山本 芳彦
|
基本情報 |
---|
国籍 |
日本 |
---|
出身地 |
和歌山県和歌山市 |
---|
生年月日 |
(1983-11-06) 1983年11月6日(40歳) |
---|
身長 体重 |
186 cm 86 kg |
---|
選手情報 |
---|
投球・打席 |
右投右打 |
---|
ポジション |
内野手、外野手 |
---|
プロ入り |
2001年 ドラフト7巡目 |
---|
初出場 |
2006年7月17日 |
---|
最終出場 |
2011年9月27日 |
---|
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
---|
|
|
山本 芳彦(やまもと よしひこ、1983年11月6日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(内野手)。現在は広島東洋カープの二軍マネージャー補佐兼打撃投手を務める。
経歴
プロ入り前
和歌山工高では投手として活躍し、高校3年時の夏には和歌山予選1回戦で前年度夏の甲子園優勝校の智辯和歌山高校と対戦。投打に活躍を見せ武内晋一が主将を務めていた同校を1回戦敗退に追い込む。2回戦の県立和歌山商高戦では2本塁打を放ち勝利するが、3回戦の日高高戦で0-5で敗退する。
通算21本塁打[1]。またエースで4番でありながら高校通算60盗塁以上を走る俊足と走塁センスをもっていた。
2001年のプロ野球ドラフト会議で、広島東洋カープに打力を見込まれて野手として7巡目指名を受け入団した。
プロ入り後
二軍では毎年60試合以上に出場して主力選手として活躍。足と肩があり内野・外野経験もあるため、プロ入り後は守備位置が固定されることはなく、捕手以外のすべてのポジションを経験している。
2004年、二軍でチームの投手が足りなくなったためマウンドに上がったこともあり、1イニング3打数0安打1四球と無難にこなした。
2005年は二軍で74試合に出場、打率.256 5本塁打 15盗塁(盗塁死3)と俊足を活かし盗塁で貢献した。一塁手13試合、二塁手1試合、三塁手15試合、遊撃手17試合、外野手39試合を守った。
2006年は二軍で64試合に出場し、ウエスタン・リーグ3位の打率.292、 6HR 5盗塁 16二塁打の好成績を残した。このことが認められ、7月17日にプロ5年目にして初の一軍出場を果たした。パンチ力があるため二軍では3番・5番など中軸を任せられることが多くなってきた。一軍では少ない出場試合数ながら一塁・二塁・三塁の3ポジションを守った。
2007年は二軍で76試合に出場し打率.256、3本塁打と打撃面では前年より下降したが、赤松真人(阪神タイガース)の26盗塁に次ぐ15盗塁(盗塁死2)はウエスタン・リーグ2位と自慢の機動力の成長を見せた。また、守備でもさまざまな守備位置で起用されてユーティリティーぶりを発揮し、合計で5失策と各ポジションでそれなりに安定した守備を見せた。一軍出場は前年を下回る4試合に留まった。
2007年秋季キャンプにて、若手野手の中で最も力強く鋭い打球を放っており、その元気の良さを買われマーティ・レオ・ブラウン監督からFA移籍した新井貴浩の後任として名前を挙げられた。
2008年は二軍で70試合に出場し、自己最多タイの6本塁打を記録するが、打率は.257と前年と余り変わらず、新加入の野手の台頭もあって一軍出場はなかった。
2009年は春季キャンプから一軍のメンバーに入り、ブラウン監督の目を引いた。オープン戦も好調を維持し、自身初の開幕一軍の切符を獲得するも、2試合出場した後二軍落ちし、その後は一軍への昇格は無かった。
2010年は前半戦は一軍の機会がなかったものの、オールスター戦前に栗原健太の故障を機に一軍に昇格し、8月5日の対横浜戦ではプロ入り初の適時打を放った。自己最多の39試合に出場。代打、代走だけでなく一塁、二塁、三塁、外野と多くの守備位置を守り、一軍での経験を積んだ。
2012年は一軍の出場機会がなく、10月3日に球団から戦力外通告を受けた。
引退後
プロ3年目の2004年にはウエスタン・リーグで投手として1試合のみ登板しており、内野手登録ながら、球団から打撃投手としての契約を打診された[2]。
詳細情報
年度別打撃成績
年
度 |
球
団 |
試
合 |
打
席 |
打
数 |
得
点 |
安
打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁
打 |
打
点 |
盗
塁 |
盗 塁 死 |
犠
打 |
犠
飛 |
四
球 |
敬
遠 |
死
球 |
三
振 |
併 殺 打 |
打
率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S
|
2006
|
広島
|
17 |
31 |
31 |
1 |
7 |
2 |
0 |
0 |
9 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
10 |
2 |
.226 |
.226 |
.290 |
.516
|
2007
|
4 |
5 |
4 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
1 |
0 |
.000 |
.200 |
.000 |
.200
|
2009
|
2 |
2 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
.000 |
.000 |
.000
|
2010
|
39 |
46 |
43 |
4 |
11 |
1 |
0 |
0 |
12 |
2 |
0 |
0 |
1 |
1 |
1 |
0 |
0 |
15 |
0 |
.256 |
.267 |
.279 |
.546
|
2011
|
17 |
27 |
27 |
0 |
9 |
1 |
0 |
0 |
10 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
4 |
1 |
.333 |
.333 |
.370 |
.704
|
通算:5年
|
79 |
111 |
107 |
6 |
27 |
4 |
0 |
0 |
31 |
4 |
0 |
0 |
1 |
1 |
2 |
0 |
0 |
30 |
3 |
.252 |
.264 |
.290 |
.556
|
年度別守備成績
年 度 |
球 団 |
一塁 |
二塁 |
三塁 |
遊撃 |
外野
|
試
合 |
刺
殺 |
補
殺 |
失
策 |
併
殺 |
守 備 率 |
試
合 |
刺
殺 |
補
殺 |
失
策 |
併
殺 |
守 備 率 |
試
合 |
刺
殺 |
補
殺 |
失
策 |
併
殺 |
守 備 率 |
試
合 |
刺
殺 |
補
殺 |
失
策 |
併
殺 |
守 備 率 |
試
合 |
刺
殺 |
補
殺 |
失
策 |
併
殺 |
守 備 率
|
2006
|
広島
|
8 |
45 |
3 |
0 |
2 |
1.000 |
3 |
4 |
2 |
0 |
0 |
1.000 |
1 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1.000 |
- |
-
|
2007
|
- |
- |
- |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
---- |
-
|
2009
|
1 |
4 |
0 |
0 |
0 |
1.000 |
- |
- |
- |
-
|
2010
|
16 |
21 |
3 |
0 |
3 |
1.000 |
6 |
3 |
5 |
0 |
0 |
1.000 |
7 |
1 |
8 |
1 |
0 |
.900 |
- |
4 |
5 |
0 |
0 |
0 |
1.000
|
2011
|
- |
3 |
3 |
4 |
0 |
0 |
1.000 |
4 |
1 |
1 |
0 |
0 |
1.000 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
---- |
4 |
5 |
0 |
0 |
0 |
1.000
|
通算
|
25 |
70 |
6 |
0 |
5 |
1.000 |
12 |
10 |
11 |
0 |
0 |
1.000 |
12 |
3 |
9 |
1 |
0 |
.923 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
---- |
8 |
10 |
0 |
0 |
0 |
1.000
|
記録
背番号
- 59(2002年 - 2012年)
- 113(2019年 - )
- 2013年から打撃投手を務めるが、マネージャー補佐兼任のため、他の打撃投手と異なり2018年まで背番号がなかった。
脚注
関連項目
外部リンク