森中 聖雄基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
静岡県三島市 |
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生年月日 |
(1974-04-09) 1974年4月9日(50歳) |
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身長 体重 |
175 cm 80 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
左投左打 |
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ポジション |
投手 |
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プロ入り |
1996年 ドラフト2位(逆指名) |
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初出場 |
1997年4月4日 |
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最終出場 |
2003年8月27日 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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|
国際大会 |
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代表チーム |
日本 |
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五輪 |
1996年 |
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森中 聖雄(もりなか まさお、1974年4月9日 - )は、静岡県三島市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。愛称は「モリチュー」[1]。
現役時代は1997年から2003年まで横浜ベイスターズでプレーし、貴重な左腕として主に中継ぎで通算189試合に登板した[2]。2023年より読売ジャイアンツ(巨人)のスカウトを務めている。アトランタオリンピック野球の銀メダリスト。
経歴
プロ入り前
三島市立徳倉小学校・三島市立北上中学校時代には三島市の少年野球チーム「三島ノースタイガース」に所属した[3]。北上中を経て[4]、東海大学工業高校に進学した[3]。高校時代は2年生だった1991年夏の静岡大会で、決勝戦で沼津市立高校相手に3本塁打を被弾して敗戦したが準優勝投手になり、3年生だった1992年の春季県大会および東海大会では優勝を果たした[5]。
東海大学入学後、硬式野球部に入部。大学時代は原貢監督から指導を受けた。大学3年生だった1995年にはユニバーシアード福岡大会で銅メダルを獲得[3]。強打のアメリカ合衆国代表打線を封じ、国際舞台への強さをアピールした[6]。4年時の1996年のアトランタオリンピック野球日本代表に選出され[3]、決勝の対キューバ戦で同点の6回裏から3番手投手として登板、9回まで1被安打6奪三振と好投したが、10回には連打を浴びて降板した[7]。その後チームはサヨナラ負けを喫したが、日本代表の銀メダル獲得に貢献した[7]。大会通算4試合に登板し9回2/3投球回、15奪三振。帰国後の秋の首都大学リーグ戦では1試合19奪三振のリーグタイ記録を達成した[8]。首都大学リーグにおける通算成績は48試合登板、21勝12敗、防御率1.86[8]。
1996年のドラフト会議にあたり、横浜ベイスターズは左腕投手不足を解消するため森中の獲得を目指した[9]。森中は横浜以外に中日ドラゴンズからも勧誘を受けており[10]、9月までは森中の争奪戦は中日有利と伝えられていたが、東海大の地元チームであり、当時左投手不足が課題とされていた横浜は10月に入ってから森中に強くアプローチを掛けた[11]。本人は首都大学リーグの日程を終えた10月28日にプロ入りの希望を表明した際、「(指名)順位は気にしない。大学で4年間頑張った神奈川でやりたい」と意思表示し[12]、11月11日に横浜を逆指名することを表明した[10]。ドラフト会議では横浜が2位で森中を指名して交渉権を獲得し、11月26日に森中は同じく五輪代表であり、横浜を逆指名してドラフト1位指名を受けた川村丈夫(日本石油)とともに、契約金1億円+出来高払い5000万円・年俸1300万円(金額は推定)で契約を締結した[13]。背番号は14。
横浜時代
1997年には小坂誠(千葉ロッテマリーンズ)とともにオープン戦の最優秀新人選手として選出され[14]、川村とともに開幕一軍メンバーに名を連ねると[15]、新人ながら開幕先発ローテーション入りを期待されていた[16]。4月4日のシーズン開幕戦である対中日戦(ナゴヤドーム)でプロ初登板を果たした。しかし同年から2年目の1998年は2年連続で未勝利に終わり、1998年はチームの優勝の輪には加われなかった[17]。1998年は日本シリーズ出場有資格者選手としてノミネートされたが[18]、登板機会はなかった。
1999年は開幕を一軍で迎えるが[19]、速球が走らず[20]、4月30日に出場選手登録を抹消される[21]。しかしその後、二軍(イースタン・リーグ)では5月18日の対日本ハムファイターズで挙げた1安打完封勝利を含む3勝を挙げ、5月29日に再登録された[22]。同日の対広島東洋カープ9回戦(広島市民球場)で、先発投手の小桧山雅仁が5回二死で打球を右手に受けて降板したことを受け、2番手投手として登板[22][20]、残りの4回1/3を1被安打に抑え、プロ初勝利を挙げた[23]。また同年8月18日の対阪神タイガース21回戦(横浜スタジアム)でプロ初セーブを挙げ[24]。同年は中継ぎとして41試合に登板して6勝2敗2セーブ[注 1]、防御率2.16と好成績を残した。
2000年5月25日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦(福岡ドーム)では0対0で迎えた9回裏の二死一・二塁のピンチで3番手投手として登板し高橋由伸を初球で一塁ゴロに打ち取ると、延長10回表に佐伯貴弘が岡島秀樹から左前に適時打を放ち、10回裏に登板した抑え・福盛和男がリードを守りきったことで同シーズン初勝利を「1球勝利投手」(当時プロ野球史上10人目)の記録で飾った[26]。同年は53試合にリリーフ登板して6勝2敗2セーブと大車輪の活躍だった[17]。しかし翌2001年からは勤続疲労から球が走らず苦しい投球が目立ち始め登板機会も減っていった。
2002年7月18日の巨人戦(東京ドーム)では松井秀喜に屋根の隙間に入り込む大飛球を打たれたが、ボールは実際には挟まってはおらず二重構造の天井シートの隙間に吸い込まれており、松井には東京ドーム特別ルールにより二塁打が宣告された[27]。また同年9月16日の巨人戦(東京ドーム)で7回裏から2番手投手として登板したが、先頭の松井に東京ドームの天井を直撃する特大の本塁打を献上した[1]。なお、森中本人はこの松井からの特大本塁打を「自分がプロ野球選手だった証となる大切な思い出」として回顧している[1]。
2003年5月28日の対阪神タイガース11回戦(阪神甲子園球場)で、4回表に先発投手の藪恵壹からプロ初本塁打となるソロ本塁打を放ったが[28]、同年はわずか10試合の登板に終わり[17]、勝敗なし、防御率6.55の成績にとどまった[2]。10月4日には大学時代ライバルであった杉本友とともに戦力外通告を受け[29]、12月2日付でNPBコミッショナー事務局から自由契約選手として公示された[30]。
横浜退団後
横浜退団当時はまだ29歳と年齢的に若く、故障もなかったことから現役続行を目指し、西武ライオンズの入団テストを受けたが不合格に終わった[17]。また巨人からも声を掛けられたが、原辰徳監督の辞任騒動により、井上貴朗とともに選手ではなく[1]、打撃投手として採用されることとなった[17]。これは同シーズン左投手を苦手とした巨人が、まだ若く球威もある左投手の森中の技量を評価して出した打診であり、森中はこの打診を受けて現役を引退し、同年秋季キャンプから打撃投手を務めた[31]。なお、この際に着用した背番号123は球団史上初である[31]。
2004年[17]から2011年まで打撃投手を務め、2012年からはチームスコアラーを務めた[32]。
2023年より巨人の関東・北信越地区担当スカウトに就任した[33]。
選手としての特徴
大学4年生だった1996年当時は、球速140 km/h台の速球と切れのあるカーブ、チェンジアップを武器としていた[3]。高校時代は向こうっ気の強さと速球の回転の良さが注目されていた一方、カーブが課題とされていたが、3年生の夏にはカーブにも威力がつき、当時の静岡県の高校生投手では注目度ナンバーワンと評されていた[5]。また高校時代は主軸は打たなかったものの、バットコントロールにも定評があった[34]。
横浜入団時の監督である大矢明彦からは、右打者相手に投げる外角への逃げる球や内角へのストレートを高く評価されていた[8]。プロ入り後の1999年には前述の出場選手登録抹消から1か月間にわたり、二軍でスライダーを新球種として習得し[22]、プロ初勝利を挙げた試合ではそのスライダーや球速145 km/hの速球を投げていた[23]。
詳細情報
年度別投手成績
年
度 |
球
団 |
登
板 |
先
発 |
完
投 |
完
封 |
無 四 球 |
勝
利 |
敗
戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝
率 |
打
者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬
遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴
投 |
ボ 丨 ク |
失
点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P
|
1997
|
横浜
|
17 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
4 |
0 |
-- |
.000 |
113 |
22.2 |
27 |
3 |
19 |
1 |
2 |
22 |
0 |
0 |
22 |
20 |
7.94 |
2.03
|
1998
|
6 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
-- |
---- |
19 |
4.2 |
1 |
0 |
3 |
0 |
1 |
4 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0.00 |
0.86
|
1999
|
41 |
0 |
0 |
0 |
0 |
6 |
2 |
2 |
-- |
.750 |
198 |
50.0 |
34 |
5 |
16 |
2 |
1 |
30 |
2 |
0 |
13 |
12 |
2.16 |
1.00
|
2000
|
53 |
1 |
0 |
0 |
0 |
6 |
2 |
2 |
-- |
.750 |
244 |
64.1 |
41 |
8 |
11 |
1 |
1 |
64 |
1 |
0 |
17 |
17 |
2.38 |
0.81
|
2001
|
35 |
0 |
0 |
0 |
0 |
3 |
2 |
0 |
-- |
.600 |
153 |
32.2 |
38 |
7 |
14 |
0 |
2 |
22 |
0 |
0 |
22 |
19 |
5.23 |
1.59
|
2002
|
27 |
6 |
0 |
0 |
0 |
2 |
5 |
0 |
-- |
.286 |
251 |
59.1 |
61 |
12 |
17 |
2 |
2 |
43 |
2 |
0 |
32 |
32 |
4.85 |
1.31
|
2003
|
10 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
-- |
---- |
51 |
11.0 |
12 |
2 |
4 |
0 |
4 |
8 |
0 |
0 |
8 |
8 |
6.55 |
1.45
|
通算:7年
|
189 |
10 |
0 |
0 |
0 |
17 |
15 |
4 |
-- |
.531 |
1029 |
244.2 |
214 |
37 |
84 |
6 |
13 |
193 |
5 |
0 |
114 |
108 |
3.97 |
1.22
|
記録
- 初記録
- 投手記録
- 初登板:1997年4月4日、対中日ドラゴンズ1回戦(ナゴヤドーム)、7回裏2死から3番手で救援登板・完了、1回1/3無失点
- 初先発:1997年4月12日、対広島東洋カープ2回戦(横浜スタジアム)、3回2/3を7失点で敗戦投手
- 初勝利:1999年5月29日、対広島東洋カープ9回戦(広島市民球場)、5回裏2死から2番手で救援登板・完了、4回1/3無失点
- 初セーブ:1999年8月18日、対阪神タイガース21回戦(横浜スタジアム)、9回表1死から3番手で救援登板・完了、2/3無失点
- 初先発勝利:2002年4月29日、対ヤクルトスワローズ4回戦(横浜スタジアム)、7回3失点
- 打撃記録
- 初本塁打:2003年5月28日、対阪神タイガース11回戦(阪神甲子園球場)、4回表に藪恵壹から右越ソロ
- その他の記録
背番号
- 14 (1997年 - 2003年)
- 123 (2004年 - 2009年)
- 04 (2010年)
- 203 (2011年)
脚注
注釈
- ^ 同年の2セーブはいずれも横浜スタジアムの阪神戦(8月18日の21回戦、9月4日の24回戦)で挙げたものである[25]。
出典
- ^ a b c d 「惜別球人 第1回 横浜 思い出は「ゴジラ天井弾」」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2003年12月。オリジナルの2004年2月18日時点におけるアーカイブ。2004年2月18日閲覧。
- ^ a b 『神奈川新聞』2003年10月5日朝刊A版スポーツ面10頁「森中、杉本に戦力外を通告」(神奈川新聞社)
- ^ a b c d e 『静岡新聞』1996年6月22日朝刊20頁「五輪メダルに獲得に貢献したいー森中投手が三島市長を表敬訪問」(静岡新聞社)
- ^ 「中学校」三島市、2000年。2024年5月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月6日閲覧。
- ^ a b 『静岡新聞』1992年7月15日朝刊12頁「全国高校野球選手権静岡大会=投手編 ナンバー・ワンは森中」(静岡新聞社)
- ^ 『静岡新聞』1996年7月11日朝刊15頁「19日にアトランタ五輪開幕 胸ときめかせ待つ静岡県選手」(静岡新聞社)
- ^ a b 『静岡新聞』1996年7月23日朝刊16頁「アトランタ五輪・野球=森中聖雄好投、気持ち良く発舞台」(静岡新聞社)
- ^ a b c 『神奈川新聞』1996年11月12日朝刊B版スポーツ面16頁「森中(東海大)が横浜を逆指名」(神奈川新聞社)
- ^ 『中日スポーツ』1996年10月13日第5版4頁「中日、川村(日本石油)2位指名へ 日本ハムとの争奪戦か?!」(中日新聞社)
- ^ a b 『中日新聞』1996年11月12日朝刊第一運動スポーツ面23頁「森中、横浜を逆指名」(中日新聞社)
- ^ 中日スポーツ編集『月刊ドラゴンズ』第163号、1996年11月1日、72-73頁「阿知波浩二のアマ野球通信 今年の超目玉・井口はナント中日に来る!? 運命のドラフトは11月21日だ」(中日新聞社)
- ^ 『中日スポーツ』1996年10月29日第5版4頁「森中(東海大)プロ希望表明 意中の球団は横浜」(中日新聞社)
- ^ 『中日新聞』1996年11月27日朝刊第一運動スポーツ面29頁「ドラフトだより(金額は推定) 【横浜】川村、森中が契約」(中日新聞社)
- ^ 『中日新聞』1997年4月1日朝刊第二運動スポーツ面32頁「プロ野球短信 MVPに池山、城島」
- ^ 『中日新聞』1998年4月3日朝刊第一運動スポーツ面27頁「セ・リーグあす開幕 竜は横浜とナゴヤドームナイター 今中、野口開幕外れる 出場選手登録公示 大塔を抜てき 中継ぎ『勝負』」
- ^ 『静岡新聞』1997年4月2日朝刊11頁「プロ野球=セ・リーグ4日、パ・リーグ5日開幕 栄冠に挑む」(静岡新聞社)
- ^ a b c d e f 『読売新聞』2004年1月27日東京夕刊2面2頁「縁あってのG、縁の下の力持ち 巨人の打撃投手に新顔2人/プロ野球」(読売新聞東京本社・記者:荒井秀一)
- ^ 『中日新聞』1998年10月16日朝刊第一運動スポーツ面31頁「あすから日本シリーズ 第1戦はエース対決 野村、西口 日本シリーズ出場有資格者選手名簿と担当審判員」(中日新聞社)
- ^ 『中日新聞』1999年4月1日朝刊運動1面31頁「セ・リーグあす開幕 3強(中日、横浜、巨人)軸に混線模様 中日、ドームで広島戦」(中日新聞社)
- ^ a b 『毎日新聞』1999年5月30日東京朝刊スポーツ面25頁「プロ野球 横浜6-1広島 森中が初白星――負傷の小檜山を好援護」(毎日新聞東京本社)
- ^ 『神奈川新聞』1999年5月1日朝刊A版スポーツ面15頁「球界ファクシミリ セ・リーグ公示(30日)」(神奈川新聞社)
- ^ a b c 『神奈川新聞』1999年5月30日朝刊A版スポーツ面17頁「セ・リーグ 第9節 横浜6-1広島 9回戦(横浜5勝4敗、6時21分、広島、22,000) アーチ攻勢 横浜が快勝 森中プロ初勝利」「1999 ☆B フルマーク 谷間に晴れ間 脇役2人奮闘」(鈴木昌紹)(神奈川新聞社)
- ^ a b 『日本経済新聞』1999年5月30日朝刊37頁「横浜・森中、一軍登録の日、プロ初勝利」(日本経済新聞東京本社)
- ^ 『神奈川新聞』1999年8月19日朝刊A版スポーツ面13頁「セ・リーグ 第21節 横浜2-0阪神 21回戦(横浜13勝8敗、6時、横浜、29,000)」「横浜、完封リレー 駒田の2点守り切った 福盛8勝目 森中プロ初セーブ」「1999 ☆Bフルマーク ”新球”が威力 救世主へ期待」(真野太樹)(神奈川新聞社)
- ^ 『ベースボール・レコード・ブック 2000』ベースボール・マガジン社、1999年12月25日第1版第1刷発行、388頁
- ^ 『東京新聞』2000年5月26日朝刊第一運動スポーツ面23頁「セ・リーグ 佐伯が決勝打 福岡ドーム(9回戦巨人7勝2敗) 横浜1-0巨人」(中日新聞東京本社)
- ^ 『東京新聞』2002年7月19日朝刊第二運動スポーツ面22頁「ザ・マン 天井弾 松井 打球も調子も落ちん 記録は二塁打」(中日新聞東京本社・記者:牧田幸夫)
- ^ 『中日新聞』2003年5月29日朝刊第二運動スポーツ面22頁「セ・リーグ 第10節 28日 阪神ヒヤヒヤ3連勝 阪神10-9横浜 甲子園(阪神10勝1敗)」(中日新聞社)
- ^ 『朝日新聞』2003年10月5日東京朝刊第三スポーツ面21頁「横浜が2投手に戦力外通告(プロ野球短信)」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『中日新聞』2003年12月3日朝刊第一運動スポーツ面21頁「ムーアも自由契約 名簿公示 コミッショナー公示(2日)【自由契約選手】」(中日新聞社)
- ^ a b 「巨人「左克服」の秘密兵器は森中 秋季Cから合流」『スポーツ報知』報知新聞社、2003年10月22日。オリジナルの2003年12月5日時点におけるアーカイブ。
- ^ 「【センバツ】国士舘、巨人・森中スコアラー次男が意地の2安打「夏に戻ってきたい」」『スポーツ報知』報知新聞社、2019年3月27日。オリジナルの2020年1月10日時点におけるアーカイブ。2020年1月10日閲覧。
- ^ “2023ドラフト特集 2023スカウト布陣から読む12球団補強ポイント【セ・リーグ編】”. 週刊ベースボールONLINE (2023年1月24日). 2023年4月14日閲覧。
- ^ 『静岡新聞』1992年7月16日朝刊14頁「全国高校野球静岡大会展望=打撃編 パンチ力の松田・御殿場西」(静岡新聞社)
関連項目
外部リンク
野球日本代表 |
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