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東 実(あずま みのる、1934年7月17日 - )は、和歌山県海南市[1]出身の元プロ野球選手(投手)。
海南高校ではエースとして1952年春の選抜に出場[1]。2回戦(初戦)で鹿児島商に引き分け再試合の末に敗退[2]。同年春季近畿大会でも決勝に進むが育英高に敗退。夏の甲子園県予選は準決勝で向陽高に敗れる。チームメートに右翼手の筒井真次(南海-高橋-大映)がいた。
卒業後は立教大学に進学。東京六大学野球リーグでは1953年春季リーグで優勝を経験するが、その後は明大、早大に抑えられ、1955年秋季リーグから3季連続2位にとどまる。1955年春季リーグでは東大からノーヒットノーランを達成した[1]。リーグ通算55試合登板、20勝11敗10完封、防御率1.34、144奪三振[1]。大学同期に矢頭高雄・堀本律雄、1年下に長嶋茂雄・本屋敷錦吾・杉浦忠らがいる。
卒業に当たって、南海と大洋から勧誘を受ける。東の実家が和歌山県海南市で南海電鉄(和歌山軌道線)の沿線だったこともあり、東と家族は南海に好意的であった。一方で、立教大学監督の辻猛は大洋への入団を勧めていた。南海監督の鶴岡一人が東の意志を確認した上で、辻に対して南海入団を了承してもらえるよう頼みに行ったが、喧嘩別れのようになってしまい、暗黙の内に南海入りが決まったという[3]。
1957年は開幕2試合目の3月31日の近鉄とのダブルヘッダーの第1試合で同期入団の木村保が勝利を挙げると、東は第2試合に先発で起用されるが4回途中で連打を浴び無失点ながら降板。シーズンでは31試合に登板するが1勝(4敗)に留まる。その後は登板機会が減少、在籍5年でわずか2勝に終わり、1961年限りで引退した。
低目に入るカーブに見るべきものがあったが、球威・コントロールともに今ひとつで、プロ野球では通用しなかった。また、同期入団の木村保がいきなり活躍したことが、精神的に焦る原因になったとも評されている[4]。
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