天野 浩一
香川現役時代(2007年4月28日)
基本情報 国籍
日本 出身地
香川県 高松市 生年月日
(1979-04-12 ) 1979年 4月12日 (45歳) 身長 体重
177 cm 72 kg 選手情報 投球・打席
右投右打 ポジション
投手 プロ入り
2001年 ドラフト10巡目 初出場
2002年8月7日 最終出場
2005年9月10日 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
福井ミラクルエレファンツ (2008 - 2009)
香川オリーブガイナーズ (2010 - 2011, 2018 - 2020)
天野 浩一 (あまの こういち、1979年 4月12日 - )は、香川県 高松市 出身の元プロ野球選手 (投手 )、野球指導者。
経歴
プロ入り前
高松東高 では元々は捕手 か一塁手 を務めていたが、地肩の強さを買われ2年夏に捕手から投手に転向。高校時代は3年の夏の県大会 ベスト16が最高成績[ 1] 。その後四国学院大学 に進み、四国六大学リーグ 時代には1年の春からエースを務め、リーグ優勝5回をはじめ、最優秀新人賞・最多勝 3回・最優秀防御率 4回を受賞、リーグ通算30勝7敗[ 2] 。同校初出場となった2年の大学選手権 では山井大介 (奈良産大 )と投げ合い完投も惜敗。4年の春、右足首に打球を受けて骨折し、秋の段階でも完治しておらず足にボルトを入れたままだった[ 1] 。
四国六大学リーグのレベルが低く見られていたことからほとんど注目されることはなかったが、広島東洋カープ の中国・四国地区担当スカウトである白武佳久 からはストレートのキレの良さやマウンド度胸などから「とにかく面白い素材の投手」と評され、前述の骨折後も「怪我さえ治れば必ず一軍で戦力になる」と白武からの評価は変わらなかった。結果、四国六大学リーグ初のプロ野球選手として、2001年度ドラフト 10巡目で広島に入団。広島が9人以上の新人選手を獲得するのは1989年以来13年ぶりで、ドラフト外入団が廃止されてからは初めてのことだった[ 1] 。
プロ入り後
2002年 は、ルーキーながら中継ぎで13試合に登板し、防御率1.20の好成績を残す。
2003年 は、防御率は3.00と昨年より落とすものの、自己最多の49試合に登板。5月18日の中日ドラゴンズ 戦(ナゴヤドーム )でプロ初勝利を挙げた[ 3] 。
2004年 は、45試合に登板するも、防御率は5.36と大きく落とした。
2005年 は、14試合に登板し、防御率9.98であった。
監督が交代した2006年 は一度も1軍に上がることができず、10月1日に戦力外通告 を受ける。 その後、四国アイランドリーグ で野球を続ける事が決まり、広島の大先輩でOBの西田真二 監督率いる地元・香川オリーブガイナーズ に入団。
アイランドリーグ加入初年の2007年 は、前期は主に先発、後期はリリーフを中心に起用され、41試合に登板。7勝6敗13セーブの成績で最多セーブのタイトルを獲得し、チームの前後期連覇に貢献した。オフに、11月17日と11月27日に行われた12球団合同トライアウト に参加するも獲得する球団は現れなかった。
2008年 、ベースボール・チャレンジ・リーグ の福井ミラクルエレファンツ の選手兼任コーチに就任。主にクローザーとして登板、当時は延長戦がなかったことから同点の場面でも登場することが多く、リーグ2位の9セーブを挙げ活躍した。シーズン終了後、選手としては引退した。
引退後
2009年 シーズンより、福井ミラクルエレファンツ の監督に就任したが、前後期共に最下位に終わり責任を取って退任した。
2010年 、古巣でもある地元の香川オリーブガイナーズの投手コーチに就任。福井の監督辞任後、他の独立リーグ チームからも指導者として誘われていたが、監督の西田真二への恩返しの意味も込めて引き受けたと語っている[ 4] 。
2011年 6月29日、成績不振により香川の投手コーチを辞任した[ 5] 。その後、2011年度は、ガイナーズアカデミー(香川オリーブガイナーズによる少年向け野球学校)の投手コーチ兼マネージメントを務め、2012年度はガイナーズアカデミー監督に就任した。2013年度は休止状態になったガイナーズアカデミーを個人で引き継ぎ、「AKGA天野野球塾」として活動したが2014年3月で活動を終了[ 6] 。
それ以降は香川県にある別の少年野球学校(香川ベースボールアカデミー)の監督を務めていた[ 7] 。
2018年 3月7日 、7年ぶりに香川の投手コーチに復帰することが発表された[ 8] 。3シーズン務め、2020年 12月21日に同年シーズンの契約満了を持って退団することが発表された[ 9] 。
選手としての特徴・人物
現役時代は、中継ぎの中心投手として活躍した。持ち球にナックル 、パーム を持つ。サークルチェンジ の変形型の変化球、カープチェンジを開発するなど研究熱心である。
2007年 に、FM81.5 など四国4局のバトルインディーズと言う企画で、『CATCH THE DREAM』という曲でインディーズ デビューしている。本人は、「NPB復帰という夢をこの曲にこめており、自分だけでなくスポーツをするすべての人たちに夢に与えられる曲になるよう歌った」と、バトルインディーズ内で語っていたが、決勝進出は惜しくも逃してしまった。
背番号48について
天野は背番号「48 」に並ならぬこだわりを持つ。四国学院大学 在学中の2000年、同校新入生で天野と同じ4月12日(1981年)生まれの東条弘典とすぐに仲良くなるも、同年5月29日に東条は交通事故により他界。亡き東条の背番号もまた「48」で、天野は「現役続行の限り背番号は『48』を通す」と語っていた。福井・香川で指導者となってからも48番を付けていた。
応援歌について
天野は投手であるが、個人応援歌が存在し、南一誠 の「広島東洋カープ選手別応援歌 2003」に収録されている。この応援歌は、CD収録限定のため一度も球場で流れたことはなかったが、変ロ長調 のカノン進行 で作られた美しい旋律であり、今でも応援歌ファンの中では人気の根強い楽曲である。
詳細情報
年度別投手成績
年 度
球 団
登 板
先 発
完 投
完 封
無 四 球
勝 利
敗 戦
セ 丨 ブ
ホ 丨 ル ド
勝 率
打 者
投 球 回
被 安 打
被 本 塁 打
与 四 球
敬 遠
与 死 球
奪 三 振
暴 投
ボ 丨 ク
失 点
自 責 点
防 御 率
W H I P
2002
広島
13
0
0
0
0
0
0
0
--
----
61
15.0
10
0
3
0
0
14
0
0
2
2
1.20
0.87
2003
49
0
0
0
0
2
4
0
--
.333
225
54.0
41
4
20
3
2
30
2
0
21
18
3.00
1.13
2004
45
0
0
0
0
3
2
0
--
.600
207
47.0
52
8
14
0
2
39
2
0
29
28
5.36
1.40
2005
14
0
0
0
0
0
0
0
0
----
82
15.1
26
7
9
2
2
9
2
0
22
17
9.98
2.28
通算:4年
121
0
0
0
0
5
6
0
0
.455
575
131.1
129
19
46
5
6
92
6
0
74
65
4.45
1.33
記録
NPB
背番号
48 (2002年 - 2011年、2018年 - )
年度別投手成績(独立リーグ)
各年度の太字 はリーグ最高
タイトル
脚注
出典
関連項目
外部リンク