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この項目では、五代十国時代の907年から923年にかけて中原を支配した朱氏の政権について説明しています。南北朝時代の554年から587年にかけて江陵一帯に拠った蕭氏の政権については「後梁 (南朝)」をご覧ください。 |
- 後梁
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後梁(917年)
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後梁(こうりょう)は、五代の最初の王朝。唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首領朱全忠が、907年に唐の哀帝より禅譲を受けて建国した。都は開封[1]。中国では、南北朝時代の後梁(西梁)と区別して朱梁とも呼ぶ。
歴史
朱全忠は黄巣の乱において反乱軍に属していた。しかし反乱軍である黄巣軍は根拠地を持たず全国を流浪しながら拡大してきた軍勢だったため、長安一帯を制圧し、斉の建国を宣言するとたちまち兵士たちの統制がとれなくなり略奪殺戮を重ねて大衆の支持をなくした。
また組織の上層部でも権力抗争が発生した。この黄巣軍の前途を悲観して、黄巣軍を見限った朱全忠は唐に寝返り、黄巣軍と戦いこれを壊滅させた。
黄巣の乱以後、唐はかつての帝国の勢いを失い、地方政権に転落した。朱全忠は物流の中心地である開封の「宣武節度使」となり、黄巣軍の残党や各地の軍閥と争いながら唐の支配領域を広げていった。その軍は軍規が厳正で精強であり、農民からは無理な収奪は行わず荒地を開拓し、また唐朝で不遇だった下級士人を登用した。
元来、唐朝では宰相派と宦官たちが争いを重ねていたが、朱全忠は宰相側について宦官たちを一掃した。
その後、朱全忠は宰相たち高級官僚も粛清し、唐の皇帝の昭宗を完全に傀儡にした。
また朱全忠は、経済的には不便な土地にあった「長安」から「洛陽」へ唐の首都を遷都して、同時に住民も移動させ建物は解体して運び、完全に破壊した。
901年、朱全忠は「梁王」に封じられ、まもなく唐の皇帝の昭宗は殺された。
907年、朱全忠は次の哀帝より禅譲をされ、自らが皇帝になり、後梁を建国した。それからまもなくして、唐の元皇帝や一族たちは毒殺された。(唐の滅亡)
後梁は、汴州を東都、洛陽を西都とした。その後、汴州(汴京)は「開封」に改称し、開封府東都として国の首都とした。
後梁は、唐の時代において弊害だった宦官と門閥貴族を一掃し、首都の移転、農民生活の安定につとめて下級士人に支えられる合理的な革新政権だった。歴史のある唐帝国を滅ぼし、700年続いた貴族制を終焉させた後梁では、しばらくは実力を持った武人たちが横行する時代になった。
朱全忠が唐を滅ぼしたとき、晋王の李克用らは、唐末の混乱に乗じて各地方で勝手に自立していき、軍閥(節度使)を作っていった。
各地方の軍閥(節度使)は、後梁の建国を認めず、朱全忠に反対して各地で自立したため、ここに「五代十国の分裂時代」が到来した。
後梁は人口が稠密で文化が進んだ地域を支配し、首都「開封」は中国経済の中心地だった。また「開封」は黄河と大運河の結節点に当たるため、 物流の拠点でもあった。
しかし後梁の版図は元来の唐の4分の一にすぎなかった。
建国後の後梁軍は李克用の子の李存勗の「晋国」(後の後唐)と戦争をして敗北し、その後は勢いを失い、押され気味となった。また、呉との戦いでも敗北した。
また後梁の皇帝の朱全忠は、病気もあって性格が苛烈となり、部下を罰することが多くなった。将来を期待していた長男の朱友裕にも先立たれるなど後継者にも恵まれなかった。
そのため912年、朱全忠は病床より養子の博王朱友文を後嗣に立てようとしたが、実子の郢王朱友珪によって殺された。
後梁の次の皇帝になった朱友珪は即位の経緯もあり人望を周囲からあまり得られず、贅沢三昧の日々を送っていたが、弟の均王朱友貞に殺されて帝位を奪われた。
こうした国内政治の内部の乱れは国の弱体化・不安定化を招き、やがて、後梁は晋国に侵食されるようになった。
その後、朱友貞は李存勗の「晋国」と戦争をして敗れて殺された。
こうして後梁の皇帝はみな非業の最期を遂げ、後梁は3代16年の短命をもってあっけなく滅んだ。
その後の五代の王朝も、この後梁を正当な王朝と認めず、後世の評判も良くなかった。
現代の中国でも、朱全忠は農民反乱軍の裏切者とみなされ、高い評価は与えられていない。
後梁の皇帝
系図
後梁の元号
脚注
- ^ a b 愛宕 1997, p. 9では「汴州を東都開封府と改称して都城とした」とする。
- ^ a b 廟号も諡号もなし
- ^ a b 愛宕 1997, pp. 11–13では実子朱友珪について三男とする記載はなく、912年6月の太祖朱全忠を殺害し即位したとし、その後913年2月に朱友貞に殺害されその朱友貞を2代目末帝としている。
- ^ 913年、朱友珪により改元。2月、朱友貞が乾化を復活。
関連項目
参考文献
- 愛宕元 著「第1章五代 1.五代王朝の興亡」、松丸道雄; 池田温; 斯波義信 ほか 編『中国史3:五代 - 元』山川出版社〈世界歴史体系〉、1997年、9-14頁。ISBN 4-634-46170-6。
- 竺沙雅章『征服王朝の時代』講談社、1977年。