小向(こむかい)は、神奈川県川崎市幸区の大字[4]。旧橘樹郡川崎領小向村。住居表示未実施区域[5]。この大字独自の郵便番号は存在しない。面積は47.5 ha[1]。人口はごくわずかである[6]
。
なお、「小向」を冠する町名(小向東芝町、小向町、小向西町、小向仲野町)が小向の近隣に存在するが、これらは小向から分立したものである(後述)。
地理
全域が多摩川の河川敷であり[7]、川崎競馬場小向厩舎の練習用コースや、アール・エフ・ラジオ日本川崎幸放送局の送信用アンテナなどが所在している。
小向は東端で多摩川を挟んで東京都大田区の多摩川・西六郷と、西端では戸手・小向町・小向仲野町・古市場に接している。
歴史
中世
『新編武蔵風土記稿』には、当地を開墾した人物の名が記録されているが、彼らは小田原北条氏(後北条氏)支配下にあった武士とも多くが重複することから、同氏の旧臣が開拓した土地であると考えられる[8]。北条氏が滅んだ後、徳川家康の江戸入府にあたっては、小向から多摩川を渡ったことが『天正日記』に残されている[10]。
近世
江戸時代の当地は当初天領であったが、のちに増上寺に寄進されている[11]。その結果、増上寺の年貢や賦役を負担する代わりに、助郷や国役金といった幕府からの負担は、幕末の元治期に至るまで免除されていた[12]。
村高は、正保期の『武蔵田園簿』で173石4斗あまり(別に見取場もあり)、『元禄郷帳』以降幕末の『旧高旧領取調帳』までは175石2斗あまりと、一定で推移した[11]。多摩川が頻繁に氾濫するという事情もあって[13] 農業生産力は決して高くなく[10]、多少の浸水であれば耐えられる[13]梅の栽培が江戸初期の寛文ごろから行われ[14]、一時は村全体の面積の6~7割を占めるまでになった[10]。また、多摩川からの砂利の採取も行われていたが、もとは江戸の町人が採掘権をもっており、1807年(文化4年)には採掘権を村側に取り戻す願いを、周囲の村と共同して起こしている[10]。
『新編武蔵風土記稿』では家数68軒。
明治以降
1871年(明治4年)の洪水で梅林は大きな被害を受け、面積は20町歩から7町歩へと減少してしまった[4]。一方、それまで栽培用であったこの梅林は、1880年(明治13年)、成島柳北が朝野新聞に「小向村探梅の記」を掲載したことで、観光地としても脚光を浴びることとなり、1884年(明治17年)には明治天皇の行幸が行われるまでになった[15]。1889年(明治22年)に町村制が施行された際、小向村など8村が合併した新村の名称は、この行幸にちなんで御幸村となった[16]。大正から昭和にかけて梅林は衰退し、御幸公園に移植された梅だけがその名残りをとどめている[16]。
その一方、1888年(明治21年)には堤外に煉瓦工場が設置されたり[16]、1937年(昭和12年)には東京無線(現・東芝)が当地(現在の小向東芝町)に工場を設置するなど[17]、工業地として活用する動きも見られた。
戦後には耕地整理・区画整理・住居表示の施行などにより小向東芝町、小向町、小向西町、小向仲野町が分立した結果、「小向」としては河川敷だけが残された[7]。河川敷の広いスペースを生かして、川崎競馬場の練習用コースやアール・エフ・ラジオ日本の送信所が設置されている[18]。
地名の由来
『新編武蔵風土記稿』には北向から転じた、あるいは北向の草書体を誤読したのではないかとあるが[19]、最初から「小向」であったとする見方もある[20]。多摩川に張り出した地形が由来であるとも考えられるが、正確なところは不明である[20]。
沿革
交通
道路
渡船
当地から多摩川を渡る交通路は現存しないが、明治から大正にかけては対岸への渡船が運航されていた[16]。
施設
脚注
参考文献