御津町 (愛知県)
御津町(みとちょう)は、かつて愛知県宝飯郡にあった町。2008年(平成20年)1月15日、宝飯郡音羽町とともに豊川市に編入合併された。旧御津町域の住所表示は「豊川市御津町」となっている。 地理三河湾に面している。温暖な気候と豊かな自然に育まれ、海から町の歴史が拓かれた。 町域は東西7.73km、南北7.53 km。北西から南東にかけて広がっており、その形は湾曲している。北西部は山林が広がり、音羽町との境界には宮路山が聳えている。 気候太平洋側気候に属し、比較的温暖な気候である。ただし冬場(12月〜3月頃)の最低気温に関しては、摂氏0度を下回るのが一般的である。
土地利用
都市計画行政区域の全てが都市計画区域内にあった。市街化区域は389haで、行政区域全体の20.8%。残り79.2%を市街化調整区域が占めていた。詳細は以下のとおり[3]。
地名『総国風土記』によると、孝元天皇が東国へ行幸した際に、乗っていた船を寄せたことから、当地を御津湊と名付けたという。「津」「湊」はいずれも港を意味し、これに尊称「御」が付いている。「御津町」の名は、これに由来する。 御津町内には、11の大字が存在した。 御津町内の住所表示は「宝飯郡御津町大字○○字△△1番地」のようになっていたが、豊川市との合併に伴い住所表示を変更した。このとき、「御津町」の名を残してほしいとの要望が寄せられたことから、「豊川市御津町○○△△1番地」のようにすることが決まった。ただし、「大字下佐脇新田」の表示は「新田」に、「大字金野字堹ノ下(ままのした)」の表示は「金野下」に改められた[4][5]。 隣接していた自治体歴史縄文・弥生時代御津町に隣接する豊橋市の瓜郷遺跡には多数の農耕具が出土しているが、御津町地域はこの瓜郷に居住していた人々の生活圏内にあったとみられる。町内では、長床遺跡をはじめ石堂野遺跡、河原田A遺跡などの遺跡群が確認されている。 長床(ながとこ)遺跡は1936年、御津南部尋常高等小学校(現・豊川市立御津南部小学校)の講堂建設工事の際に発見された。高坏を含む数々の土器が出土したが、それまで知られていた弥生土器とはいくつかの点で様式が異なっていた。具体的には、壺の胴部が算盤の玉のように上下のすぼまった形状をしており、波線と直線が交互に引かれていた。また、脚台のある土器には丹塗りが施されていた。蒲郡市在住の考古学研究家・久永春男は、長床遺跡で発掘されたこれらの土器と特徴を同じくする土器を「長床式土器」と称することを提唱した。 発見から約半世紀後の1987年、講堂の取り壊しと校庭拡張が行われたのを機会に、再び調査が実施された。 石堂野遺跡では1985年、愛知県立御津高等学校の建設工事に際して愛知県埋蔵文化物センターが調査を実施した結果、弥生時代後期の土器が出土した。河原田A遺跡は、県道国府前芝線の建設工事中に土器片などが発見されたことによって存在が明らかとなった。1965年11月に行われた愛知大学文学部史学研究室の調査では、石器(石鏃、石槌、石包丁など)、長床式土器の存在が報告された。また、萩原神社遺跡及び二本松遺跡には、土器片が散乱している。 広石の新宮山では1878年、道路工事中に銅鐸が出土した。この銅鐸は高さ46cm、底部長径24cmの流水文銅鐸で、1974年に愛知県の有形文化財に指定された。町内には、このほかに2つの銅鐸が出土したと記録されているが、いずれも実在が確認されていない[6]。 古墳時代町内の主な古墳は、穴観音古墳と船山古墳である。 穴観音古墳は御津高校の西方に位置する円墳で、横穴式石室に石造の観音像が安置されている[7]ことから「穴観音古墳」の名で呼ばれる[8]。直径は20m、高さは5mで、石室の全長は8m。 船山古墳は全長37mの前方後円墳で、北東に位置する後円部には盗掘の跡とみられる窪みがある。 この他、金野地区には横穴古墳群12基があったが、その姿を留めているのはわずかに7号墳のみである。 持統行幸『続日本紀』や『類聚国史』には、702年に持統天皇(この時には退位して上皇となっていた)が三河国を行幸したとの記述がある。 『万葉集』には、この行幸について詠んだ歌として、長忌寸奥磨(ながのいみきおきまろ)の歌「引馬野に にほふ榛原(はりはら) 入り乱り 衣にほはせ 旅のしるしに」や、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の歌「何処にか 船泊(ふねは)てすらむ 安礼の崎 漕ぎ廻(た)み行きし 棚無し小舟」がみえる。これらによると、持統天皇は船に乗って引馬野(ひくまの)、安礼の崎(あれのざき)に上陸したと読み取れる。 『十六夜日記』中にある「引馬の宿」について、賀茂真淵が浜松北方とする見解を示して以降、引馬野を遠江とする説が拡大した。対して、仙覚や荷田春満、斎藤茂吉らは三河説を唱えたが、現在では後者が有力視されており、音羽川の河口に近い御津町御馬の辺りであるとみられている[9][10]。また、昭和末期に造成された埋立地三河臨海緑地の一部には、「安礼の崎」の地名が付けられた。 中世平氏を打倒して政権を掌握した源頼朝は、安達藤九郎党盛長を三河国の守護とした。盛長は、西御馬八幡社を創建したと伝えられている。 南北朝時代には佐脇一帯を治める佐脇氏が興った。『太平記』の中には佐脇姓の人物が何人か見出される。 足利尊氏の命で波多野氏が入り、現在の豊沢に大沢城が築かれる。 戦国時代には、御津山に大恩寺が建立された。同寺は1479年に松平親忠の開基、了暁慶善の開山により、新宮山に開山した大運寺を起源とし、代々菩提寺としてきた牛久保城主・三河牧野氏の援助により、念仏堂が建立された。この念仏堂はのちに国の重要文化財に指定されたが、1994年に火災で焼失した。 佐脇は作手地方を本拠とする奥平氏が領有したが、東方から進出した今川氏の支配に服した。桶狭間の戦い以後は、没落した今川氏に代わって松平元康(徳川家康)が進出し、長沢松平家が町域の大半を領有した。家康が関東地方に移封されると、町域は池田輝政(照政)の所領となった。 下佐脇には佐脇城跡がある。『三河国二葉松』には、佐脇右京亮明秀の後裔・佐脇刀禰太夫や、奥平兵庫・三浦左馬助義就がここを居城としたとある。 大沢城(豊沢)の波多野時政(法名全慶)は長山一色城(豊川市牛久保町)の一色時家の被官であったが応仁の乱の西軍に加わった時家を倒した。しかし、後に時政は牧野成時(法名、古白)に討たれる。 町域には他に茂松城、御馬城、竹本城などがあり、地域の有力豪族が抗争を繰り広げたものとみられる。 近世江戸時代に至ると灰野・金割・茂松などは天領、上佐脇・下佐脇は新城藩領、広石の一部は大恩寺領というように再編された。その後も各村の勢力関係は幾度も変遷した。 御馬湊は三河五箇湊の1つに数えられ、年貢米が江戸へ送られた。地域の廻船問屋渡辺家の第8代当主・渡辺富秋は郷土史研究に取り組み、また和算の分野にも関心を示した。18世紀末には俳句結社・御馬湊社中が興った。 明治・大正期1868年になると、町域の大半が三河県に属した。さらに静岡藩や静岡県を経て、1871年に町域は全て額田県下に入った。翌1872年5月、額田県は愛知県に編入された。大区小区制に基づき、宝飯郡は県内9大区のうち第6大区に分類され、町域は第5小区とされた。 1889年10月1日、西方村、泙野村、広石村、豊沢村、金野村の5村が合併し、御津村が成立した。同日には、佐脇村及び御馬村が成立した。1906年、この3村が合併し、新たに御津村が成立した。 この頃、当地域では養蚕業が大いに伸長していた。1919年の繭生産額は477,675円と、米生産額(166,005円)の約3倍を記録し、主要農産物中の第1位を占めた。1920年の御津村事務報告は、「本村ノ農業ハ、十年前ニハ米麦作ニ最モ重キヲ置キ、養蚕業ヲ副業トセシモ、今ヤ養蚕ハ主タル業トナリ、畑ハ皆桑園トナル」[11]と記している。しかし繭は価格変動が激しく、1920年の生産額は255,040円と、前年実績を約4割下回った。以後数年間の生産額は概ね15万円〜25万円の間で推移し、なおも主要農産物としての地位を維持したが、昭和期に入ると衰退した。 明治末期に16を数えた製糸工場は激減し、第一次世界大戦後には不況の影響もあって4工場が残るのみとなった。対して海苔の生産は拡大した。 交通・輸送網としては東海道本線が敷設され、御津村内には御油駅(現・愛知御津駅)が設けられた。同駅に近い海岸には西方港が建設され、漁船の避難港として、また木材や石炭、肥料の輸入港として機能した。また、道路法に基づき、県道三谷豊橋線や県道国府三谷線が認定された。 昭和期1929年12月19日、村議会で村長が提出した町制施行の議案が可決され、次のような申請書が愛知県知事宛てに送付された。
翌11日、御津村は町制を施行し、御津町が成立した。 当初は佐脇村の隔離病舎を移築して、これを役場庁舎としていたが、老朽化が進んだことから、1935年に庁舎の新築を決定した。新庁舎は翌1936年3月25日に竣功し、27日には早くも町議会が開催された。旧庁舎は御津町信用販売購買利用組合が借り受けたが、1945年8月、爆撃によって崩壊した。 第二次世界大戦中の1943年には、豊川海軍工廠の防衛を目的として御津山(大恩寺山)に砲台が建設され、横須賀海軍警備隊大恩寺山砲台第66分隊が配備された。 1945年8月7日、工廠を中心とした一帯を米軍が空襲した。御津町も爆撃を受け、大恩寺山砲台は飛来する米軍機に砲撃を行い、うち1機を撃墜したが、他の爆撃機には命中しなかったという。工廠は、爆弾の雨に曝されて壊滅した。 戦後は町営住宅の建設を進めて住宅事情の改善に努めるとともに、三河湾に面する海浜を埋め立てて佐脇浜や御幸浜を造成し、企業誘致を推進した。佐脇浜にはエクシムや愛知ニコンをはじめとする製造業者が集積し、また御幸浜にはマリーナが形成された。 1996年からは「みとまつり」を年1回開催し、地場産業の掘り起こしや賑わいの創出を図った。 町制廃止宝飯郡を構成する4町(御津町、一宮町、音羽町、小坂井町)と豊川市は、2001年に合併協議会を設立して、対等合併の可能性について検討作業を始めた。それから2年余りのちの2004年2月、合併の是非を問う住民意識調査が実施された。3市町(豊川市・音羽町・小坂井町)で合併に賛成する票が過半数を占め、2町(御津町・一宮町)で反対票が過半数を占めた。この結果を受け、1市4町の合併協議会は解散した[14]。 その後、一宮町は独自に豊川市との合併協議を進め、2006年2月に正式に合併した。同年3月、音羽町が豊川市に合併協議を申し入れ、6月に合併協議会を発足させた。御津町も再び合併に向けて動き、10月末に合併協議を豊川市に申し入れた。翌2007年6月、豊川市・音羽町・御津町の3市町は合併協議会を設置、8月に合併協定が調印された。 2008年1月15日、町制施行から78年弱で御津町は廃止され、豊川市に編入された。 年表御津町発足前
御津町発足後
人口2006年の高齢者人口(65歳以上)は3,033人で、人口全体の22.2%を占める。2002年以降の統計結果によると、人数、割合ともに増加傾向にあった[24]。 人口推移各年10月1日現在[25]
年齢構成2000年10月1日現在[26] 外国人
内訳(単位:人)
行政町長御津町史上最後の町長となった2006年の町長選挙では、現職の深谷泰範が前町議の鈴木尹成を破り、4選を果たした。当日有権者は10,851人(男5,251人、女5,600人)であった。各候補者の得票数などは以下のとおり[28] [29]。
投票総数6,009票、うち有効投票数5,865票 町長:深谷泰範(2006年7月10日 - 2008年1月14日) 行政機構
財政2006年度決算によると、一般会計の歳入総額は約44億7,348万円、歳出総額は約42億8,286万円であった。 歳入総額は前年度と比べて1億5,229万円(3.3%)減少した。三位一体の改革の影響により、町税が増加した代わりに地方交付税が大幅に減額された。このほか、主な増加要因として地方譲与税の増額(5,248万円増)、減少要因として寄附金の大幅な減少(1億9,135万円減)などが挙げられる。 歳入の内訳は金額順に、町税22億5,343万円(50.4%)、町債5億3,420万円(12.0%)、地方特例交付金、利子割交付金、譲与税、取得税等4億8,853万円(10.9%)、地方交付税3億4,990万円(7.8%)など。歳出の内訳は、民生費6億8,944万円(27.8%)、教育費6億5,511万円(15.3%)、総務費5億8,484万円(13.7%)、土木費5億6,913万円(13.3%)など。 特別会計の決算をみると、国民健康保険特別会計が歳入12億9,663万円、歳出12億655万円。また、公共下水道特別会計が歳入12億41万円、歳出11億8,966万円などとなっていた[30]。 議会2007年4月22日実施の統一地方選挙(御津町としては最後の町議選)では、議員定数12に対し、13人が立候補した[31]。 広域行政警察御津町は豊川警察署の管轄区域とされていた。町内には交番が1つ設置されていた。
(所在地の住所表示は豊川市との合併後のもの) 消防消防は市町村の本来業務であるが、御津町は 豊川市消防本部へ消防業務を委託していた。町内には、豊川市消防署の御津出張所が設置されていた。 御津町は3つの分団からなる消防団を置いていた。豊川市との合併後、御津町消防団は豊川市消防団第7方面隊に再編され、分団の名称は御津第1分団、御津第2分団、御津第3分団とされた[32]。 2005年度の御津町消防団の団員数は、108人[33]。 その他
国政御津町として最後の衆院選となった2005年9月11日の衆院選における、同区の選出議員は鈴木克昌(民主党)であった。 経済2005年の御津町の就業者総数は7,602人。うち第一次産業就業者数が1,039人で全体の13.67%、以下第二次産業2,807人(36.92%)、第三次産業3,731人(49.08%)となっており、第三次産業就業者数が最も多かった[35]。 全就業者数に占める第一次産業就業者数の割合は、愛知県では全国平均(5.12%)を5割近く下回っている(2.76%)が、御津町に限っていえば突出して高かったといえる。 第一次産業日本有数の生産量を誇る御津町のシクラメンは、1970年(昭和45年)に栽培が始まった。現在では15戸の農家が5.8haを栽培し、約50万鉢を全国へ出荷している。 このほかに1974年(昭和49年)に栽培が始まったイチジクも特産品で、高級料亭などに出荷されている。ひまわり農業協同組合のいちじく部会は1997年、第27回日本農業賞(集団組織の部)を受賞した[36]。 農林業センサスによると、農業従事者数は1977年に2,974人であったが、2000年には2,306人に減った。林業従事者は、1995年調査の2名を最後に姿を消した。 2005年の耕地面積は364haであった。内訳は以下のとおり。
2005年の農業粗生産額は約 35億6千万円、うち耕種が33億5千万円、畜産が2億1千万円であった。主な品目の生産額は以下のとおり[37]。 第二次産業2001年10月1日現在の事業所数は、建設業で78、製造業で147。従業者数は、建設業で483人、製造業で2,434人。 2005年の製造品出荷額等は、569億4,461万円。うち製造品出荷額が511億7,913万円、加工賃収入額が57億5,910万円。 第三次産業2001年10月1日現在の事業所数は、運輸・通信業で18、卸売業・小売業・飲食店で208、サービス業で185。従業者数は、運輸・通信業で245人、卸売・小売業・飲食店で980人、サービス業で1,144人などとなっている。 2004年の年間商品販売額は、卸売業で56億1,596万円、小売業で90億8,160万円であった[38]。 主な事業所製造業
金融機関
その他
生活保健・衛生御津町廃止時点で、町内には一般診療所が9箇所、歯科診療所が4箇所、薬局が5箇所存在した[41]。 御津町を含む宝飯郡の各町と豊川市は1963年、一部事務組合「豊川宝飯衛生組合」を共同で設立して、屎尿の広域的処理を開始した。 2001年から2005年までの5年間をみると、ごみ収集量は、3,248tから3,853tに増加した。逆に屎尿の収集量は1,854klから1,549klに減少している[42]。 水道1996年度からの10年間における上水道普及率などの推移は、以下のとおり[43]。
公営住宅御津町内の公営住宅は、以下のとおり[3]。
文化財指定文化財御津町内の指定文化財は、以下のとおり[44](「指定者」「所有者」欄の表記は、豊川市との合併前のもの)。
登録有形文化財
教育御津町廃止時点で、町内には高等学校1校、中学校1校、小学校2校、保育園5園が存在した。保育園のうち、みどり保育園は2005年度から休園した。 2001年(平成13年)時点の中学校の生徒総数は497人だったが、2006年(平成18年)には378人に減少している[46]。 2006年(平成18年)3月31日、構造改革特別区域推進本部は御津町全域を構造改革特別区域(「ハートフルタウン みと」英語教育特区)として認定した。これに基づき、御津町は小学校からの英語教育、外国人英語講師の起用、小中学生の海外派遣などを推進した[47]。 高等学校中学校小学校保育園
社会教育施設
その他
交通JR東海道本線と国道23号が町南部を東西に貫通し、町域のやや外側には国道1号や名鉄名古屋本線が、さらに離れて東名高速道路が通る。 鉄道駅は愛知御津駅のみが存在していたが、隣接していた豊川市の国府駅も町民にとって重要な交通結節点であった。この国府駅と国道23号を南北に結ぶ都市計画道路(国府赤根線)の整備が1981年から進められ、豊川市との合併後も継続された。また、国道23号と国道1号の間には、両路線の混雑緩和を目的として名豊道路(豊橋バイパス)の整備工事が進行中である。 2005年(平成17年)3月31日時点で、町道の総数は869本、実延長合計は202,498m、舗装率は82.9%、改良率は57.1%であった[49]。 鉄道道路
路線バス名所・旧跡・観光スポット
祭事・催事・娯楽施設
出身有名人
その他
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンクData ja/%E5%BE%A1%E6%B4%A5%E7%94%BA %28%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%29 Tidak ditemukan |