ピーター・ブラウンの著書『古代末期の世界』(1971年)により、「古代末期」という概念は広まった。ただし、「古代末期」という概念は、19世紀のドイツ人美術史家アロイス・リーグルの頃から存在はしていたという A. Giardina (アンドレア・ジャルディーナ)[4]や J. H. W. G. Liebeschuetz (ヴォルフ・リーベシュッツ)の指摘がある[2]。ギボン以来の歴史観と固定化された古代文化の観念を批判した彼の見方は革新的であった。古代末期研究ではキリスト教史の観点から「ローマ・ギリシャ文明」的な観点の「ローマ帝国東西分裂」に疑問を付し、これがローマ帝国分裂論に一つの終止符を打った[5]。「古代末期」の創始は既成の西洋文化の変遷の理解を一新し、リチャード・サザーンの「中世」の創始に対抗するものと言える[6]。
また、J. H. W. G. Liebeschuetz は2001年に「後期ローマ史における「衰退」概念の利用と濫用」論文において、「衰退」概念は必要であるとして、ブラウンやキャメロンらの古代末期論を多文化主義の流行を背景にしたものと批判した[2]。また、古代末期研究は特殊イギリス的であるとの指摘もある[2]。
J. H. W. G. Liebeschuetz は、ブラウンの業績は認めるものの、19世紀から20世紀初頭にかけて、美術史家アロイス・リーグル、宗教史の Richard Reitzenstein (リヒャルト・ライツェンシュタイン、1861-1931年)、文化哲学者オスヴァルト・シュペングラーなどはこの古代から中世までの時期を独自の価値を持つ時代とみなしていたし、Henri-Irénée Marrou (アンリ=イレネー・マルー)は「テオポリス(神の国)の時代」と提案するなど、ブラウン以前にも古代末期を重視していた研究があったと反論した[2]。
^キリスト教的君主制の絶対主義的傾向に対する同時代のイスラームの特質への一見解について以下を参照。Garth Fowden, Empire to Commonwealth: Consequences of Monotheism in Late Antiquity, Princeton University Press, 1993.
^オックスフォードのピーター・ヘザーが発展させた近年の一仮説は、ゴート族、フン族の帝国、そして406年の侵略者たち(アラン族、スエヴィ族、ヴァンダル族)のライン河越えを、西ローマ帝国衰退の直接的原因と仮定している; The Fall of the Roman Empire: a New History of Rome and the Barbarians, OUP 2005.
出典
^ abBrown, Bowersock, Graber, Late Antiquity: A Guide to the Postclassical World (Harvard University Press Reference Library) 1999年
^ abcdefghijk南雲泰輔「英米学界における「古代末期」研究の展開」西洋古代史研究 = Acta academiae antiquitatis Kiotoensis (2009), 9: 47-72,2009-12-01
^グレン・バウアーソック Glen W. Bowersock, “The Vanishing Paradigm of the Fall of Rome,” Bulletin of the American Academy of Arts and Sciences, 49. 8 (May 1996) p.34.