パリで興行を行うことができたのは1644年1月のことであった。デビュー公演ではトリスタン・レルミットの『セネクの死(La Mort de Sénéque)』を上演したようである[6]。座長のマドレーヌは劇団結成前から有名で人気のあった女優であり、なおかつ当時マレー劇場が火事のため閉鎖されていた事情もあって、初めのうちはそれなりに客を集めるのに成功した。座長、副座長ともに悲劇を好んでいたため、専ら悲劇を上演にかけていたが、当時一流のブルゴーニュ劇場やマレー劇場に対抗できるわけもなく、次第に興行成績が悪化していった。モリエールは金策のために東奔西走し、あちこちで借金を重ねたが、退団者が出てしまった。12月19日には、経費削減のためにさらに借賃の安いジュ・ド・ポームに移るが、状況は好転しなかった。1645年、深刻な財政難に陥った劇団はいよいよ追い詰められ、債権者の取り立てに応じることができなくなり、破産した。同年8月2日には、142リーヴルの返済不可能な借金のために、モリエールが劇団の代表者として投獄されてしまった[7][8]。
モリエールは幸いにも数日で出獄することができたが、団員として残ったのはベジャール兄妹とクレランだけだった。借金のためにパリにいられなくなったので、新たに2人の新座員を加えて、一行はボルドーへ赴いた。13年に及ぶ南フランス巡業の始まりである。ボルドーでギュイエンヌ総督エペルノン公爵(Duc d'Épernon, Jean-Louis de Nogaret de La Valette)の庇護を受けることに成功し、盛名座は公爵が所有していた劇団と合併した。1645年の年末、もしくは46年の年頭のことである。こうして盛名座は解散、幕を下ろしたのであった[9][10][5]。