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この項目では、『源氏物語』五十四帖の第1帖について説明しています。桐壺という別名がある平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つについては「淑景舎」をご覧ください。 |
桐壺(きりつぼ)は『源氏物語』五十四帖の第1帖。
「
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いづれの御時にか 女御・更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに いとやむごとなき際にはあらぬが すぐれて時めき給ふありけり。
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」
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あらすじ
桐壺帝と桐壺更衣の契りから光源氏12歳までを描写。
どの帝の御代であったか、それほど高い身分ではないが帝(桐壺帝)に非常に寵愛されている女性(桐壺更衣)がいた。二人の間には輝くように美しい皇子が生まれたが、他の妃たちの嫉妬や嫌がらせが原因か病気がちな更衣は、3歳の皇子を残して病死。これを深く嘆く帝を慰めるため亡き更衣に生きうつしの先帝の第四皇女(藤壺)が入内し寵愛される。一方、祖母(更衣の母)をさらに失った皇子は帝のもとで育てられ、亡き母・桐壷更衣に似ていると言われる藤壺を殊更に慕う。12歳時に元服した皇子を臣籍降下させる際に帝は源姓を与えて、左大臣の娘(葵の上)と結婚させる。光り輝く美貌から彼は光る君と呼ばれる。
補足
嵯峨天皇(在位: 809年 - 823年)は多くの皇子を儲ける。経費を削減し皇室を安定させるため天皇は皇子の多くを臣籍降下させた(臣籍降下の際に賜姓した)。天皇の妃には皇后(中宮)・女御・更衣・御息所などがいるが、皇后・女御など比較的身分の高い妃より更衣・御息所など比較的身分の低い妃が産んだ皇子から優先的に臣籍降下させている。
嵯峨天皇の皇子・源融が光源氏のモデルの一人と言われている。
また、天皇の皇子で臣籍降下の際に源氏を賜った所謂「一世源氏」と呼ばれる人々の中には、父天皇の意向で内裏において元服を行って饗宴・引出物なども天皇主導で行うことで他の臣下とは異なる存在であることが強調された事例を元に、臣下となった光源氏の元服を父・桐壺帝が仕切っている内容が記された確率が高い[1]。
光源氏が誕生した際に占いを行った「宿曜のかしこき道の人」とは宿曜道の占い師(宿曜師)である。
後挿入説・後記説
本巻は源氏物語の首巻であり、年立の上で最も早い時間軸の部分が描かれているが、続く巻である「帚木」とのつながりが悪いことなどを理由として古くは室町時代の注釈書である『源氏物語聞書』、近代に入ってからは与謝野晶子により[2]、さらには池田亀鑑[3]や阿部秋生[4]らによってしばしば後挿入説・後記説が唱えられている。本巻と「帚木」との間の不整合については両巻の間に「輝く日の宮」の巻の存在を想定して解決しようとする風巻景次郎の説[5]もある。
脚注
出典
- ^ 江渡俊裕「一世源氏元服に関する試論」小口雅史 編『律令制と日本古代国家』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-804-9 P120.
- ^ 与謝野晶子「紫式部新考」『太陽』1928年(昭和3年)1月・2月号のち『与謝野晶子選集4』(春秋社)
- ^ 池田亀鑑『源氏物語入門 新版』p. 61 社会思想社〈現代教養文庫〉1639、初版1957年、新版2001年、ISBN 4-390-11639-8、 (オンデマンド版、文元社、2004年) ISBN 4-86145-005-5
- ^ 青柳(阿部)秋生「源氏物語の執筆の順序」『国語と国文学』1939年(昭和14年)8・9月
- ^ 風巻景次郎「源氏物語の成立に関する試論-下-缺巻耀く日の宮をめぐる問題」岩波書店編『文学』第20巻第5号、岩波書店、1952年(昭和27年)5月、pp.. 418-430。のち『日本文学史の研究(下)』角川書店、1961年(昭和36年)。 および『風巻景次郎全集 第4巻 源氏物語の成立』桜楓社、1969年(昭和44年)11月、pp.. 121-142。
外部リンク