スイティエン公園 のハイ・バ・チュン像
ハノイのハイ・バ・チュン寺 (英語版 )
徴 姉妹 (ちょう しまい、ハイ・バ・チュン、ベトナム語 :Hai Bà Trưng / 𠄩婆徵 )は、1世紀 の後漢 交阯刺史部 交阯郡 (現在のベトナム北部 など)で起こった反乱[ 1] (ハイ・バ・チュンの反乱 )の首謀者。徴 側 (ちょう そく、チュン・チャク、ベトナム語 :Trưng Trắc / 徵側 、生年不詳 - 建武 19年(43年 )4月 )と徴 弐 (ちょう に、チュン・ニ、ベトナム語 :Trưng Nhị / 徵貳 、生年不詳 - 建武19年(43年)4月)の姉妹を指す。
生涯
前半生
徴側は交阯郡麊泠 県(現在のハノイ市 メリン県 )の有力な貉将(地域の軍事指導者)の娘[ 2] [ 3] として生まれ、朱䳒 県(現在のソンタイ )の有力者であった詩索 (ベトナム語版 ) の妻[ 2] [ 3] [ 4] [ 5] であった[ 6] 。徴弐の出生地は伝わっていないが、姉と同様であると考えられる。
南越国 滅亡後に前漢 の支配下に入った交阯郡では、それまで貉将および貉侯(地域の領主)が有していた税の徴収権が漢側へと移されていた[ 7] 。当時、交阯を支配していた後漢 に対して、現地の有力者の家系であった徴側[ 注 1] が取り纏める形で、徴税権を貉将・貉侯側に戻すよう通告した。
当時の交阯太守であった蘇定 (中国語版 ) の悪政もあって、建武 16年(40年 )3月 には交阯刺史部 内の合浦 ・九真 ・日南 [ 2] 各郡65県の貉将・貉侯がこれに賛同した[ 7] [ 注 2] 。妹の徴弐も加わって、徴側は自ら女王として「徴王」を称し[ 2] [ 3] [ 5] 麊泠 に本拠を構えて[ 4] 徴税を強行する姿勢を示した[ 7] 。
徴姉妹の乱
これに対して、徴姉妹による一連の行動を漢への「重大な反乱行為」と判断した光武帝 は、馬援 を伏波将軍に任じ反乱鎮圧を命じた[ 8] 。馬援は扶楽郷侯劉隆 を副将として[ 3] 、楼船将軍の段志ら兵20,000(正規兵8,000、現地兵12,000)[ 8] を率いて建武18年(42年 )4月 に交阯へ到着した。
漢軍は悪天候と疫病の流行によって行軍も進まず、苦戦を強いられたものの、徴氏側でも厭戦気分が広がったことから徴姉妹は決着を急がざるを得なくなり、漢軍に浪泊(現在のバクニン省 ティエンズー県 )で決戦を挑んだ[ 3] が、寄せ集めの軍であったために大敗を喫して数千が戦死し、10,000人以上が捕虜となった。徴姉妹は麊泠 から禁谿(現在のヴィンフック省 ヴィントゥオン県 )へ逃れた[ 3] ものの漢軍による追討は厳しく、残兵は逃散し、孤立した徴姉妹[ 2] は共に捕らえられた末に処刑され[ 9] 、翌建武19年(43年 )1月に徴姉妹の首は都の洛陽 へと送られた[ 8] 。
その後も馬援は都羊ら残党を追って九真郡居風県[ 4] (現在のゲアン省 )にまで進軍し[ 10] 、数千人の貉兵を殺害すると共に[ 10] 漢民族や親漢派の住民を交阯に屯田 させて、反乱が起きた土壌の根絶を図った[ 11] 。しかし、赤烏 11年(248年 )に起きた趙氏貞 の反乱など、中華王朝の支配に対する反乱は断続的に続くこととなった。
伝承・影響
ベトナム語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
なお、徴側の最期については「川に身を投げた」、「馬援に首を刎ねられた[ 2] 」、「雲の中に消えた」等の説があり、(事実はともかく)最初の説が一般的な徴姉妹の最期として伝えられている[ 8] 。
また、徴側の夫である詩索が交阯太守の蘇定に処刑された[ 5] ことにより徴姉妹が反乱に踏み切った[ 3] というのは後世の伝承であり、実際は反乱時に詩索が処刑されたと記された文献はない[ 12] 。
いずれにせよ、徴姉妹の反乱は3年に過ぎなかったが、その後も徴姉妹はベトナム史の民族的な英雄[ 9] として語り継がれ、彼女らを祀る寺院も数多く造られている。またベトナム各地の都市に「ハイ・バ・チュン通り(ベトナム語 : Đường Hai Bà Trưng )」や「チュン・ヴオン通り(ベトナム語 : Đường Trưng Vương )」がある。
脚注
注釈
出典
参考文献
関連項目
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