杉本 彩(すぎもと あや、1968年7月19日 - )は、日本のタレント、レースクイーン、女優、グラビアアイドル、歌手、ダンサー、小説家、実業家、動物愛護活動家[2]、作詞家、作曲家である。株式会社オフィス彩所属で代表取締役[1]。公益財団法人動物環境・福祉協会Eva理事長。
京都市東山区出身。本名は、松山 基栄(まつやま もとえ)[1]。事業活動などに際しては、本名を使用している。
身長168cm、B82cm、W58cm、H86cm(1987年5月、18歳時)[3]。
人物
生い立ち
東山区祇園出身で、当時は両親と妹と祖母と暮らしていた[2]。京都市立有済小学校[4] 、京都市立弥栄中学校卒業。京都府立北稜高等学校中退。
幼い頃は祇園に今ほど観光客はおらず、新門前通や新橋通などを遊び場にして毎日元気に走り回っていた。子供の頃はおばあちゃん子で、夏場は祖母が仕立てた浴衣を着て祇園祭に訪れるのが楽しみだった[2]。母方の祖父母が着物関係の仕事をしていて母はテーラー、父は洋服の生地を扱うサラリーマンだったが、杉本が中学生の時に父が脱サラして、母もテーラーを辞め小料理屋を始める。
しかし、父が知人の借金の保証人になっていて、その知人が借金を返済しないまま失踪してしまう。悪徳金融業者に借りた借金は、法外な利子で雪だるま式に増えていったという。住んでいた家は差し押さえられ、金融業者の執拗な催促が連日続いた。杉本は両親と共に悪徳金融会社に連れて行かれ、一緒に頭を下げさせられたこともあったという。
杉本は高校受験をひかえていたが、進学費用の捻出もままならないほど杉本家の経済状況はひっ迫し、母親はそんな父親に愛想をつかし新しい恋人に走り、家庭は崩壊する。精神的に追い詰められた杉本は15才の時に刃物で手首を切り、自殺を図るが、母親が早く発見したために一命を取り留めた。高校入学直前に祇園から京都市内に引っ越したが、その後両親は離婚した[2]。
家庭内がゴタゴタしたことから「早く自立したい」と強く思うようになり、その後16歳の時にスカウトされた[2]。モデルの仕事を始めたことでほどなくして高校を中退し、勉強は通信教育に変えた[2]。モデルとして必死に働き、17歳の頃に自立できるぐらいの収入が得られたことからアパートで一人暮らしを始めた[注釈 1][注釈 2]。
モデルやキャンペーンガールなどの経験を重ねる中、彼女の大人びた容姿に興味を持ち話しかけてきた芸能事務所スターダストプロモーションのスカウトにより全国区のデビューを持ちかけられ、芸能界入りが決定した[5]。当時、芸能界は憧れて入ったわけではなく、「自分が自立して生きていくための一番の近道だった」と語っている[6]。
1987年に東レキャンペーンガールとしてデビュー[3][7]。日本人離れしたプロポーションで[3]、大胆なハイレグ水着を着こなし話題を呼んだ[3]。以後、ダンサー、作家など幅広い分野で活躍。現在は、公益財団法人動物環境・福祉協会Eva理事長。動物愛護活動家として、日本の動物福祉の向上を目指している。
興味本位でタバコを吸ってみたことがあったが、おいしいと感じることもなかったため吸わなくなった[8][9]。以来、本人曰く「基本的に」タバコが嫌いで会社の芸能部のスタッフには、給料以外に1万円の“禁煙手当て”を出している。外見から喫煙者に見られることが多く、レストラン等では黙っていても灰皿を出されてしまうと語っている[10]。(なお、彼女の出演した「愛の新世界」や「君といつまでも」などのように、演じる役柄によっては、実際にタバコを吸う場合もある。)。しかし、葉巻はたまに酔った勢いで吸うことがあると、「月刊 杉本彩」のメイキングDVDにて発言している。夫は元々は喫煙者であったが、杉本の説得により禁煙した。
経歴
東京でも当初はモデルとしてデビュー。スタイルの良さから水着やボディコンシャスな服を着用するキャンペーンガールなどに起用される。
19歳当時には『オールナイトフジ』で中村あずさのアシスタント役に抜擢。堂々とした立ち居振る舞いや媚びのないセクシーさから、女性からの支持も多く集めた。また、音楽活動にも活躍の場を広げ、特に学祭出演が多かったことから「学祭の女王」の異名も持った。この頃から、「Sha-La-La」や「愛が知りたい」など自分の歌唱曲の作曲も、自身で行うようになる。
当初は京都から東京に通って仕事をしていたが、その後スケジュールの都合で通うのが難しくなったため、20歳の頃に本格的に上京[2]。上京後から世田谷区桜新町で暮らし始めた[2]。
1991年(平成3年)、24歳の時に個人事務所株式会社 オフィス彩を設立。
1993年(平成5年)の『ENFIN』を皮切りにヘアヌード写真集を多数発表。官能小説を執筆したり、団鬼六の代表作『花と蛇』の映画化の主役に抜擢されるなど「エロスの伝道師」を標榜し[11]、バラエティ番組の出演も増えた。
「運命に逆らう」という意味をもつスキンケアブランド『アンデスティノ』を立ち上げたが、2010年(平成22年)8月31日、経営陣に加えていた妹との経営方針をめぐる対立により株式会社アンデスティノの取締役及びプロデューサーを退任(詳細は後述)。同年9月、新たなブランド「リベラータ」を設立しプロデューサーに就任。
2023年、YouTubeチャンネル『Aya sugimoto TV』を開設。
私生活
- 1992年(平成4年)にミュージシャンで音楽プロデューサーの沼田年則と結婚したと『新伍&紳助のあぶない話』出演中に明かしたが、後日、別のバラエティー番組で“夫とのセックスレス”を告白、2003年(平成15年)7月24日に離婚[12]。
- 2010年(平成22年)に出版した著書「リベラルライフ」の中で、結婚期間中に当時、うつ病を患っていた実母を引き取り同居していたが、精神的に不安定だった実母の夫に対する暴言がたびたびあり、また杉本自身が売れっ子になったことでの夫婦間の感情が悪化したことなどが、離婚の引き金になったことを明かした。
- 「リベラルライフ」及びそれに関連する各週刊誌やスポーツ新聞でのインタビューにおいて、その後自身が経営していた化粧品会社「アンデスティノ」の役員となっていた実妹夫婦が同じく同社の幹部の杉本の友人[注釈 3]と経営方針を巡り激しく対立したため、母・妹と絶縁し彼女らへの仕送りを中止し「アンデスティノ」の経営権を妹に譲り自身は退社したいきさつや[注釈 4]、実母と離婚していた実父は既に別の女性と再婚し、実父及び実父の再婚相手とは良好な関係を保っていることも合わせて公表した[13]。なお実父は2020年に他界している[14]。
- 上記の実母・妹夫婦との対立は杉本の再婚後に彼らが女性週刊誌のインタビューに応じた事で再燃し、ブログで再度上記の経緯を説明したのち、「アンデスティノ」が既に倒産したこと、倒産の際に妹が破産管財人とトラブルを起こした事、幼少時より可愛がっていた猫を実母が勝手に捨てるなどの精神的虐待を受けていた事を明かした[15]。
- 2011年(平成23年)4月17日に、「オフィス彩」で副社長を務める一般男性と再婚[16]。2月の時点で結婚を決めていたが、東日本大震災を受けて8月31日に発表し、会見を行った。この再婚を機に、東京でのタレント活動・事務所経営を続けながら、生活の拠点を20年振りに京都市内へ移している[17][18]。
エピソード
趣味・特技は社交ダンス。『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』がきっかけでハマったという。『ウリナリ芸能人社交ダンス部』などの番組企画で社交ダンスを特訓した際には、バラエティ番組の域を超えて心身ともに徹底的に打ち込んだ。ペアの相手は南原清隆で1級を獲得している。練習中、激しい転倒などもあり肋骨と鼻骨を骨折している[19]。担当のプロデューサーは最終目標の大会に出場しなくても、すでにその準備の映像で十分ドキュメンタリーとして成立することを理由に、杉本の辞退・静養をすすめたが、本人は「一緒に努力してきたチームメイトや南原に申し訳が立たない」と激痛に耐えて、痛み止めを打ちながらついに大会の最後まで踊り通した[19]。番組終了後も続けていると『徹子の部屋』で語っている。
恵昇院の檀家で、本能寺が菩提寺。高祖父はドイツから来た医者であり、16分の1ドイツの血が流れている[20]。
容姿や外見からサディストに見られやすいが、本人はむしろマゾヒストと語っている[21]。
芸能人で唯一尊敬し、影響を受けた人はイタリアの歌手ミルバ[21]。
60代70代になる頃には、「愛に溢れた女性でありたい」「将来的には社会に貢献できる仕事をしていきたい」と語っている[21]。
大切にしている事は「愛すること」「情熱を傾けること」「許す(赦す)こと」の3つである[21]。
方向音痴である(2020年9月9日放送、『ホンマでっか⁉︎TV』より)。
詳細な番組名は不明だが、ラジオ番組の初のレギュラーが名古屋の放送局で、初主演ドラマ[注釈 5]も愛知県内で制作された作品だった[2]。このため本人は、「(女優、タレントとしての)“杉本彩”の始まりの場所は、名古屋」と位置づけている[2]。
和洋、ジャンル問わずとにかく踊ることが大好きで、子供時代はバレエを習っていたり、夏場に隣町の盆踊りを踊るのが特に好きだった[注釈 6]。
先述の通り長年桜新町で暮らしたことから、本人は「桜新町は、第二の故郷」と評している[2](ただし2022年現在も居住しているかは不明)。桜新町の住民からは水前寺清子、やくみつると並んで「桜新町3大有名人」と称されているという。また、桜新町で毎年4月に開かれる「さくらまつり」では、水前寺によるオンステージが定番だが、過去に一度だけ杉本がアルゼンチンタンゴを披露したことがある[注釈 7]。
料理
- バラエティー番組『愛のエプロン』では料理上手という意外な一面をみせた。料理評論家の服部幸應には「塩梅がいい。料理人になってもよかったんじゃないかと思う。プロでも100人中1人いるかいないか」と評される。
- 『恐怖の食卓』では独特な食生活が暴露され、9人の医師から逆パーフェクト(全員から病を宣告される)されたこともあるが、トークショーでは「たしかに肉が好きだけど、本当はちゃんと野菜も食べてる。テレビ番組ってそんなもんなんです」と発言した。本人曰く、「料理をするようになったのは中学生の頃から」であり、番組のためににわかに仕込んだ腕前ではない。
- 昔は野菜が大嫌いでほぼ毎日、肉を食べていたが、現在は週に一回程度しか食べなくなった。ただし仕事の都合上、付き合いの席等で肉が出てきた時は感謝し全部いただくと語っている[21]。
- 米を好んでおり、「どんな料理を食べても、白いご飯を最後に食べないと食事を終えた気持ちになれない」と語ったことがある。自宅拝見のテレビ番組の中で、米は最高ランクのものを取り寄せ、可能な限りその米の産地の水を使い、土鍋で炊いている、という拘りぶりを語った。また小さい頃からの大好物は卵かけご飯であるという。
犬猫の動物愛護
- 大の猫好きであり、20歳の時からボランティアで捨て猫の里親探しをしている。「将来は一軒家で、もっと多くの猫達の面倒をみたい。今、手がけているビジネスでも成功したら、私腹を肥やすのではなく、大好きな動物たちに何らかの形で還元したい」と語っている。
- 動物愛護(保護)活動のきっかけは、24歳の頃にドラマ撮影所の敷地内でウイルス性の風邪にかかった子猫を見つけ、一時保護したこと[注釈 8]。その後も猫を保護する機会があったが、「これは目の前の命を救うだけではだめだ。問題の根源を解決しないと」ということに気づいた。個人で署名運動やビラ配りを始めたが一人の力に限界を感じ、後に福祉協会Evaを立ち上げることとなった[2]。
- 最近では、東日本大震災の影響により飼い主と離れ離れになった7匹の猫の里親となる[22][23][24]。
出演
映画
Vシネマ
- 女神がくれた夏(1990年) - 主演・アーヤ / 由季(二役) 役
- 女囚処刑人マリア2(1995年) - 主演・九条マリア 役
- 君といつまでも(1995年) - 和泉田茜 役
- 仮面ライダーW RETURNS 仮面ライダーエターナル(2011年) - プロフェッサー・マリア(大道マリア) 役
- HOKURO 百発病伝説(2003年) - 百代 役
テレビドラマ
NHK
日本テレビ
テレビ朝日
TBS
テレビ東京
フジテレビ
バラエティー・情報番組
ウェブテレビ
ラジオ
CM
PV
イメージビデオ
- 彩(1988年、クラウンレコード)VHS
- MERMAID(1988年6月8日、大陸書房)VHS
- MOON CAT〜危険なささやき〜(1988年9月9日、ケイブンシャ)VHS
- AYA in The RESORT(1988年12月1日、大陸書房)VHS
- COOL PLAY(1990年4月21日、JVD)VHS
- セクシーダイナマイト(1991年4月、パワースポーツ)VHS、LD、DVD
- Sexy Spy(2006、奥村遊機)DVD *パチンコメーカーの販売促進用非売品
DVD
ゲーム
吹き替え
ディスコグラフィ
シングル
枚 |
発売日 |
タイトル |
規格品番 |
発売元
|
1st
|
1988年4月21日 |
Boys |
CWP-92 |
クラウンレコード
|
2nd
|
1988年12月5日 |
13日のルナ |
CWP-98
|
3rd
|
1989年4月12日 |
日曜はだめよ |
CWP-104
|
4th
|
1990年1月21日 |
B&S |
ZLS-31
|
5th
|
1990年6月5日 |
うさぎ |
CRDP-2 |
日本クラウン
|
6th
|
1990年11月5日 |
ゴージャス |
CRDP-7
|
7th
|
1991年10月21日 |
輝いてて… |
BVDR-68 |
BMGビクター
|
8th
|
1992年5月21日 |
愛が知りたい |
BVDR-103
|
9th
|
1993年1月8日 |
Le SOIR 〜永遠の別れ〜 |
BVDR-157
|
コラボレーション・シングル
アルバム
オリジナルアルバム
枚 |
発売日 |
タイトル |
規格品番 |
発売元
|
1st
|
1988年07月21日 |
彩 |
ZA-501 |
クラウンレコード
|
2nd
|
1988年12月16日 |
水の中の小さな太陽 |
ZL-120
|
3rd
|
1989年6月21日 |
灼熱伝説 |
SHD-1
|
4th
|
1990年1月21日 |
BODY&SOUL |
CRCP-173
|
5th
|
1990年11月21日 |
Japanese Dream |
CRCP-20009 |
日本クラウン
|
6th
|
1991年11月6日 |
私生活 |
BVCR-63 |
BMGビクター
|
7th
|
1995年7月1日 |
Femme Fatale |
COCA-12700 |
日本コロムビア
|
8th
|
2005年4月27日
|
decadence 杉本彩ヨーロピアン・セレクション |
VIZP30 |
ビクターエンタテインメント
|
ベストアルバム
枚 |
発売日 |
タイトル |
規格品番 |
発売元
|
1st
|
1991年9月6日 |
all of me |
CRCP-20023 |
日本クラウン
|
2nd
|
2004年9月17日 |
ゴールデン☆ベスト |
CRCP-20359
|
音楽映像ソフト
- BODY&SOUL(a・Live)live at okuma beach-okinawa(1990年4月21日、VHS:大陸書房、LD:日本クラウン)VHS、LD/ライブビデオ
- JAPANESE DREAM(1991年1月21日、VHS:大陸書房、LD:日本クラウン)VHS、LD/スタジオ・ライブビデオ
- all of me(1991年9月6日、VHS:大陸書房、LD:日本クラウン)VHS、LD/ベスト・ビデオクリップ&未発表イメージ集
- 私生活 le Parfume d'AYA(1991年12月4日、BMGビクター)VHS、LD/ミュージックビデオ
- 第3次反抗期(1993年1月21日、BMGジャパン)VHS、LD/ライブビデオ
- Voyage(1995年7月1日、日本コロムビア)VHS/ミュージックビデオ
書籍
写真集
- 海風にGood-Bye(1987年9月)
- フレッシュスコラ 10(1988年3月)
- BEAUTIFUL ENERGY 彩(1988年8月)
- EASY BLUE(1988年9月)
- Seductive(1989年5月)
- SEED(1989年12月)
- ENFIN(1993年4月)
- ポルノ(2001年2月)
- Tango Ecstasy(2002年8月24日)
- 月刊 杉本彩(2003年11月10日)
- 映画「花と蛇」生写真集(2004年2月)
- 裸の貴婦人 Femme sensuelle(2004年11月30日)
- 杉本彩DVD付写真集「妖舞裸身」(2006年3月)
著作
- AYA もうひとりの私(1998年11月)
- オーガズム・ライフ(2004年3月)
- 杉本的、美人図鑑。(2007年2月)
- 杉本彩の男を虜にする料理(2008年4月)
- リベラルライフ(2010年10月)
- ペットと向き合う(2015年)
- それでも命を買いますか? ~ペットビジネスの闇を支えるのは誰だ~(2016年)
小説
- インモラル(新潮文庫)
- 京をんな(新潮文庫)
- 官能小説家R(徳間文庫)
- いい男の愛し方
- 官能小説集『エロティックス』
脚注
注釈
- ^ 本人は、「この一人暮らしの生活が私のスタート地点」と位置づけている[2]。
- ^ 上記とは別に「杉本は『母親と母親の恋人が用意してくれた家に住むのは息苦しい』という理由から、生活費を稼ぐために16才の時に家出。高校は一年で中退し、京都でモデルを始めた」とも言われている。
- ^ アンデスティノの経営が悪化したため、経営再建のため杉本が招きいれていた人物だった。
- ^ 妹との対立が深刻化してきた頃、成功しているとある会社経営者の「親族を経営陣に入れるべきではない」との発言を知ったことも退任の決断の一因であったと同書にて明かしている。
- ^ 本人によると本作は渡辺裕之とのダブル主演で、不倫を題材にしたコメディものとのこと。後年の雑誌インタビューで、渡辺裕之について「とても優しくて真面目な方でした。渡辺さんからはこの共演を通じ、多くのことを勉強させていただきました」と回想している
- ^ 本人は、「ジャンルは違っても、私の中で“踊りのマインド”は同じなんです。踊ることで心が、魂が喜ぶのです。それを子供の頃からずっと感じています。ただ、成長と共に一番好きな踊りは盆踊りが10代でディスコになり、芸能界デビュー後に社交ダンスへと変わっていきました」とのこと[2]。
- ^ 数年前に水前寺のスケジュールがどうしても合わず、地元住民から「彩さんにステージをお願いしたい」と直々に指名を受け、出演することになった。本人は後に「地元住民の皆さんから“桜新町仲間”として思ってくださっていたことは嬉しかった」と語っている。ちなみにこのステージを見たやくからは、「桜新町に初めてラテン文化が来た」と感想を述べられたという[2]。
- ^ この子猫は生まれて間もない野良猫で、可哀想に思って撮影の合間にキャリーケースを買って保護した。病院で猫を診てもらい、数日間自宅で世話をして回復後に里親探しをして無事譲渡した[2]。
出典
関連項目
外部リンク
|
---|
1980年代 |
- 1981 クリス・ソロムコ
- 1982 ドリーン・ボイド
- 1983 キミー・サントス
- 1984 シャラ・ブルー
- 1985 松宮由季
- 1986 山口智子
- 1987 杉本彩
- 1988 菅原マリア
- 1989 宮沢千絵
|
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
関連項目 | |
---|
カテゴリ |