大阪市内の筋・通一覧(おおさかしないのすじ・とおりいちらん)では大阪都心部の道路網について扱う。
大阪都心の道路網は飛鳥時代の7世紀に起源を持ち、豊臣政権期の近世初頭に筋と通を基軸とした道路網が成立した。その後近代以降にモータリゼーションの進展に伴い自動車道路へと発展していった。
概要・歴史
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現在の大阪都心にあたる上町台地は倭の五王の時代の5世紀以降、難波津を中心に倉庫群や[1]、難波館と云われる外交施設が存在していた[2]。また、難波津と法円坂倉庫群を連絡する道路と、これらがある上町台地から河内・和泉方面へと通ずる陸路の存在が想定されるなど、難波宮成立以前より既に都市的性格を持っていた[4]。
皇極天皇4年(645年)、乙巳の変によって蘇我入鹿を打倒した中大兄皇子らによる新政府は同年12月、難波長柄豊碕宮への遷都を行った。日本の古代都市は中国の都城制に範をとり、街区の方位を揃えるという特徴を持つが、改新政府による難波宮・京もその例に漏れず方位の揃った街区を備えていた[5]。改新政府は難波宮から正南の四天王寺方面へ向けて路幅30メートル超の朱雀大路を敷設し、朱雀大路はさらに南方に延長され難波大道へと展開していった[7]。さらに天武期の難波京には条坊制が施行されていた。これらの難波京の地割は古代から中世へと受け継がれていった[10]。
16世紀末、本能寺の変後の政治抗争を制して新たな中央政権の主宰者となった豊臣秀吉は、居城を大坂に据え都市開発を進めていった。豊臣期大坂城下町は、開発当初は大坂城から平野町を経て四天王寺へ、さらにその先の堺へと至る南北に長い都市構造を指向していた。しかしその後、大坂城から上町・船場地区へと東西方向に展開していった[11]。そのため通は東西方向に設定され、また南北方向の道は筋と呼ばれるようになった。こうして大阪都心に現代まで続く筋と通を軸とする道路網が成立した[12]。
- 大阪市による幹線道路の愛称
戦後、大阪市建設局により、太閤時代以前からの慣習を継承して、幹線道路に愛称をつけるということが行われている。1970年と1983年に合わせて33路線、1995年に公募により14路線、合計47の幹線道路に愛称が付けられている。(大阪市建設局)
平野郷
摂津国平野郷(現・大阪市平野区)では、大坂に倣いほとんどの道路に愛称がつけられた。しかし大坂とは異なり、東西方向の道路に対しても筋と名付けられている。
筋
西側から(太字は幹線道路、21路線)
通
北側から(太字は幹線道路、27路線)
その他
大阪市内の国道で、愛称がつけられていない主な道路。
出典
- ^ 村元健一 「難波宮の立地環境」 『都城制研究』9 奈良女子大学古代学学術研究センター、2015年3月、22頁。
- ^ 仁藤敦史 「外交拠点としての難波と筑紫」 『 国立歴史民俗博物館研究報告』200 国立歴史民俗博物館、2016年1月、51頁。
- ^ 佐藤隆 「古代難波地域における開発の諸様相」 『大阪歴史博物館研究紀要』17 大阪歴史博物館、2019年、7頁。
- ^ 佐原真 『魏志倭人伝の考古学』 岩波書店、2003年7月、25頁。
- ^ 木下良 「近年における古代道研究の成果と課題」 『人文地理』40巻4号 人文地理学会、1988年、41頁。
- ^ 佐藤、2019年、20頁。
- ^ 玉井哲雄 「都市の計画と建設」 『日本通史』11巻 近世1 岩波書店、1993年12月、92‐93頁。
- ^ 大澤研一 「豊臣大坂城下町の「筋」について」 『大阪歴史博物館研究紀要』16 大阪歴史博物館、2018年、22頁。
注釈
- ^ これを竜田越とするかは定かではないが、渋河道であったことは確かである。
参考文献
- 積山洋「難波京と難波大道・大津京」『都城制研究』第12号、奈良女子大学古代学学術研究センター、2018年。
関連項目
外部リンク