安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年〈明治31年〉2月13日 - 1983年〈昭和58年〉12月13日[1])は、日本の易学者[注釈 1]、哲学者、思想家。私塾「金鶏学院」の設立。右翼政治団体「国維会」や学術団体「師友協会」の創立など、日本の伝統的な哲学・思想の「日本主義」の立場から保守派の長老として戦前から戦後に亘って活躍した。吉田茂(元内閣総理大臣)などの大物政治家とも深い交流があった。
1898年(明治31年)に現在の大阪府大阪市中央区長堀(旧順慶町)において、素封家の父・堀田喜と母・悦子の四男として誕生。堀田家は尾張の出身で紀氏の流れである[2]。実兄に高野山金剛峯寺第403世座主の堀田真快がいる。
1904年(明治37年)に大阪市芝尋常小学校入学[注釈 2]。四書のうち『大学』から素読を始める。1910年(明治43年)に孔舎衙小学校を卒業。
旧制四條畷中学校入学。1916年(大正5年)に卒業するまでの5年間(脚気にて休学期間あり)、歩きながら書を読んで電柱にぶつかったり、牛に突き当たったりしたという伝説が生まれる。中学校では剣道部に所属。また、春日神社の神官の浅見晏斎に見出され、漢詩に親しみ、更に柳生藩大参事であった陽明学者の岡村閑翁(藤川冬斎の次男[3])より感化を受ける。
四條畷中学卒業後、高知県貫属士族で東京在住の安岡盛治の婿養子となる。盛治は、戊辰戦争の際、近藤勇を捕縛し斬首した功名で知られる土佐藩士安岡良亮の養孫(長男・安岡雄吉の娘婿)にあたる。
第一高等学校第一部丙類(独法科)に首席で入学し、卒業[4][5][注釈 3]。1919年(大正8年)に東京帝国大学法学部(政治学科)に入学し、天皇主権学説(君権学派)の憲法学者の上杉慎吉に師事した[6][7]。1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部(政治学科)を卒業。東大卒業記念として執筆し、出版された『王陽明研究』が反響を呼ぶ。
文部省に入省するも半年で辞す。皇居内に設立されていた社会教育研究所[注釈 4]に1923年(大正12年)に同所主事・小尾晴敏の懇請により出講。関東大震災ののち同研究所の組織再編に際し、学監兼教授となり、教育部長を兼任する。
同年、東洋思想研究所を設立、当時の大正デモクラシーに対して伝統的な「日本主義」を主張した。また、拓殖大学東洋思想講座講師となる[8]。傍ら『日本精神の研究』『天子論及官吏論』などの著作を発表し、一部華族や軍人などに心酔者を出した。1924年(大正13年)に宮内大臣の牧野伸顕と対談した[注釈 5]。
1927年(昭和2年)に酒井忠正の援助により私塾の「金鶏学院」を設立[9]し、1931年(昭和6年)には三井や住友などの財閥の出資により埼玉県に「日本農士学校」を創設し、福岡県でも「福岡農士学校」が設立され、教化運動に乗り出した。
私塾「金鶏学院」は軍部や官財界に支持者を広げて行き、1932年(昭和7年)には「日本主義に基づいた国政改革を目指す」として、酒井忠正や後藤文夫、近衛文麿らとともに右翼団体「国維会」を設立し、新官僚の本山となった。
同団体から、斎藤実内閣や岡田啓介内閣に、後藤文夫や吉田茂(後の首相とは別人で同姓同名の厚相・軍需相)、廣田弘毅(元首相)ら会員が入閣したことで、世間の注目も集まったが、一方で政界の黒幕的な見方も強まったため、2年後には解散に追い込まれる。その間1933年(昭和8年)2月1日、国維会機関誌『国維』上に「篤農協会」の結成を掲載する。理事長は酒井忠正[10]。
私塾「金鶏学院」などを通じた教化活動は続けられ、「二・二六事件の首謀者西田税らに影響を与えた一人」とも言われる。北一輝や大川周明の右翼団体「猶存社」の会員でもあった。八代六郎(日本海軍の軍人、政治家)山本五十六(日本海軍元帥)、蔣介石(元中華民国(のちに台湾)総統、中国国民党主席)などと親交があり、第二次世界大戦中には1944年(昭和19年)より大東亜省顧問として外交政策などに関わった。
1945年(昭和20年)8月に内閣書記官長の迫水久常の起草した終戦の詔勅(玉音放送)を刪修(さんしゅう)する[注釈 6][注釈 7][11]。
終戦後の1946年(昭和21年)にかつて安岡が創設した私塾「金鶏学院」や日本農士学校等の各団体や学校は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により解散を命じられ財産は没収、安岡自身も戦争中に大東亜省の公職に就いていたことを理由に公職追放される。
1949年(昭和24年)に「師友会」(後の全国師友協会[注釈 8])結成[12]。機関紙『師友』(後に『師と友』と改称)の発行による次代の指導者の育成や、全国各地を巡っての講演、更にはラジオによる講話などを通じた東洋古典思想の普及活動を行った。1950年(昭和25年)10月の公職追放令第一次解除に該当し、公職追放を解除される[12]。
1951年(昭和26年)に吉田茂(内閣総理大臣兼外務大臣 (日本))と対談[13]。政財界とのパイプは保ち続け、自民党の政治家のアドバイザーとして主に東洋宰相学、帝王学を説き、彼らの「精神的な指導者」や「陰の御意見番」や「総理大臣の指南役」の位置にあった。1954年(昭和29年)6月1日を期して「師友会」を「全国師友協会」と改め、ここでの活動を中心に陽明学を基礎とした東洋思想の普及に努める。1958年(昭和33年)には岸信介、安倍源基、木村篤太郎らとともに「新日本協議会」を結成、旧日米安保条約改定運動や憲法改正運動などに関わった。
東洋古典の研究と人材育成に尽力する一方で、「保守派の長老」としても政財官界に影響力を持ち続けた。「全国師友協会」は遺言もあって解散したが、「関西師友協会」などの各地域の支部がそれぞれ独立した団体として活動を続け、安岡の思想を継承している。
1975年(昭和50年)に先妻が死去。二男二女があった。
1983年(昭和58年)に占い師の細木数子との再婚騒動があったが、安岡の死後に安岡の親族から婚姻の無効が調停される[注釈 10]。
1983年(昭和58年)12月13日に逝去。享年85歳。葬儀は1984年(昭和59年)1月25日に青山葬儀所で、葬儀委員長に岸信介(元・首相)、葬儀副委員長に稲山嘉寛・大槻文平・田中秀雄。葬儀委員に新井正明・江戸英雄・平岩外四によって執行。安岡の葬儀には、日本の政界からは中曽根康弘(当時、首相)を始め、田中角栄(元首相)・福田赳夫(元首相)・鈴木善幸(元首相)などの歴代首相が参列し、海外からは中華民国(台湾)の馬樹礼(後の駐日台湾代表)や韓国の朴泰俊などの外国人高官が参列した。会葬者は2千有余であった。葬儀の受付を弟子の一人だった陰陽師・風水師の富士谷紹憲が担当した。墓所は染井霊園。
江藤淳の如き、ハーバード大学で突然朱子学の本をよみ、それから狐に憑かれた如く朱子学朱子学とさわぎ廻つてゐる醜態を見るにつけ、どうせ朱子学は江藤のやうな書斎派の哲学に適当であらうと見切りをつけ、(中略) 左翼学者でも、丸山真男の如き、自ら荻生徂徠を気取つて、徂徠学ばかり祖述し、近世日本の政治思想の中でも、陽明学は半頁のcommentaryで片附けてゐるかの如きは、もつとも「非科学的」態度と存じます。返つて大衆作家の司馬遼太郎などにまじめな研究態度が見え、心強く思つてをります。 — 三島由紀夫「安岡正篤宛ての書簡」(昭和43年5月26日付)[23]
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