福田 香史(ふくだ こうし、1932年(昭和7年)12月14日 - 1980年(昭和55年)3月18日)は、三重交通株式会社の社員で三重交通四日市営業所所属の職員。革新政党の日本社会党所属の四日市市議会議員と三重交通社員を兼務していた。三重県の地方議員で四日市市議会議員を3期務める。埼玉県川越市出身。住所は四日市市大字塩浜。四日市市磯津地区在住。
経歴
四日市公害問題に取り組む
四日市公害裁判公害裁判中に病死した原告主婦の長女が、経済的困窮により高校を中退して家事手伝をしていることを知った福田は、四日市市の社会党を中心に学費援助の支援活動を行い、寄付が集まった結果復学が可能となった。学資は三菱油化が、家政婦の給与は三菱化成が援助した[3]。
1972年(昭和47年)10月18日に子供を患者に持つ磯津の母親3人とともに三重県庁に出向いた。「昭和石油の増設プラントの操業を開始しても、公害発生の恐れはないと言うが、三重県知事としてその事に責任をもてるかどうか」と田中覚三重県知事に詰め寄った。福田は(1)三重県側(2)四日市コンビナートの石油化学企業側(3)塩浜地区の住民側の3つの団体で三者協定を結んでほしいと申し入れた。
飲酒運転による交通事故死
1980年(昭和55年)3月18日に交通事故のため47歳で急死した。伊勢新聞の報道によると、当日の市議会の後、他の市議との宴会で大量に飲酒したとされていて、そのまま飲酒運転を行い磯津地区内にある小さい川に転落、車内から水死体で発見された[4]。葬儀・通夜では、前川辰男四日市市議会議員など社会党の関係者や磯津地区民が多数参列した。四日市市内の運輸業の労組を支持母体としていた福田香史の日本社会党の後継候補は塩浜地区以外の水沢地区出身者がなった[5]。
信条
- 流した汗が報われる政治をモットーとして勤労を重視する社会を目指していた。
人物像
- 温厚・誠実・廉直で感受性の強い青年政治家と評価される。
脚注
- ^ 沢井余志郎『ガリ切りの記 生活記録運動と四日市公害』影書房、2012年5月、158頁 10行目-14行目。ISBN 978-4-87714-424-1。
- ^ 伊勢新聞の1980年(昭和55年)3月20日の四日市市議会議員が水死の記事
- ^ 「三重県紳士録」274ページ下段左側(経歴・生年・趣味・家庭・性格)の項目
参考文献