病気喧伝

「病気喧伝論文集」, PLoS Medicine, 2006年。

病気喧伝(びょうきけんでん、英語: Disease mongering)とは、製薬会社や精神科医、また他の専門家あるいは消費者団体などが、市場を拡大するために、販売したり治療法を伝える目的で、病気の診断に用いる境界を拡大したり、そのような啓発を市民に宣伝することに対する、蔑称である[1]。例として、ニコチン依存症男性型脱毛症(AGA)や社交不安障害(SAD)が挙げられる[1]。典型的には「医師に相談を」で締めくくられる広告である[2][3]

用語の使用

1993年には、『イギリス医師会雑誌』(BMJ)において、Lynn Payerによる著書、『病気商人: いかにして、医師、製薬会社、また保険会社は、あなたに具合が悪いと感じさせるか』(Disease-Mongers: How Doctors, Drug Companies, and Insurers are Making You Feel Sick)の書評が掲載され、その中で病気喧伝の用語が用いられている[4]

2002年にBMJに掲載された「病気を売り込む:製薬産業と病気喧伝」や[1]、2006年に『PLoS ONE』に掲載された「病気喧伝に立ち向かう」は[5]引用数の多い論文である。

病気喧伝の実例

この用語は議論の中で、特に精神医学的な診断に関して頻繁に、反精神医学運動論者[6]サイエントロジーに基づく批判者[7]、および精神医学あるいは生物学的精神医学の批判者に用いられてきた。例として、うつ病自閉症[8]注意欠陥多動性障害(ADHD)や双極性障害がある[9]

The New England Journal of Medicine』の前編集長であり、ハーバード大学医学大学院で上級講師を務める内科医のマーシャ・エンジェル英語版は「昔々、製薬会社は病気を治療する薬を売り込んでいました。今日では、しばしば正反対です。彼らは薬に合わせた病気を売り込みます[注 1]」と述べている。一例として、月経前不快気分障害は、「プロザック」の名称を「サラフェム」と変更しただけの薬を月経前症候群用に販売し、生まれた診断名である[11]。製薬会社は、日常の問題は脳内の化学的不均衡によって起きる精神の問題であり、これは錠剤によって解決されるという誤解を招くような考えを促して、有害な副作用のある不要な医薬品の使用を劇的に増加させることにつながる[8]

軽症のうつ病を説明する「心の風邪」というキャッチコピーやキャンペーンは、2000年ごろから、特に抗うつ薬パキシルを販売するためのグラクソ・スミスクラインによる強力なマーケティングで使用された[12]。後に、軽症のうつ病に対する抗うつ薬の効果に疑問が呈され、安易な薬物療法は避けるよう推奨された[13]。しかしながら、日本でのこのキャンペーンにより、抗うつ薬の売り上げは2000年からの8年で10倍となり、日本の市場開拓に協力したアメリカ人医師は「節操などなく、下衆な娼婦だった」と明かしている[14]精神科の薬における向精神薬の販売は、製薬企業の大きな収入源であるため、特別な問題の原因となっている[15]

1980年代過労死が広く取り上げられるようになり、1991年に電通の社員が過労自殺し、1996年に家族が訴訟するとマスコミが取り上げ、またNHKスペシャル「脳内薬品が心を操る」が放映され、これまでの内因性うつ病(外部に原因がない)ではなく、環境に起因するうつ病という認識が広く認識されるようになった[16]。それまでは少数の精神科医が、重篤な状態だけを治療しており、不幸な出来事が精神的健康の問題につながるものだとは、ほとんど人がみなしていなかったのである[16]

医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律が、一般向けの広告を禁止しているため、塩野義製薬は、有名女優を起用して臨床試験の被験者を募集する全面広告を何度も掲載した[16]。グラクソ・スミスクラインは、各国のリゾート地で国際会議を開催し、2000年には京都市の高級料亭医師接待し、治療のための抗うつ薬を奨励した[16]

グラクソ・スミスクラインは、不治の生まれつきの病を連想する「うつ病」という言葉を問題ととらえ、「心の風邪」というキャッチコピーを繰り返して、女優を起用したCMも放映し、マスメディアに自殺率についてのパンフレットを送り、製薬企業は公共広告の名でうつ病の人に専門家を薦め、うつ病や抗うつ薬の翻訳本に出資し、うつ病の増加を新聞や雑誌で取り上げた[16]

UTU-NETは、ウェブサイトの訪問者には分からないが、グラクソ・スミスクラインが出資するウェブサイトである[16]。しかし、社会的要求が高くなり苦しむのであれば薬は必要なく、内因性うつ病によって脳内物質セロトニンのバランスが崩れているのでもないし、今ではうつ病の原因に脳内セロトニンの枯渇があるという仮説には、科学的な裏付けが不十分であることが判明している[16]

そして、グラクソ・スミスクラインが中心となった臨床試験の問題も発覚した[16]。田島治も会議に招かれていた人物で、日本での働きかけの中心人物となったが、うつ病とされる人々の増加と改善しない患者の多さにも危機感を抱き、やがてデイヴィッド・ヒーリー日本語翻訳を監修するようになった[16]。該当する翻訳書には『抗うつ薬の功罪―SSRI論争と訴訟』『ファルマゲドン―背信の医薬』がある。

薬の名前のないコマーシャルがbipolarawareness.comを表示し、そのURLは製薬会社のイーライリリーによる「双極性支援センター」につながり、質問票を行うと医師に相談をするよう表示されるような病気喧伝の手法も存在する[17]メンタルヘルスの健康情報サイトの42%もが、製薬会社が直接運営あるいは出資するウェブサイトであり、製薬企業から経済的に独立したウェブサイトと比較して、生物発生的な説明と医薬品を過度に強調している[18]。2009年には、アメリカ食品医薬品局(FDA)は、14の製薬会社に誤解を招くため警告しており、インターネットの情報にはリスクに関する情報が十分でなかった[15]

日本でも2010年に『読売新聞』にて、「医師に相談を」という広告が急増していることを取り上げ、これが病気啓発の広告であること、電通によれば、2009年には2008年の1.6倍、103億円の市場規模となっており、また製薬会社にとって、潜在的な患者を発掘しているとのことだと掲載された[3]。2013年10月から、塩野義製薬とイーライリリーは、コマーシャルにおける「うつの痛み」キャンペーンを展開したが、痛みの症状はうつ病の診断基準になく、過剰な啓発であると批判が挙がった[19]。2013年のアメリカ合衆国でのテレビCMの調査では、33%が客観的に真実であり、57%は誤解を招く可能性があり、10%が虚偽の記載であった[20]

2011年には、日本精神神経学会の第107回総会において[21]、「今日の新たな病気と精神医学―disease mongeringを超えて」と題する講演を行ったし[22]、『精神神経学雑誌』にて、選択的セロトニン再取り込み阻害薬の登場と共に、うつ病の患者数が増加し、注意欠陥多動性障害、双極性障害と精神科医が、まんまとそそのかされた現状について言及している[23]

精神障害の診断と統計マニュアル』第4版(DSM-IV)の編集委員長であるアレン・フランセスによれば、製薬業界のビジネスモデルは、軽い症状の人々にも病気だと思い込ませることで市場を拡大してきており、とりわけ生物学的な検査が存在しない精神医学は、この病気の境界の操作に弱く、60年も既存の化合物をわずかに修正し特許を取り直した、効果の変わらない薬の販売を拡大してきた[2]

宣伝は「医師に相談を」で締めくくられ、医師には既に新薬の売り込みが済んでいる[2]。このようなマーケティングは、すでに過剰摂取による救急搬送を急増させており、流行の診断名と過剰診断に注意するよう促している[24]。過剰に処方された処方箋医薬品の過剰摂取による死亡が、交通事故による死亡を上回ったことが問題となっている[25]

2013年、元関西学院大学教授で精神科医野田正彰は『新潮45』に寄稿し、DSM-IV日本語版で「Mental Disorder(精神障害)」が「精神疾患」に訳し変えられた件について、「精神障害[注 2]」を疾患と思い込ませることで、病気の乱用が図られてきたと評している。DSMを作成したアメリカ精神医学会も疾患(disease)や病気(illness)ではないと十分認識していたと指摘している。「精神疾患」の啓発と共に薬物療法を勧める学会や精神科医を実名で挙げ、製薬会社との金銭的なつながりも具体的に説明している[26]。また、他書でも同様の説明をしている[27]

関連項目

脚注

  1. ^ 原文: “Once upon a time, drug companies promoted drugs to treat diseases. Now it is often the opposite. They promote diseases to fit their drugs.” [10]
  2. ^ 野田は「ちょっとおかしい」程度の言葉と述べている。過去にDSMから除外された同性愛のように、将来除外される可能性がある診断名も含まれると説明している[26]

出典

  1. ^ a b c Moynihan R, Heath I, Henry D (2002). “Selling sickness: the pharmaceutical industry and disease mongering”. BMJ 324 (7342): 886–91. doi:10.1136/bmj.324.7342.886. PMC 1122833. PMID 11950740. http://www.bmj.com/cgi/content/full/324/7342/886. 
  2. ^ a b c アレン・フランセス 著、大野裕(監修) 編『〈正常〉を救え―精神医学を混乱させるDSM-5への警告』青木創(翻訳)、講談社、2013年10月、69-70,155,158-160頁。ISBN 978-4062185516 、Saving Normal, 2013
  3. ^ a b “「医師に相談を」広告が急増”. 読売新聞: pp. 4面. (2010年9月4日) 
  4. ^ Roy Porter (1993-05-01). “Spring Books:Disease-Mongers: How Doctors, Drug Companies, and Insurers are Making You Feel Sick” (pdf). BMJ 306 (6886): 1212. http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1677683/pdf/bmj00018-0076b.pdf. 
  5. ^ Moynihan, Ray; Henry, David (April 2006). “The Fight against Disease Mongering: Generating Knowledge for Action”. PLoS Medicine 3 (4): e191. doi:10.1371/journal.pmed.0030191. PMC 1434508. PMID 16597180. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1434508/. 
  6. ^ Fred Baughman (2000年9月25日). “The Rise and Fall of ADD/ADHD”. ICSPP. 2007年6月3日閲覧。
  7. ^ Stephen Barlas and Psychiatric Times staff (2006年4月16日). “Psychiatric Profession Current Target of Citizens Commission on Human Rights”. CCHR. 2007年6月3日閲覧。
  8. ^ a b Allen Frances (6 August 2013). “The new crisis of confidence in psychiatric diagnosis”. Annals of Internal Medicine 159 (2): 221–222. doi:10.7326/0003-4819-159-3-201308060-00655. PMID 23685989. http://annals.org/article.aspx?articleid=1722526. 
  9. ^ Healy D (2006). “The latest mania: selling bipolar disorder”. PLoS Med. 3 (4): e185. doi:10.1371/journal.pmed.0030185. PMC 1434505. PMID 16597178. http://medicine.plosjournals.org/perlserv/?request=get-document&doi=10.1371%2Fjournal.pmed.0030185. 
  10. ^ Marcia Angell 2004, p. 86 (翻訳書は マーシャ・エンジェル 2005, p. 111)
  11. ^ Marcia Angell 2004, pp. 83, 86, 188–189 (翻訳書は マーシャ・エンジェル 2005, pp. 108, 111–112, 235–236)
  12. ^ Kathryn Schulz (August 22, 2004). “Did Antidepressants Depress Japan?”. The New York Times. http://www.nytimes.com/2004/08/22/magazine/did-antidepressants-depress-japan.html?pagewanted=4 2013年1月10日閲覧。 
  13. ^ 日本うつ病学会; 気分障害のガイドライン作成委員会 (26 July 2012). 日本うつ病学会治療ガイドライン II.大うつ病性障害2012 Ver.1 (pdf) (Report) (2012 Ver.1 ed.). 日本うつ病学会、気分障害のガイドライン作成委員会. pp. 20–23. 2013年1月1日閲覧
  14. ^ アンドルー・ワイル『ワイル博士のうつが消えるこころのレッスン』上野圭一(翻訳)、角川書店、2012年9月、53-54頁。ISBN 978-4041101582 、Spontaneous Happiness, 2011
  15. ^ a b De Freitas J, Falls BA, Haque OS, Bursztajn HJ (2014). “Recognizing misleading pharmaceutical marketing online”. The Journal of the American Academy of Psychiatry and the Law (2): 219–25. PMID 24986349. http://www.jaapl.org/content/42/2/219.long. 
  16. ^ a b c d e f g h i イーサン・ウォッターズ、阿部宏美(翻訳)『クレイジー・ライク・アメリカ:心の病はいかに輸出されたか』紀伊國屋書店、2013年、254-280,293-294頁。ISBN 978-4314011037 
  17. ^ デイヴィッド・ヒーリー 著、江口重幸監訳、坂本響子 訳『双極性障害の時代―マニーからバイポーラーへ』みすず書房、2012年11月、222-223頁。ISBN 978-4-622-07720-6 、MANIA: A Short History of Bipolar Disorder, 2008
  18. ^ Read, J.; Cain, A. (December 2013). “A literature review and meta-analysis of drug company-funded mental health websites”. Acta Psychiatrica Scandinavica 128 (6): 422–433. doi:10.1111/acps.12146. PMID 23662697. 
  19. ^ “「うつの痛み」テレビCM、抗議受け一部変更”. 読売新聞. (2014-02-01日). http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=92165 2014年6月4日閲覧。 
  20. ^ Faerber, Adrienne E.; Kreling, David H. (2013). “Content Analysis of False and Misleading Claims in Television Advertising for Prescription and Nonprescription Drugs”. Journal of General Internal Medicine 29 (1): 110–118. doi:10.1007/s11606-013-2604-0. PMC 3889958. PMID 24030427. http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3889958/. 
  21. ^ 三國雅彦・会長. “第107回日本精神神経学会学術総会”. 日本精神神経学会. 2014年6月4日閲覧。
  22. ^ 第107回 日本精神神経学会学術総会 シンポジウム(全文)”. 日本精神神経学会. 2014年6月4日閲覧。
  23. ^ 井原裕「双極性障害と疾患喧伝(diseasemongering)」(pdf)『精神神経学雑誌』第113巻第12号、2011年、1218-1225頁。 
  24. ^ アレン・フランセス『精神疾患診断のエッセンス―DSM-5の上手な使い方』金剛出版、2014年3月、7-8頁。ISBN 978-4772413527 Essentials of Psychiatric Diagnosis, Revised Edition: Responding to the Challenge of DSM-5®, The Guilford Press, 2013.
  25. ^ Nick Wing (2013年8月30日). “America, It's Time For An Intervention: Drug Overdoses Are Killing More People Than Cars, Guns”. huffingtonpost. https://www.huffpost.com/entry/drug-overdose-deaths_n_3843690 2014年5月22日閲覧。 
  26. ^ a b 野田正彰「製薬会社と医者が『うつ病』を作り出している」『新潮45』2013年2月号、新潮社、2013年1月18日、190-198頁。 
  27. ^ 野田正彰 2013, ch. 2, 6.

参考文献

  • Marcia Angell (August 24, 2004), The Truth About the Drug Companies: How They Deceive Us and What to Do About It, Random House, ISBN 978-0375508462 .(翻訳書は マーシャ・エンジェル『ビッグ・ファーマ―製薬会社の真実』栗原千絵子・斉尾武郎共監訳、篠原出版新社、2005年11月10日。ISBN 978-4884122621 
  • 野田正彰『うつに非ず うつ病の真実と精神医療の罪』講談社、2013年9月11日。ISBN 978-4062184496 

さらに読む

  • イーサン・ウォッターズ『クレイジー・ライク・アメリカ:心の病はいかに輸出されたか』紀伊國屋書店、2013年。ISBN 978-4314011037 Crazy Like Us: The Globalization of the American Psyche, 2011 抗うつ薬のパキシルを販売するためにグラクソ・スミスクライン社が、いかにして日本にうつ病という概念を広めたかについて詳しい。
  • Saddichha S (2010)."Disease Mongering in Psychiatry: Is It Fact or Fiction?" World Medical & Health Policy: Vol. 2: Iss. 1, Article 15. doi:10.2202/1948-4682.1042
  • Peter Conrad (2007), The Medicalization of Society: On the Transformation of Human Conditions into Treatable Disorders, Baltimore: Johns Hopkins University Press.
  • Payer, Lynn (1992). Disease-Mongers. New York: John Wiley. ISBN 0-471-00737-4 
  • Moynihan, Ray; Alan Cassels (2005). Selling sickness: How the world's biggest pharmaceutical companies are turning us all into patients. New York: Nation Books. ISBN 1-56025-697-4 
  • Cassels, Alan (2007). The ABCs of Disease Mongering: An Epidemic in 26 Letters. Victoria, British Columbia, Canada: EmDash Publishing. ISBN 978-0-9780182-3-8 
  • Melody Petersen (2008), Our Daily Meds: How the Pharmaceutical Companies Transformed Themselves into Slick Marketing Machines and Hooked the Nation on Prescription Drugs.
  • Christopher Lane (2008), Shyness: How Normal Behavior Became a Sickness.

外部リンク