水野 忠清(みずの ただきよ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の大名。上野小幡藩主、三河刈谷藩主、三河吉田藩主、信濃松本藩の初代藩主。沼津藩水野家初代。
備後福山藩の初代藩主・水野勝成の異母弟。
生涯
水野宗家6代で三河刈谷城主水野忠重の4男として生まれる。慶長5年(1600年)、父が加賀井重望に殺された後、水野氏の家督は兄の勝成が継ぎ、忠清は徳川秀忠の家臣として仕えた。同年の関ヶ原の戦いに出陣。慶長7年(1602年)、上野小幡に1万石の所領を与えられて大名となり、同年、従五位下に任官し隼人正を名乗った。慶長10年(1605年)には書院番頭に任ぜられ、また奏者番を兼ねた。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では岡山砦の秀忠本陣の警衛にあたり、元和元年(1615年)の夏の陣では敵将・大野治房を破るという大功を挙げた。この際青山忠俊や高木正成と先陣を競い行賞をめぐって争ったため、閉門を命じられたが、元和2年(1616年)に徳川家康死去の寸前に閉門を解かれた。ただし、なおもしばらく謹慎を続けたと伝わる。
その後、父忠重の過去の功績と大坂の役の軍功により、三河刈谷2万石に移封された。
寛永9年(1632年)に2万石を加えられて三河吉田4万石に移封される。
寛永19年(1642年)7月には信濃松本7万石に加増移封された。正保4年(1647年)5月、江戸にて死去した。享年66。
家督は子の忠職が継いだ。
系譜
父母
正室
子女
脚注
参考文献
- 田中薫『松本藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2007年5月。
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水野家〔宗家〕 | |
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水野家 | |
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深溝松平家 | |
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久松松平家 |
- 松平定政1649-1651
- 所領返上の書状を幕府に提出したため、改易。短期間、幕府領に。
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稲垣家 | |
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阿部家 | |
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本多家 | |
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三浦家 | |
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土井家 | |
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水野氏 三河吉田藩藩主(1632年 - 1642年) |
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竹谷松平家 | |
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深溝松平家 | |
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水野家(沼津) | |
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水野家(山形) | |
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小笠原家 | |
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久世家 | |
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牧野家 | |
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大河内松平家 | |
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本庄松平家 | |
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大河内松平家 | |
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水野氏 松本藩初代藩主 (1642年 - 1647年) |
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石川家 | |
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小笠原家 | |
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戸田松平家 | |
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雲州松平家 | |
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堀田家 | |
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水野家 | |
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戸田松平家 | |
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