因假伸之朝奉大夫、京湖制置使参議官往使。以是歳六月、偕王檝自襄陽啓行」
  13. ^ 李1988,162頁
  14. ^ 『宋史』巻41理宗本紀1,「[紹定六年十一月]丙寅、権工部尚書趙范言『宣和海上之盟、厥初甚美、迄以取禍、其事不可不鑑』。帝嘉納之」
  15. ^ 李1988,162-163頁
  16. ^ 『宋史』巻41理宗本紀1,「[紹定六年]五月庚戌……鄧州移剌以城来降。……秋七月、敗武仙於浙江。八月、抜唐州」
  17. ^ 李1988,163-164頁
  18. ^ 『宋史』巻41理宗本紀1,「[紹定五年十二月]癸卯……時宋与大元兵合囲汴京、金主奔帰徳府、尋奔蔡州、大元再遣使議攻金、史嵩之以鄒伸之報謝」
  19. ^ 李1988,164頁
  20. ^ 『金史』巻18哀宗本紀下,「[天興二年八月]……条假蔡州都軍致仕内族阿虎帯同僉大睦親府事、使宋借糧、入辞、上諭之曰:『……大元滅国四十、以及西夏、夏亡必及於我。我亡必乃于宋。唇亡歯寒、自然之理。若与我連和、所以為我者亦為彼也。卿其以此暁之』。至宋、宋不許」
  21. ^ a b c d e f 何ほか1992,522頁
  22. ^ 『金史』巻18哀宗本紀下,「[天興二年九月]庚戌、以重九拝天于節度使庁、群臣陪従成礼、上面諭之曰……因賜巵酒。酒未竟、邏騎馳奏、敵兵數百突至城下。将士踴躍咸請一戦、上許之」
  23. ^ 『金史』巻124列伝62忠義4蔡八児伝,「蔡八児、不知其所始。矯捷有勇、性純質可任。時為忠孝軍元帥。天興二年、自息州入援、会大将奔盞遣数百騎駐城東、令人大呼曰『城中速降、当免殺戮、不然無噍類矣』。於是、上登城、遣八児率挽強兵百餘潜出暗門、渡汝水、左右交射之。自是兵不復薄城、築長塁為久困計。上令分軍防守四城、以殿前都点検兀林答胡土守西面、八児副之」
  24. ^ 『聖武親征録』,「六月、金主出帰徳府、入蔡。塔察児火児赤統大軍囲守。是月十日、遣人入蔡催降、勿応、四面築城攻之」
  25. ^ 『金史』巻18哀宗本紀下,「[天興二年九月]辛亥、大元兵築長塁囲蔡城。己未、括蔡城粟。辛酉、禁公私醸酒」
  26. ^ 『金史』巻119列伝57忠義4完顔仲徳伝,「[天興二年]十月壬申朔、大兵壕塁成、耀兵城下、旗幟蔽天。城中駭懼、及暮、焚四関、夷其牆而退」
  27. ^ a b c d e 何ほか1992,523頁
  28. ^ 『金史』巻124列伝62忠義4完顔絳山伝,「完顔絳山、哀宗之奉御也、系出始祖。天興二年十月、蔡城被囲、城中饑民万餘訴於有司求出、有司難之、民大呼於道。上聞之、遣近侍官分監四門、門日出千人、必老稚羸疾者聴其出。絳山時在北門、憫人之饑、出過其数、命杖之四十。然出者多泄城中虚実、尋止之」
  29. ^ 『金史』巻18哀宗本紀下,「[天興二年十月]辛巳、縦饑民老稚羸疾者出城。……甲申、給饑民船、聴采城壕菱芡水草以食」
  30. ^ 『元史』巻123列伝10苫徹抜都児伝,「苫徹抜都児、欽察人。……従攻蔡州、前鋒答答児与金将戦、金将捽其鬚、苫徹抜都児進斫金将、乃得脱。蔡州破、金守将佩虎符立城上、苫徹抜都児以鉄椎撃殺之、取虎符以献。帝嘉其能、命従皇子攻棗陽」
  31. ^ 『宋史』巻41理宗本紀1,「[紹定六年]冬十月、江海領襄軍従大元兵合囲金主于蔡州」
  32. ^ 『金史』巻18哀宗本紀下,「[天興二年]十一月辛丑朔……宋遣其将江海・孟珙帥兵万人、献糧三十万石助大元兵攻蔡」
  33. ^ 『元史』巻2太宗本紀,「[五年]冬十一月、宋遣荊鄂都統孟珙以兵糧来助」
  34. ^ 『聖武親征録』,「十一月、南宋遣太尉孟珙等領兵五万運糧三十万石、至蔡来助。分兵南面攻之、金人挙沂・萊・海・濰等州来降」
  35. ^ 『元史』巻155列伝42史天沢伝,「金主遷蔡、帝命元帥盞率大軍囲之。天沢当其北面、結筏潜渡汝水、血戦連日。甲午春正月、蔡破、金主自経死、天沢還真定」
  36. ^ 『元史』巻120列伝7肖乃台伝,「壬辰、度河、略汴京、徇睢州、遇金将完顔慶山奴、与戦、敗之、追斬慶山奴。金主入蔡、諸軍囲之。肖乃台・史天沢攻城北面、汝水阻其前、結筏潜渡、血戦連日。金亡、朝廷以肖乃台功多」
  37. ^ 『元史』巻147列伝34張柔伝,「壬辰、従睿宗伐金……遂囲睢陽、金主走汝南。汝南恃柴潭為阻、会宋孟珙以兵糧来会、珙決其南、潭水涸。金人懼、啓南門求死戦、柔以歩卒二十餘突其陣、促聶福堅先登、擒二校以帰。又遣張信拠其内隍、諸軍斉進、金主自殺。汝南既破、下令屠城、一小校縛十人以待、一人貌独異、柔問之、状元王鶚也、解其縛、賓礼之」
  38. ^ 『元史』巻2太宗本紀,「[五年]十二月、諸軍与宋兵合攻蔡、敗武仙于息州。金人以海・沂・萊・濰等州降」
  39. ^ 『金史』巻18哀宗本紀下,「[天興二年]十二月甲戌、尽籍民丁防守、括婦人壮捷者假男子衣冠、運大石。上親出撫軍」
  40. ^ 『金史』巻119列伝57忠義4完顔仲徳伝,「[天興二年]十一月辛丑、大兵以攻具傅城、有司尽籍民丁防守、不足則括婦女壮健者、假男子衣冠使運木石。蔡既受囲、仲徳営画禦備、未嘗一至其家、拊存軍士、無不得其歓心、将校有戦亡者、親為賻祭、哭之尽哀。己丑、西城破、城中前期築柵浚壕為備、雖克之不能入也。但於城上立柵、南北相去百餘歩而已。仲徳摘三面精鋭日夕戦禦、終不能抜」
  41. ^ 『金史』巻18哀宗本紀下,「[天興二年十二月]丁丑、大元兵決練江、宋兵決柴潭入汝水。己卯、大元兵破外城、宿州副総帥高剌哥戦歿。辛巳、以総帥孛朮魯婁室・殿前都点検兀林答胡土皆権参政、都尉完顔承麟為東面元帥、権総帥」
  42. ^ 『金史』巻18哀宗本紀下,「[天興二年十二月]己丑、大元兵堕西城、上謂侍臣曰『我為金紫十年、太子十年、人主十年、自知無大過悪、死無恨矣。所恨者祖宗伝祚百年、至我而絶、与自古荒淫暴乱之君等為亡国、独此為介介耳』。又曰『古無不亡之国、亡国之君往往為人囚縶、或為俘献、或辱於階庭、閉之空谷。朕必不至於此。卿等観之、朕志決矣』。都尉王愛実戦歿。砲軍総帥王鋭殺元帥谷当哥、率三十人降大元」
  43. ^ 『金史』巻18哀宗本紀下,「[天興二年十二月]甲午、上微服率兵夜出東城謀遁、及柵不果、戦而還。乙未、殺尚厩馬五十疋・官馬一百五十疋犒将士」
  44. ^ 『金史』巻18哀宗本紀下,「[天興三年正月]甲辰、以近侍分守四城。戊申、夜、上集百官、伝位於東面元帥承麟、承麟固譲。詔曰『朕所以付卿者、豈得已哉。以肌体肥重、不便鞍馬馳突。卿平日髂捷有将略、万一得免、祚胤不絶、此朕志也』」
  45. ^ 『聖武親征録』,「甲午春正月十日、塔察児火児赤急攻、蔡城危逼、金主伝位于族人承麟、遂縊焚而死。我軍入蔡、獲承麟殺之。金主遺骸、南人争取而逃。平金之事如此」
  46. ^ 『宋史』巻41理宗本紀1,「[端平元年春正月]戊申、金主完顔守緒伝位於宗室承麟。己酉、城破、守緒自経死、承麟為乱兵所殺、執其参知政事張天綱」
  47. ^ 『金史』巻18哀宗本紀下,「[天興三年正月]己酉、承麟即皇帝位。百官称賀。礼畢、亟出捍敵、而南面已立幟。俄頃、四面呼声震天地。南面守者棄門、大軍入、与城中軍巷戦、城中軍不能禦。帝自縊于幽蘭軒。末帝退保子城、聞帝崩、率群臣入哭、諡曰哀宗。哭奠未畢、城潰、諸禁近挙火焚之。奉御絳山収哀宗骨瘞之汝水上。末帝為乱兵所害、金亡」
  48. ^ 『金史』巻124列伝62忠義4蔡八児伝,「已而哀宗度蔡城不守、伝位承麟。群臣入賀、班定、八児不拝、謂所親曰『事至於此、有死而已、安能更事一君乎』。遂戦死」
  49. ^ 『金史』巻124列伝62忠義4完顔絳山伝,「三年正月己酉、蔡城破、哀宗傳立承麟、即自縊于幽蘭軒。権点検内族斜烈矯制召承御石盞氏・近侍局大使焦春和・内侍局殿頭宋珪赴上前、暁以名分大義、及侍従官巴良弼・阿勒根文卿皆従死。斜烈将死、遺言絳山、使焚幽蘭軒。火方熾、子城破、大兵突入、近侍左右皆走避、独絳山留不去、為兵所執、問曰『汝為誰』。絳山曰『吾奉御絳山也』。兵曰『衆皆散走、而独後何也』。曰『吾君終於是、吾候火滅灰寒、収瘞其骨耳』。兵笑曰『若狂者耶。汝命且不能保、能瘞而君耶』。絳山曰『人各事其君。吾君有天下十餘年、功業弗終、身死社稷、忍使暴露遺骸与士卒等耶。吾逆知君輩必不遺吾、吾是以留。果瘞吾君之後、雖寸斬吾不恨矣』。兵以告其帥、奔盞曰『此奇男子也』、許之。絳山乃掇其餘燼、裹以敝衾、瘞于汝水之旁。再拝号哭、将赴汝水死。軍士救之得免、後不知所終」
  50. ^ a b c d Rawshan 1373,p.647/Thackston 2012,p.225/余大鈞・周建奇1985,p.41
  51. ^ 『宋史』巻41理宗本紀1,「[端平元年四月]丙戌、以滅金獲其主完顔守緒遺骨告太廟、其玉宝・法物並俘囚張天綱・完顔好海等命有司審実以聞」

参考文献

  • 海老沢哲雄「モンゴルの対金朝外交」『駒澤史学』52号、1998年
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』講談社現代新書、講談社、2014年(初版1996年)
  • 高橋文治『元好問とその時代』大阪大学出版会、2021年
  • 何俊哲/張達昌/于国石著『金朝史』中国社会科学出版社、1992年
  • 史衛民『元代軍事史(中国軍事通史14)』軍事科学出版社、1998年
  • 李天鳴『宋元戦史 第1冊』食貨出版社、1988年
  • ドーソン著、佐口透訳『モンゴル帝国史平凡社 / 東洋文庫
  • ラシードゥッディーン『集史』(Jāmiʿ al-Tavārīkh
    • (校訂本) Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsavī, Jāmiʿ al-Tavārīkh, (Tihrān, 1373 [1994 or 1995])
    • (英訳) Thackston, W. M, Classical writings of the medieval Islamic world v.3, (London, 2012)
    • (中訳) 余大鈞・周建奇訳『史集 第1巻第2分冊』商務印書館、1985年