モンゴル軍のチベットへの侵入経路
モンゴルのチベット侵攻 (モンゴルのチベットしんこう)は、1240年 から1244年 まで複数回起こったモンゴル によるチベット への侵攻 である。チベット・モンゴルにおける伝承では即位直後のチンギス・カン がチベット侵略を企てたとされるが、これは史実とは考えられていない。史上始めてモンゴル軍がチベットに本格的に進出したのは、1240年にコデン 配下の将軍ドロアダイ が行ったチベットへの侵攻である。
また、1240年代後半にはモンゴルの皇族コデンがチベット仏教 サキャ派 のサキャ・パンディタ を招き、パンディタは他のチベットの有力者にモンゴルの権威に服従するよう促した。これがモンゴルのチベット支配の始まりであり、この時モンゴル人 とチベット人 の間に「施主・帰依処関係」が確立したと一般に考えられている。サキャ派を通じたモンゴルによるチベット支配は、大元ウルス が崩壊し始める14世紀半ばまで続いた。
チベットとモンゴルの邂逅
後世、モンゴルとチベットは密接な関係を有したことから、両国の最初の接触については様々な伝承が語られている。有名なところでは、17世紀 にサガン・セチェン が編纂した『蒙古源流 』は両国の最初の接触について以下のように記している。
それから四十五歳の丙寅の年(1206年)に、チベットのクンガ・ドルジェ王に対して出馬したとき、チベット王はイルフという名の殿様をはじめとする三百人で、多くの駱駝を貢ぎ物として奉り、「降りましょう」と使者を遣わした。…中略…そのようにガリの三部族から下、
三省八十八万の黒いチベット国人を降伏させた 。
— 『蒙古源流』[ 1]
『蒙古源流』以後に編纂されたモンゴル年代記もおおむね同様の記述をしており、「チンギス・カンの時代にモンゴル・チベット両国は初めて接触した」という伝承は広く共有されていたようである[ 2] 。
しかし、この伝承は明らかに「チンギス・カンによるタンゲート遠征 」を改変したものであり、史実とは認められない[ 3] 。ここで言う「チンギス・カンのチベットへの出馬」は1205年-1207年の第一次・第二次西夏出兵、「チベット王クンガ・ドルジェ」は西夏国主襄宗 、「イルフ」は西夏に亡命したケレイトの王子イルカ・セングン をそれぞれ指すと考えられる[ 3] 。
ただし、近年の研究ではタングート=西夏国もまたチベット仏教の影響を受けていたことが明らかにされており、モンゴル帝国も西夏国を通じてチベット人・チベット仏教に接触していたのではないかと指摘されている[ 4] [ 注釈 1] 。特に、モンゴル帝国によるチベット支配を象徴する「帝師 」制度は、西夏国に由来するものであるとする説が2010年代 より提唱されているが、西夏国とチベット仏教の関係についてはなお不明な点が多い[ 5] [ 6] 。しかしいずれにせよ、チンギス・カンの時代にモンゴル軍がチベット高原に進出したことはなく、初めてモンゴル軍がチベットに侵攻するのは第2代皇帝オゴデイの治世のこととなる。
コデンによる侵攻(1240-1241年)
サキャ・パンディタ
1229年 に即位した第2代皇帝オゴデイは即位後最初の大事業として金朝親征 を敢行し、1234年 に金朝が滅亡するとオルホン川 渓谷で再びクリルタイを招集した。このクリルタイにおいてオゴデイはバトゥ を総司令とする西方(ヨーロッパ)遠征とクチュ を総司令とする南方(南宋)遠征の実施を決め、この時南方遠征軍の「右翼軍(-西部方面軍)」の指揮官として抜擢されたのがコデンであった。コデンは1235年 よりまず汪世顕 ら陝西地方の金朝残党を平定し、1236年 からは配下におさめた汪世顕とともに南宋領四川地方に侵攻した。この頃、コデンはチベット系有力者の趙阿哥潘 を帰順させた上、「吐蕃の酋長を招論」したとの記録があり、既にチベットへの進出を射程に入れていたようである[ 注釈 2] [ 7] 。
1238年 頃、四川への侵攻から帰還したコデンは本拠地の西涼に戻り、遂に1239年 よりチベット侵攻軍を派遣した[ 8] [ 9] 。チベット語史料の伝える所によると、コデンの派遣した「ドルタ・ナクポ (Dor ta nag po)」なる武将[ 注釈 3] がラサの東北のラデン(Ra-skreng)寺で僧侶500人を殺し、ギェルラカン(rGyal Lha-khang)寺を劫掠したという[ 10] [ 注釈 4] 。しかし、恐らくは1241年 にオゴデイが急死したため、バトゥのヨーロッパ遠征軍と同様にチベット侵攻軍も道半ばにして撤退した[ 注釈 5] 。 この時のチベット侵攻については同時代のモンゴル側の史料に記録がなく、侵攻の目的・戦果等については不明な点が多い。
モンゴル軍の侵攻に驚いたチベットの首長たちは協議して請和使を派遣することを決め、まずヤルルン(Yar klungs)家のデシ・ジョガ(sDe srid jo dga)とツェルパ(Tshal pa)のクンガ・ドルジェ(Kun dga rdo rje)が派遣されたとされるが、彼らの交渉がどうなったかについては記録がない[ 10] 。一方、モンゴルのチベット支配史上特筆されるのが、サキャ派の座主サキャ・パンディタ (Sa skya paṇḍita)の招請である。1244年、当時63歳であったサキャ・パンディタはロドゥ・ギェンツェン (bLo gros rgyal mtshan、後の「帝師」パクパ )とチャクナ・ドルジェ (Phyag na rdo rje)という2人の甥を伴ってチベットを発ち、1247年 にグユク の即位式から戻ったコデンと涼州で会談し、『呼金剛』の灌頂 と講義を行ったという。
サキャ・パンディタがコデンの下を訪れたのは、モンゴル帝国が征服国に課す義務の中で「被征服国の支配者が自らモンゴル宮廷に出仕する」義務を果たすため、また2人の甥を同行したのは「王子をケシク(宿衛)に差し出す」義務を果たすためであったと考えられている[ 11] 。15世紀に成立した『漢蔵史集』はコデンとサキャの関係が「サキャ派とモンゴルが互いに関係するはじまりである」と述べており、後世のチベットでコデンとサキャの面会がモンゴル-チベット関係の重要な画期とみなされていたことが窺える[ 12] 。
一方、2010年代 に入って紹介された西夏文字 文書の一つに「皇帝太子ko tja」の福徳を祈願するため「癸卯 年冬に記された」との記述があり、文書の内容から「ko tja」はコデンを、「癸卯年」は1243年 を指すと考えられる[ 13] 。この文書は都市や国家鎮護を祈願する際に用いられた白傘蓋教を西夏語に訳したものであるが、表題にチベット語が付されているほか、チベット語文からの影響が強く見られるため、チベット語教典から翻訳されたものと見られている[ 14] 。この文書の存在により、モンゴルはサキャ・パンディタの紹介を経て始めてチベット仏教と接したのではなく、既に西夏国遺民を通じてチベット仏教信仰を受容していたことが明らかとなっている[ 15] 。
モンゴル諸王のチベット分割
チベット語史料の『ラン・ポティセル 』は、モンケ時代のチベット政策について以下のように記述している[ 16] [ 17] 。
その当時、チベット方面は涼州の王子コデンが管轄していて、コデン・アカは帰依処となる僧侶を[チベットから]取っていたが、[モンケが即位すると]ディクン派はモンケ・カアンが掌握し、ツェル派はセチェン[クビライ]・カアンが掌握し、パクモドゥ派は王子フレグが掌握し、タクルン派はアリクブケが掌握することとなった。四つの王室が、それぞれのティコル(khri skor=万人隊/万戸)において、特別に所有することとなったのである。
— 『ラン・ポティセル』[ 18]
そもそも、モンゴル帝国には征服した人民・土地をトゥメン(万人隊) に再編した上で諸王・ 功臣に分配するという慣習があり、華北地方ではこのようなモンゴル諸王に分配された権益を「投下」と呼称していた。このようなモンゴル諸王とチベット諸派との関係はチベット文献で「施主・帰依処関係を結んだ」とも表現されるが、これはまさにモンケ・カアンの治世にチベットの権益がモンゴル諸王に「投下」として分割されたことを指すと考えられる[ 19] 。ただし、モンゴル高原から遠く離れたチベットから租税を納めるのは非効率的であり、ここでは占有権を認められた教団から独占的に僧侶を招聘する権利で以て徴税権に代えたものと推測される[ 19] 。
また、モンケは弟のクビライを東アジア方面軍の司令官に起用し、一族の所領である京兆府一帯をクビライに分け与えた。この頃、サキャは既に亡くなっていたがその甥のパクパは涼州に滞在しており、クビライの出鎮を聞くとコデンの息子のモンゲドゥを仲介として京兆府付近の六盤山で面談した[ 20] 。このクビライとパクパの面談はチベット-モンゴル関係史上の画期として後世の諸史料で特筆されており、特に後代のモンゴル年代記では「パクパの名声を知ったクビライがパクパを招聘した」という筋書きで言及されることが多い。ただし、現実的にはクビライの側にとってそれまで四川・チベット方面の経略を担当していたコデン家との利害調整こそが本来重要であり、クビライとパクパの面談もその布石の一つに過ぎなかったものと指摘されている[ 21] 。
この後、クビライは雲南遠征のために東部チベットを南下している間にカルマ派のカルマ・パクシとも面会しているが、カルマ・パクシはモンケの招聘を受けて首都のカラコルムに赴き、結局はモンケと「施主・帰依処関係」を結んだ(カルマ派はモンケ家の投下となった)[ 22] 。カルマ・パクシはいわゆる「道仏論争」に出席して名を残したが、クビライでなくモンケに仕える道を選んだことは後のサキャ派とカルマ派の勢を決定的に分かつことになった[ 23] 。
1259年のモンゴル帝国(赤は臣従国)
1259年にモンケが急死すると弟のクビライとアリクブケの間で内戦が勃発したが、首都のカラコルムを抑えるアリクブケの方が正当性では上であり、クビライは各所において味方を増やす必要に迫られていた[ 24] 。この情勢の中で抜擢されたのがパクパで、パクパは「チベットをクビライの側につけること」と「宗教界を統率しクビライの王権を正当化すること」を目的に、内戦勃発直後の1260年 に「国師」に任じられた[ 注釈 6] 。パクパはクビライの期待に応えて自傘蓋仏事の開催、大護国仁王寺の起工、パクパ文字の制定等「皇位の正当性や王権を目に見える形で表象・具象する施策」を次々に実行に移して自らの地位を確立し、このように内戦下にあってパクパに課せられた任務が後にチベットを管轄する宣政院 に引き継がれたと指摘されている[ 25] 。
チベットの内乱への介入
パクパの尽力により、表面上は大過なくチベットはクビライ政権の支配下に入ったと見られたが、内部においてはチベット史上最初の外部からの支配勢力であるモンゴルに対する不満が渦巻いていた。最初に兵乱を起こしたのはサキャ派のポンチェン であるクンガ・サンポで、1274年 に帝師の地位を辞したパクパが帰国する際に「クンガ・サンポが (パクパに対する)制約を破った」との報告がなされたことから、クンガ・サンポに対する討伐軍が派遣されることになった[ 26] 。「クンガ・サンポの乱」はパクパとクンガ・サンポの個人的対立のみならず、サキャ派全体を巻き込んだ内乱であったようで、サキャ派の東派(シャルパ)・西派(ヌプパ)・中間派(クンパ)・新房派(カンサルパ)の4系統の内、東派(シャルパ)と新房派(カンサルパ)がパクパに味方し、西派(ヌプパ)がサンガに味方したようである[ 27] 。
『漢蔵史集』には、クンガ・サンポの討伐に当たってサンガが「主力のモンゴル軍7万戸の他に、ドトー[=東チベット]、ドメー[=現在の青海省][からの軍隊]とを合わせれば10万を越えることになり、それで[十分]制圧できます」と進言したとあり、『元史』の記述とあわせて純モンゴル兵を率いる安西王マンガラ ・諸王ジビク・テムル と、チベットでの現地徴発兵を率いる西平王アウルクチ・駙馬ジャンギらによってヘルナムチャロクツァン(ギャンツェ 付近の城塞)に拠るクンガ・サンポは討伐されたようである[ 27] 。
クンガ・サンポの乱から約10年後、今度はサキャ派にも拮抗する大勢力のディクン派が1285年 兵を挙げた[ 28] 。ディクン派はモンケ家と「施主・帰依処関係」 を結んだ勢力であり、内戦後にクビライ政権-サキャ派のヘゲモニーが確立したのに不満を抱き蜂起したものとみられる[ 29] 。『新マルポ史』によると、「ディクン派の乱」はディクン派の座主トクカパ=リンチェンセンゲの7年目(1285年)にディクン派がチャユル派を攻めたことに始まり、この攻撃によってチャユル派は座主のツァントンが殺されて壊滅的な打撃を受けたとされる[ 28] 。
叛乱の火蓋を切ったディクン派のリンチェンセンゲは間もなく亡くなり、座主の地位はツァンキャパ=タクパソナム、ついでドルジェイェシーに引き継がれたが、次第にディクン派とサキャ派の抗争は膠着状態に陥った[ 30] 。ディクン派の座主がドルジェイェシーに成った頃、サキャ派のポンチェン であったアクレンは「ツァンの軍(サキャ派の直属軍)」と「全万戸軍(ディクン派を除く各万戸から徴発された軍)」を率い、更に大元ウルスから派遣された鎮西武靖王テムル・ブカ の援軍を得て[ 注釈 7] ディクン派に侵攻した。この侵攻によってディクン派の寺院は焼かれて1万人近くが殺されたという[ 30] 。また、サキャ派はこの機会を捉えてサキャ派が十分に浸透していないウー地方の諸寺院にも軍団を派遣し、チャル(Byar)・ロータク(Lbo brag)・モン(Mon)などが鎮圧されたとされる[ 30] 。また、パクモドゥ派はサキャ派への協力を拒んだために攻撃を受ける所であったが、座主のチャンションが弁明したためにサキャ派からの攻撃を免れている[ 31] 。
「クンガ・サンポの乱」および「ディクン派の乱」で特筆されるのは、クビライ政権=サキャ派と対立する勢力が「上手のホル」と呼ばれる中央アジアの遊牧勢力と連携を結んだこと、また戦後処理の中で初めてサキャ派の支配が西部ガリ地方まで及んだことである。「ディクン派の乱」が起こった時点ではクビライ政権-サキャ派の支配は西部ガリ地方まで及んでおらず、恐らくディクン派はクビライ政権の手の及ばないガリ地方を通じて中央アジア方面との連携を図ったものとみられる。しかし、「ディクン派の乱」鎮圧戦を通じて西部ガリ地方にもクビライ政権の力が及ぶようになり、それまで中部ウーツァン地方のみを管轄していた「烏思蔵(ウー・ツァン)宣慰司」は正式に「烏思蔵納里速古児孫(ウー・ツァン・ガリコルスム)等三路宣慰使司都元帥府」と改名された[ 32] 。チベット語史料の側にもこれを裏付ける記録があり、『漢蔵史集』のジャムチ にかかる記述には、1280年代頃にジャムチのルートがガリ地方まで延長されたことが示唆されている[ 注釈 8] これはまさしく、「ディクン派の乱」を経てクビライ政権の支配が西部ガリ地方まで及んだ結果、「上手のホル」対策のためジャムチのルートもガリ地方まで延長されたことを示すものと考えられる[ 33] 。
こうして、「クンガ・サンポの乱」「ディクン派の乱」といったチベットの内乱に介入することにより、クビライ政権はモンゴルによる支配をチベット奥地にまで浸透させ、サキャ派によるチベット支配(サキャ政権)を名実共に確立することに成功した[ 34] 。クビライ時代に確立された「サキャ政権」はパクモドゥ派のチャンチュプ・ギェンツェン が登場するまで約1世紀にわたってチベットを支配することとなり、チベット史に多大な影響を残すこととなった[ 35] 。
脚注
注釈
^ モンゴルが早くからチベット文化を受け容れていた傍証の一つとして、クビライの長男のドルジの存在が挙げられる。「ドルジ」という名前は「金剛」を意味するチベット語rdorjeに由来するものであり、早世したドルジの生年は記録がないが、次弟の皇太子チンキム が1243年 生まれであることから、少なくとも1243年以前にはチベット語がモンゴル人の間に受容されていた証となる(山本2021,55頁)。
^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「丙申、大軍伐蜀、皇子出大散関、分兵令宗王穆直等出陰平郡、期会於成都。……因招来吐蕃酋長勘陁孟迦等十族 、皆賜以銀符」
^ チベット語史料の『フゥラン・テプテル』にはコデンが始めてチベット地方に派遣した軍団の指揮官はrDorta nagであったと記されているが、音価の類似やコデン配下の将軍であるという点から、『集史』にコデンに与えられたと記されるドロアダイの事を指すのではないかと考えられている(杉山2004,477頁)
^ なお、ラデン寺はカダム派の古刹であるが、この事件の影響のためかカダム派はモンゴル支配時代を通じてモンゴル朝廷と積極的に関係を持とうとしていない(山本2021.56頁)。
^ この時ドルタの軍団がチベットから撤退したのは、バトゥのヨーロッパ遠征軍と同様にオゴデイ死去の報がもたらされたためとする説がある(張1998,9頁)
^ なお、1258年(戊午)に開催されたいわゆる第三次「道仏論争」においてパクパはクビライの命により仏教側の主要な論者を務めており、クビライは即位以前からパクパを頂点として仏教界の再編を模索していたのではないかと推測されている(中村1994,53-54頁)。当時、華北地方では全真教 教団がモンゴルの後ろ盾を得て横暴な振る舞いをしており、同じ轍を踏まないためにあえて華北で全く地盤を持たないパクパが仏教教団の代表に抜擢されたのではないかとも考えられている(中村1994,55頁)
^ チベット語史料上では「セチェン(クビライ)の息子(実際には孫)のテムル」と記されている(乙坂1986,76頁)。
^ 『漢蔵史集』にはジャムチにかかわる記述が2カ所あり、1つ目はパクパのチベット帰還(1265年)にかかる箇所、2つ目はサンガによる戸口調査にかかる箇所(1287年)でそれぞれ言及される。前者に挙げられる駅名と後者に挙げられる駅名を比較すると、後者には前者に見えないガリ地方の駅名が複数挙げられており、まさに 1285年に勃発した「ディクン派の乱」に並行してガリ地方での戸口調査と、それに伴うジャムチ延長が計画・実施されたものと考えられる(山本2009,3-7頁)
出典
^ 訳文は岡田2010,134頁より引用
^ 岡田2010,138-139頁
^ a b 岡田2010,134-135頁
^ 中村2023,245-246頁
^ 中村2008,228頁
^ 中村2023,246頁
^ 周2001,346頁
^ 山本2021.56頁
^ 張1998,9頁
^ a b 岡田2020,128頁
^ 石濱2023,頁
^ 山本2021,58頁
^ 浜中2018,2-3頁
^ 浜中2018,4-5頁
^ 浜中2018,6頁
^ 山本2021,56-57頁
^ 張1998,13頁
^ 書き下し文は中村1997,124頁より引用
^ a b 山本2021,57頁
^ 山本2021.59頁
^ 杉山2004,479-480頁
^ 山本2021,58-59頁
^ 山本2021,60-61頁
^ 張1998,22頁
^ 藤島1967,67-68頁
^ 山本2021,62頁
^ a b 中村1997,127頁
^ a b 乙坂1986,63頁
^ 山本2021,63頁
^ a b c 乙坂1986,64頁
^ 乙坂1986,81頁
^ 乙坂1986,61頁
^ 山本2009,9頁
^ 乙坂1986,65頁
^ 乙坂1986,78-79頁
参考文献
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中村淳「チベット仏教とモンゴル」『モンゴル帝国と海域世界:12-14世紀』岩波書店〈岩波講座世界歴史 10〉、2023年
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