加賀型戦艦 (かががたせんかん)は[ 注釈 2] 、日本海軍 が八八艦隊 計画で考案した戦艦 [ 15] [ 16] 。
長門型戦艦 の拡大改良型である[ 17] [ 18] 。時代的にはアメリカ海軍 のサウスダコタ級戦艦 (ダニエルズ・プラン )に相当し、同級に対抗できる超弩級戦艦 であった[ 20] 。
なお計画時の番号は「加賀」が第7号戦艦[ 21] 、「土佐」が第8号戦艦だが[ 22] 、土佐型戦艦 [ 23] 、もしくは土佐級戦艦 と呼称した事例がある[ 24] [ 注釈 3] 。
加賀(八八艦隊第3番艦、神戸川崎造船所)と土佐(八八艦隊第4番艦、三菱長崎造船所)とも[ 注釈 4] 、ワシントン海軍軍縮条約 により他の八八艦隊各艦と共に建造中止となった[ 注釈 5] [ 注釈 6] [ 注釈 7] 。
加賀型2隻は標的艦として実験に使用したあと処分する予定だったが[ 31] 、横須賀海軍工廠 で空母改造工事中の天城型巡洋戦艦「天城 」が関東大震災 で損傷・廃棄されたため[ 注釈 8] 、代艦として「加賀」は横須賀で航空母艦 に改装 された。
同型艦「土佐」は進水後に予定どおり標的艦 として使用され[ 注釈 9] 、1925年 (大正14年)2月9日 に海没廃棄処分となった[ 36] [ 37] 。
概要
加賀型戦艦(加賀級戦艦)は、八四艦隊案 (その後、八六艦隊案 、八八艦隊 と発展)によって2隻が建造された超弩級戦艦 である[ 注釈 10] 。
長門型戦艦(長門級戦艦)と同じく高速戦艦 とも呼ぶべき戦艦であり、八八艦隊計画の長門型に次ぐ第3番艦(加賀)、第4番艦(土佐)として計画された[ 注釈 11] [ 注釈 12] 。
先行の長門型2隻では完全に取り入れる事が出来無かったユトランド沖海戦 など第一次世界大戦 の戦訓を徹底して取り入れており[ 44] 、長門型で採用された集中防御方式をさらに強化している[ 45] 。
長門型では舷側の装甲帯の上部装甲 はより薄くなっており、またその装甲は舷側に垂直に取り付けられていた。これに対し加賀型では舷側の装甲帯の装甲厚(10-11吋/インチ [ 3] )は上部〜下部ともに完全に同一になっている。また、一部の装甲を傾斜式にするなどして更なる防御力の強化を図っている。この時点で、日本海軍の防御設計は従来の英国式のものから完全に脱却した。さらに、日本海軍の戦艦で初めて煙路防御を施している。砲塔12インチ・砲塔天井6インチ[ 3] 、遠距離砲戦で重要となる水平防御の為に甲板に張られた装甲は4インチもあり、建造時は世界最強の防御を持っていた。ちなみに当時のアメリカの最新鋭戦艦の水平防御装甲厚は3.5インチである。水線下には、日本海軍艦艇初のバルジ を装着した。
攻撃力の面では、長門型が41センチ 砲4基8門であったのに対して、加賀型は1基砲塔数が増加して5基10門となり、世界最大の主砲 を10門搭載する重武装となっている[ 注釈 13] 。長門型の砲塔と形状が若干異なり、仰角は増しているが(長門型は仰角30度俯角5度、加賀型は仰角35度俯角3度)、砲塔の側面装甲は若干減らされている。
速力の面では、従来の戦艦よりも高速化を図った。第一次世界大戦終結直後、15インチ砲 8門を搭載して32ノットを発揮しつつ防御力を備えたイギリス海軍 のアドミラル級巡洋戦艦 (フッド 型)が出現し[ 50] 、ユトランド沖海戦の戦訓もあわせて、列強各国は戦艦の高速化を意識するようになった。
本型は、長門型より新式で91,000馬力 を発揮する新式機関を搭載した。これにより長門型より船体規模、排水量 が大幅に増加して39,979トンになったにもかかわらず、長門型の21基より少ない12基で26.5kt の高速を維持できる見込みであった[ 3] 。缶数が減少した事により、煙突 は長門型の2本から1本になった。
艦歴
加賀
1917年 (大正6年)6月21日特別召集の第39回帝国議会で、戦艦3隻(陸奥、加賀、土佐)と巡洋戦艦2隻(天城、赤城)の予算が承認された(7月20日交付)。
1918年 (大正7年)5月15日 、日本海軍は八八艦隊第3番艦(仮称第七号戦艦)を加賀 と命名する(土佐と同日付)[ 16] [ 52] 。同日付で2隻は『戦艦』として艦艇類別等級表に登録された[ 1] [ 53] 。
1920年 (大正9年)7月19日 、「加賀」は神戸川崎造船所 (現・川崎重工業 神戸工場)で起工[ 55] [ 注釈 14] 。
1921年 (大正10年)11月17日 午前8時30分、進水[ 56] [ 57] 。進水式には大正天皇 名代として伏見宮博恭王 が臨席した[ 58] 。また東宮武官 の及川古志郎 も派遣された[ 59] 。加賀進水式から数日後の11月22日 、神戸川崎造船所では天城型巡洋戦艦「愛宕」が起工したが[ 60] [ 61] 、12月中旬に建造を見合わせた[ 62] 。
1922年 (大正11年)初頭、ワシントン会議 で日本側は加賀型戦艦2隻(加賀、土佐)の空母改造を提案している[ 注釈 15] 。
加賀型2隻の空母改造了承との報道もあったが[ 注釈 16] 、結局、空母に改造する未完成艦は天城型巡洋戦艦 2隻に決定した[ 注釈 17] 。
ワシントン海軍軍縮条約 により加賀型は姉妹艦 2隻とも廃艦となり、各種兵器の実験の実験に使用され[ 68] 、その後は処分される予定だった[ 69] [ 注釈 18] 。
また「加賀」の主砲砲身が余ったため、主砲の装填動作不良に悩まされていた「長門」に丸ごと流用された。
同年7月8日 、「加賀」は川崎造船所から海軍に引き渡される[ 72] 。7月11日、特務艦 「富士 」に曳航され、護衛の装甲巡洋艦「八雲 」と共に神戸を出発する[ 73] 。
7月14日、横須賀に到着した[ 21] [ 74] 。本艦は、そのまま横須賀で放置された[ 60] 。「土佐」の実験予備艦であったという[ 60] 。
近代化大改装後の加賀
1923年 (大正12年)9月1日[ 75] 、横須賀海軍工廠で巡洋戦艦から航空母艦に改造中だった「天城 」が関東大震災 で損傷した。修理不能の損傷を受け、日本海軍は廃棄と解体を決定する[ 77] [ 注釈 19] 。
その代艦として[ 79] 、横須賀に繋留されていた「加賀」が、航空母艦 に改造されることになった[ 81] 。
1923年 (大正12年)11月19日付で2隻(加賀、赤城)は、それぞれ戦艦と巡洋戦艦から空母に類別変更される[ 81] [ 82] 。12月13日 、横須賀海軍工廠で「加賀」の工事が再開する[ 21] 。試行錯誤の末に、1928年(昭和3年)3月[ 84] 、航空母艦として竣工した。実際には飛行甲板 や格納庫の艤装工事が完成しておらず[ 86] 、翌年になっても工事を続けていた[ 87] 。
艦型としては「赤城」を姉妹艦として扱い[ 注釈 20] 、「赤城型航空母艦」や、「赤城級航空母艦」と呼称した事例がある[ 注釈 8] [ 注釈 21] 。
戦間期において、アメリカ海軍のレキシントン級航空母艦 、イギリス海軍のグローリアス級航空母艦 と並ぶ有力な航空母艦であった[ 注釈 22] 。「加賀」は日本海軍航空隊の主力空母として活躍し、1934年 (昭和9年)6月から1935年 (昭和10年)6月の大改装で第一線級の能力を保持しつづけた。1942年 (昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦 で沈没した。
土佐
タグボートに曳かれて長崎港 を出港し、呉へ向かう「土佐」。1922年 (大正11年)8月1日 撮影。
『土佐 』の艦名は、旅順攻囲戦 で日本軍が鹵獲 したロシア海軍 戦艦「レトヴィザン 」を改称する際、改名候補の一つに挙げられていた(実際は肥前 と命名)[ 95] [ 96] 。
八八艦隊計画における本艦(仮称第八号戦艦)は[ 22] [ 97] 、1918年 (大正7年)5月15日 付で土佐 と命名される(加賀と同日付)[ 16] [ 52] 。同日付で『戦艦』として艦艇類別等級表に登録[ 53] [ 16] 。1919年 (大正8年)1月、三菱造船長崎造船所 (現・三菱重工長崎造船所)建造契約を締結。1920年 (大正9年)2月16日 、鎮西大社諏訪神社 宮司により祓清の儀式をおこない[ 99] 、三菱長崎造船所で起工した[ 100] [ 注釈 23] 。
4月2日 、皇太子 時代の昭和天皇 と随行の東郷平八郎 海軍大将が、香取型戦艦「香取 」に乗艦して長崎港 に到着した[ 102] [ 103] [ 104] 。
同日午後、皇太子は三菱長崎造船所に移動すると、建造中の峯風型駆逐艦「矢風 」(4月10日進水)を見学した[ 102] [ 105] 。続いて第一船台の「土佐」において[ 22] 、皇太子が最初のリベットを締める[ 106] [ 107] 。その後、皇太子は艤装工事中の球磨型軽巡洋艦「多摩 」(長崎造船所で同年2月10日進水)[ 108] を見学し、「香取」に戻った[ 102] [ 104] 。
同年5月、技術供与の見返りとして、イギリスに本艦機関図面の一部を提供する[ 109] 。
1921年 (大正10年)12月18日 午前10時30分、「土佐」は進水した[ 110] [ 111] 。進水命名式には大正天皇 の名代として[ 112] 、伏見宮博恭王 が臨席した[ 113] [ 114] 。加藤友三郎 海軍大臣 の代理として、財部彪 大将が命名書を読み上げた[ 115] 。造船所側では「土佐」の最後を飾るため出来るだけ盛大な進水式とし、海軍も航空機を飛ばして景気を添えた[ 116] 。しかし、進水の際にくす玉 が割れないというアクシデントが発生し、縁起の悪さが囁かれた[ 117] [ 118] 。
進水式後の翌19日 [ 116] 、三菱長崎造船所では天城型巡洋戦艦「高雄」の建造が始まった[ 119] 。
ワシントン軍縮会議では「加賀」と「土佐」の空母改造決定との報道もあったが[ 注釈 16] 、最終的に空母改造対象は天城型巡洋戦艦2隻に決定した。ワシントン海軍軍縮条約の締結により、1922年 (大正11年)2月5日 付で日本海軍は「土佐」の建造中止を発令する。同年7月31日 、未完成のまま海軍に引き渡され、軍艦旗 が掲げられた[ 注釈 24] 。この時点で最上甲板以下の船体はほぼ完成しており、砲塔や煙突なども別に製作が進められていた[ 118] 。その後、各艦(肥前 、石見 、土佐、安芸 、薩摩 )は標的艦として処分されることになった[ 77] [ 121] 。建造に携わった造船関係者は「前途を祝福されたはずの土佐がドザ(土左衛門 )になった 」と自嘲したという[ 107] 。授受式で、造船所所長は「土佐は世界の軍艦中全ての点において最も優ってていると信ずるが、近く廃艦同様の運命に陥るのは関係者として肉親に別るる以上大きな悲しみである」と語り、海軍側は「土佐の運命は偉人が短かい運命であったたと同様である」と答えた[ 注釈 24] 。
艦上では、作業員の仮居住施設や被曳航装置の設置が行われる[ 118] 。同年8月1日 から8月4日 にかけて運用術練習艦「富士 」に曳航されて、装甲巡洋艦「八雲 」護衛下で出港、豊後水道 経由で呉 へと回航された[ 22] (当時、呉海軍工廠では天城型2番艦赤城 建造中)[ 122] [ 123] 。その後、呉軍港沖合に繋留された[ 注釈 9] 。姉妹艦と同様に、新兵器実験を行ったあと処分する予定であった[ 注釈 18] 。
1924年 (大正13年)4月14日、天城型巡洋戦艦3隻、加賀型2番艦「土佐」、紀伊型戦艦 2隻の建造取り止めの令が通達される[ 124] 。同日付で6隻は戦艦・巡洋戦艦のそれぞれから削除・除籍された[ 125] [ 126] 。
建造中止になった「土佐」を含む八八艦隊の各艦の資材は、横須賀海軍工廠の「天城」(のち加賀)や、呉海軍工廠の「赤城」、建造中の迅鯨型潜水母艦 などに流用された[ 127] [ 128] 。「土佐」の場合、具体的には混燃罐が潜水母艦「長鯨 」(長崎造船所)に、石油専燃ボイラーが扶桑型戦艦 の改装用と記録されている[ 128] 。
機関に関しては[ 129] 、東洋汽船 が天洋丸級貨客船 の改造に際し「加賀」と「土佐」の石油専燃ボイラーの譲り受けを希望し[ 130] 、海軍省とも交渉が進んでいたという[ 131] 。だが諸事情により実現しなかった[ 132] 。
「土佐」のために製造されたスクリュー(推進器)4個は、「加賀」部品として横須賀海軍工廠に送られた[ 133] [ 134] 。三ツ子島 に保管されていた「土佐」の推進器も、同様に「加賀」の部品として呉工廠から横須賀工廠へ送られたという[ 注釈 25] 。
また1923年(大正12年)の段階で加賀型の主砲塔は10基が完成し、天城型の主砲塔は4基が完成または完成間近だった。「土佐」の主砲塔のうち2基は陸軍 の特殊起重機船 「蜻州丸 」により運搬され、対馬要塞 豊砲台に1基(土佐1番砲塔、1932年(昭和7年)完成)、釜山要塞 張子嶝砲台に1基(土佐2番砲塔、1930年(昭和5年)完成)が運搬されて、現地で要塞砲 として活用された。横須賀海軍工廠 で保管されていた三番砲塔は、後日1933年 (昭和8年)に特務艦「知床 」によって呉工廠 へ運ばれ、戦艦「長門 」の改装に利用されたという[ 138] 。加賀型の41cm砲塔は8基残っていたが、この3番砲塔をふくめ「長門」と「陸奥」の近代化改修にもちいられた。
「土佐」は1924年 (大正13年)6月から数ヶ月に渡る実験に従事した[ 140] [ 141] 。実験内容は、亀ヶ首試射場 (呉港外)からの砲撃や、船体に固定した爆薬を用いた[ 142] 。砲弾や魚雷などに対する防御力強化や[ 143] [ 144] 新型砲弾(後の九一式徹甲弾 )の効果の研究であり、これによって得られたデータは建造予定の1万トン級巡洋艦 や、後の大和型戦艦 の設計にも活かされた[ 140] [ 145] [ 141] 。特に四〇cm徹甲弾(距離20000m)に対する射撃では、落下角度約17度・舷側25m地点に弾着した弾頭が水中弾となって水線下約3m部分に命中、水雷防御 を貫通して機械室で炸裂、浸水3000トン・傾斜5度の被害を生じた[ 146] [ 145] 。
1925年 (大正14年)2月2日 、「土佐」は標的艦 「摂津 」[ 77] に曳航されて呉を出港する[ 147] [ 148] 。翌日佐伯港 に入港[ 149] 。仮搭載物の撤去や海没廃棄用発火装置の取り付けを行った[ 148] 。2月6日の海没廃棄予定は悪天候のため中止[ 148] 。
2月8日 午前9時、2隻(摂津、土佐)は佐伯を出発する[ 150] [ 注釈 26] 。同年2月9日 、「土佐」は艦名の由来となった高知県 の沖の島 西方約10海里地点にて海没廃棄処分された(豊後水道南方海面)[ 141] 。海没処分開始は午前1時以降、全没は午前7時頃[ 注釈 26] 。海没地点の水深は350フィート[ 148] 。
長崎市 の端島 は、「軍艦島」の愛称を持つが、これは島を横から見た姿が(未完成状態の)土佐のシルエットに似ていた事に由来すると言われる[ 152] 。また、「土佐は廃棄されておらず、どこかに秘匿されている」という噂が、当時の少年たちの間で囁かれていた という[ 153] 。
脚注
注釈
^ #軍艦基本計画資料 Sheet2では加賀の値として水線下102.9ft(31.364m)としている。
^ 1 戰艦廢止論(巡洋戰艦を含む)a 英國の主唱(中略)尚ほ進んで近く我が國にも加賀級 の三萬九千噸、天城級 の四萬一千噸も起工中であつて、他の國でも五萬噸の戰艦を計畫してゐたのである。/然るに華府會議に於て、其の最上限度を三萬五千噸に制限し得たのであるから、他の巡洋艦を制限した如く、各國が冷静であれば一層縮小型に協定出來ないことはない。(以下略)
^ 兵器、船體、機關竝其ノ局具ノ工作ニ要スル圖面等ニ關シ極秘(秘)書類トシテノ取扱區分 大正十二年二月十九日(官房機密二〇一)二、船體關係(イ)極秘(中略)二、特殊ノ形状ヲ有スル艦艇(例ヘハ土佐級、愛宕級ノ如シ)ノ線圖、「ボデープラン」、排水量等計算表及同曲線圖(以下略)
^ 2.世界大戰以後の状況 (中略)大正9年に八八艦隊主力戰艦の第三艦たる加賀及び第四艦土佐の建造に着手し、加賀は川崎造船所に於て、土佐は三菱長崎造船所に於て起工す。 加賀級 長 715呎 幅 100呎 吃水 30.75呎 排水量 39,900噸 速力 23節 主砲 16吋砲10門 又此年巡洋戰艦隊の建造に着手し、其の第一艦天城を横須賀工廠に、第二艦赤城を呉工廠に起工したり。長 770呎 幅 101呎 吃水 31呎 排水量 41,200噸 速力 28.5節 主砲 16吋砲10門 然るに大正10年秋軍備縮小の爲に華府會議開催せられる爲め、此等八八艦隊に属する主力艦としては、大正9年9月呉に於て竣工したる長門が16吋砲を搭載する世界の第一艦となり、其翌年11月華府會議中に完成したる陸奥第二艦として現存するのみ、加賀、土佐は進水直後 天城、赤城は建造の初期に於て何れも廢棄せられたり。若し華府會議の調印なかりせば更に加賀級の二艦 紀伊、尾張 は建造に着手すべく用意され居たり。
^ ◎故國勞働者二万七千失職す[ 28] 東京一日發 朝日新聞の報道に依れば華府軍縮會議の結果四ヶ所の造船所にて建造中の八大主戰艦の事業中止を海軍省より命令された故に造船工二万七千は一時に失業の悲運に遭ふた。八大艦の中には竣工間際のものが多い。造船所と艦種を擧ぐれば戰艦土佐、大巡洋艦高雄は長崎の三菱造船所にて中止され、戰艦加賀、巡洋戰艦愛宕は神戸の川崎造船所、戰艦紀伊、巡洋戰艦赤城は呉海軍造船所戰艦尾張、巡洋戰艦天城は横須賀にて夫々中止の命を受けた。(記事おわり)
^ (中略)長門、陸奥に次で加賀、土佐の二艦が建造に着手せられ共に昨年度末には進水しましたが完成を俟たずして廢棄せらるゝことになりましたので如何なる艦であるかと云ふことを委しく申上げ得ざるを遺憾と致しますが進水當時發表せられたる要目を申上ますれば次の通りでありまして長門、陸奥に比して又一層強力のものであります。(以下略)
^ (中略)同會議當時は日英米共大艦を建造又は計畫中でありまして、我國では加賀、土佐を建造中であり、加賀は大正十一年に進水して居りますが、その後航空母艦に改造せられました。同艦は戰艦としては排水量39,900噸16吋砲10門速力23節で、防禦力も大いに増大した艦でありました。土佐は進水後廢棄せられました。八八艦隊の戰艦として尚4隻の計畫がありましたが實現せずに終りました。(以下略)
^ a b 3.華府會議後の状況 (中略)次に元の戰艦加賀及び巡洋戰艦赤城の2隻を華府會議により何れも航空母艦に改造す(大正12年)。赤城は呉工廠に於て加賀は横須賀に於てす。元來横須賀にては元の巡洋戰艦天城を改造することに着手せるも其年9月大震災の爲破壊せられたる故、既に進水を了し居たる加賀に取換へられたるものなり。 赤城級 長 770呎 幅 92呎 吃水 21.2呎 基準排水量 26,900噸 速力 28.5節 主砲 8吋砲10門(以下略)
^ a b ●十六吋砲の洗禮 近く解體される土佐に哀惜の海軍當局[ 35] 華府會議の結果遠からず我海軍各種武器の標的となつて解體さるべき巨艦土佐は呉軍港沖會に淋しく巨體を横たへて刻々迫る運命を待つののの如くであるが呉海軍當局は「土佐解體に先だつて伊豫灘方面に曳航され艦砲魚雷爆彈等の新鋭武器の標的となるが其中には例の十六吋の洗禮を受け又飛行機上より發射する魚雷の試驗にも供せられる筈であるがあの最新式巨艦を實驗に供するのかと思へば世界平和の爲めとは云へ惜しくてならぬ」と語つた(呉)
^ (中略) 我國は夙 ・ に海軍力許可の必要を痛感し、大正の初頭以來八四艦隊案(戰艦八隻、巡洋戰艦四隻の整備)の成立となり、次でこれを更に強化した八八艦隊案(戰艦、巡洋戰艦各八隻)の整備に向つて邁進することゝなつたのであるが、此建艦案の内容は次のやうなものであつた。長門級戰艦 二隻 排水量 三三,八〇〇噸 主砲 一六吋砲 八門 速力 二三浬加賀級戰艦 二隻 排水量 三九,九〇〇噸 主砲 一六吋砲 一〇門 速力 二三浬紀伊級戰艦 二隻 排水量 四二,〇〇〇噸 主砲 一六吋砲 一二門 速力 二三浬 未定級戰艦 二隻 排水量 未定 主砲數及口徑 未定 速力 未定赤城級巡洋戰艦 四隻 排水量 四一,二〇〇噸 主砲 一六吋砲 一〇門 速力 二八.五浬未定級巡洋戰艦 四隻 排水量 未定 主砲數及口徑 未定 速力 未定 而して此の艦隊の整備維持(艦齢を八年とし恒に艦齢内新艦の規定數を維持する建前)には毎年六億圓以上の巨費を要するといふ厖大なものであつた。(以下略)
^ 第四章 艦船兵器/(一)主力艦 加賀級 一九一八年即ち長門級計畫後十八箇月目に戰艦加賀及び土佐の設計が完了した。兩艦は八八艦隊計畫の第三第四番艦であつて、長門級の三三,八〇〇噸に對して三九,九〇〇噸で、その要目は次の通りである。 長さ(P.P)七一五呎-〇吋 最大幅(W.L)一〇〇呎-〇吋 吃水三〇呎-九吋 排水量三九,九〇〇噸 速力 二三節 兵装{主砲 十六吋-十門 副砲 五吋半-五十門 高角砲 三吋-四門 發射管 二十一吋-八門 此の外十分なるサイド・アーマーとデッキアーマーとを有し、其の上に有力なる水雷防禦装置を有して居るが故に、速力は長門級と相等しいけれども其の他は遙かに有力であつた。/ 近代式主力艦設計の見地より見て、艦の幅の増加が必要にして且つ有利であると云ことが重要な問題となつて來たのは、丁度此の級設計中のことであつた。而して本問題は豫想より遙かに實現され得る可能性があつたのである。/ 一體船渠や造船臺(ビルヂング・バース)を長くすることは困難なことではないが、幅を増加することは根本的の變革であつて、全く改造に等しいものである。本件は船體の寸法を増加する場合攻究すべき重要なる項目の一であつて、加賀設計當時我が海軍工廠の設備に就ても、至れり盡せりの考慮が拂はれたのである。/ 一九二〇年加賀は川崎造船所にて起工せられ、土佐は長崎三菱造船所に於て建造を開始せられた。/ 是等兩艦の建造準備時機は大戰の影響による商船建造の大好況時であつた爲に、材料及び勞力の供給を得ることに多大の困難を感じた。併し乍ら此の作業を豫定通り進捗せしむる爲に、海軍竝に民間兩當時者が苦痛を忍んで最善の努力を盡したことは一通りではなかつた。顧れば苟くも此の事業に關係せしものは何人を問はず、必ずや當時に於ける造船所の惡戰苦闘の状況を偲び、今も尚ほ昂奮を覺ゆるものがあらう。斯くの如き困難ありしにも拘らず、兩艦は華府會議開催中遂に進水した(一九二一年十一月及十二月) 斯くて周知の如く會議の結果兩艦は廢棄に決し、進水直後廢棄表に登録せられたのである。米國戰艦ワシントン も亦之と同様の運命を辿つたのである。
^ a 日本(中略)加賀、赤城はそれぞれ建造中だつた戰艦 巡洋戰艦を華府會議の結果航空母艦に改造したものである。/戰艦加賀、巡洋戰艦赤城が計畫通り出來上つたとすれば、左のやうなものであつたのである。加賀は戰艦土佐と共に、彼の八八艦隊計畫の戰艦として、第三番目 第四番目即ち長門、陸奥に次ぐものとして、又赤城は天城 摩耶 愛宕と共に巡洋戰艦として、いづれも我が海軍主力たるべきものであつた。(要目略)新に航空母艦として設計されたものには、曩に鳳翔 があり、最近に龍驤 がある。(以下略)
^ ◎建造中ノ艦船要目ニ關スル件 大正十年十一月四日(官房三七七七)[ 48] 〔 (艦名)加賀|(艦種)戰艦|長(呎)715-0|幅(呎)100-0|吃水(呎)30-9|排水量(噸)39,900|速力(節)23|(乗員數)1,370|(短艇數)13|(製造所)神戸川崎造船所|(進水年月日)記載なし|主要兵装 (大砲)41c/m 10 14c/m 20|(機關砲)-|(發射管)8|(探照燈)11|機械(種類)タービン(數)4|罐(種類)艦本式(數)12|(推進器數)4|(備考) (一)本表以外ノ要目ハ秘トス/(二)速力及兵装欄ニハ特ニ注意ヲ要ス/(三)進水年月日未記入ノモノハ進水ヲ待テ記入ノコト/(四)日向以前ノ戰艦軸馬力ハ從前發表ノ通公表シ差支ナシ 〕
^ 神戸川崎造船所建造の主力艦としては、巡洋戦艦「榛名 」、戦艦「伊勢 」に続き3隻目である[ 21] 。
^ ○航空母艦 又日本ハ建造中ノ二艦加賀 土佐 ヲ航空母艦ニ改造シタキ希望ヲ述ヘ、尚二艦ハ改造後ノ噸數二萬四千噸トナル見込ナリト附言シ、結局日本ノ希望通リ決定ス[ 63] 米國ハ右航空母艦問題ニ關シ米國建造中ノ巡洋戰艦「サラトガ」「レキシントン」ノ二隻ヲ航空母艦ニ改造スルノ希望ヲ有スルモ専門家ニ依レハ右二隻ハ改造後ノ噸數二萬七千噸ヲ超過スル恐アリ。爲ニ苦心ヲ重ネツツアリシト述ブ。之ニ對シ日英ハ同情的態度ニ出テ結局精確ナル調査ヲナスニ決ス
^ a b ▲加賀土佐を飛行母艦に改造[ 64] 日本は廢艦となるべき超弩級戰艦加賀及び土佐を飛行母艦に改造し米國は建造中の戰闘巡洋艦 レエシントン、コンステレーション及びサラトガを飛行母艦に改造すとの了解成立せり(華府)
^ ●廢艦處分の内定 四隻丈けは流用 [ 67] 海軍條約の成立によつて廢棄せらるべき主力艦の處分方法は(一)二隻は航空母艦 (二)一隻は標的艦 (三)一隻は砲術練習艦 に轉用し得るものなる模様で其他のものは全部沈没若くは解體することになるだろうと而して商船又は他の特務艦に流用する事は出來ない事に決定するらしい以上の結果日本に於ては目下建造中にある巡戰天城、赤城の二隻は航空母艦とし前弩級戰艦攝津安藝を標的艦若くは砲術練習艦にすることに内定して居ると(記事おわり)
^ a b 解體をやめて兩艦を爆沈 土佐と加賀 [ 70] 解體に定つた軍艦は批准を待つて作業を始めることになつて居るが最近海軍當局ではその軍艦十三隻の中土佐、加賀の兩艦を近海に於て爆沈しようといふ説が現れた兩艦は我が 海上の 威力陸奥に次ぐ精鋭として計畫されたもので艦腹の鋼鐡板などには技術の精が究めてある從つてその威力を試さず其儘解體することは遺憾であるから此際未だ試みられない陸奥の威力十六吋砲の射撃力や飛行機上の爆彈投下力及び魚形水雷の攻撃力を實驗して進歩した我が製艦技術と海上の攻撃力の生きた参考資料を得ようと言ふのであつて既に呉軍港の近海に實驗の場所も選定されたと云ふ(中略)そのうち一艦を爆沈することになつた呉軍港の禁かいに場所を定めたのは引揚げ作業の便宜を考へた結果であつて實施の際には大規模の演習を計畫されるものと豫測されて居る解體の時期か批准後六箇月以内とあるから遲くとも今秋九月頃には十六吋砲の實射によつて製艦力が試されるであらう(記事おわり)
^ 大正十二年十一月一日 大臣 侍従長宛[ 78] 曩ニ横須賀海軍工廠ニ於テ建造中ナル軍艦天城ハ華府會議軍備制限條約ノ結果航空母艦ニ艦種ヲ変更工事継續ノコトニ執奏着々工事進捗略下甲板迄完成セル處去ル九月一日大震災ニ於テ天城ハ其ノ全支柱ヲ取外サレ盤木後方ニ倒レシタメ舩体ハ約四呎後退シ且ツ倒レタル盤木上ニ墜落シ之ヲ進水セシムルコト非常ニ困難トナリシノミナラズ其ノ舩体ハ全長ニ對シ約十九吋ノ屈曲ヲ生ジ工事ヲ續行スルモ舩体強度ニ著シキ弱点ヲ存スルニ至ルヲ以テ此ノ侭工事ヲ継續スルノ不利益ナル状態ニ陥リタリ然レトモ帝國海軍ノ現状ハ目下航空母艦ノ整備ヲ最モ緊要トスルヲ以テ天城今回ノ災害ニ依リ航空母艦ノ建造ヲ放棄スルコト能ハザル次第ニ有之候ニ付此ノ際天城ヲ廢棄シ其ノ代艦トシテ華府會議軍備制限條約ニ依リ廃棄スベキコトニ豫定セラレ建造工事中止中ノ戰艦加賀ヲ航空母艦(排水量二六,九〇〇トン)ニ変更シ横須賀海軍工廠ニ於テ工事再興竣工セシメ以テ帝國海軍航空母艦ノ勢力減損ヲ補填ノコトニ取計候條此ノ旨可然御執奏相成度此段申進候(終)
^ 加賀を中心に航空戰隊[ 88] 華府會議で航空母艦に變更建造された赤城姉妹艦 加賀(二万六千九百トン)は近く呉軍港に回航し艤装を整え御大典觀艦式に雄姿を見せる筈であるが本年度の艦隊編成の際には輕巡洋艦數隻驅逐隊一隊を附属隊とした第二航空戰隊 を編成することになつた(記事おわり)
^ 新航空戰隊の威力 横須賀で艤装中の赤城型加賀 が今秋御大典までに完成するので十二月一日の新艦隊編制から新に赤城、加賀の兩艦を以て第一航空戰隊 を編成することになつた。實現の後は海軍の空中威力著しく増大するわけである。
^ 竣工を急ぐ二大航空母艦 廢棄さるべき赤城 加賀の二艦を改造[ 92] (電通東京六日發)我海軍では華府會議の協定に基き廢棄さるべき赤城、加賀の二艦を航空母艦に轉用すべく兩艦の排水量を各二萬七千噸に低下し赤城は本年七月加賀は來年二月までに竣工せしめんとその工事を督励してゐる而してこの上の兩艦が竣工の曉は米國のレキシングトン 英國のヒュツヤス と相並んで世界における四大航空母艦である(記事おわり)
^ 三菱造船所建造の主力艦としては、巡洋戦艦「霧島 」、戦艦「日向 」に続いて3隻目となる[ 22] 。
^ a b □軍艦土佐愈々曳航 佐世保から呉へ悲壮な授受式[ 120] 一日いよいよ呉に曳航される軍艦土佐は卅一日午前十時から土佐艦上斯波三菱造船所長並に幹部以下建艦從事員の重なる者二百餘名海軍から安住原兩大佐以下艤装廻航委員参列し最後の授受式があつた斯波所長は「土佐は世界の軍艦中總ての點において最も優つてゐると信ずるが近く廢艦同様の運命に陥るのは關係者として肉親に別るゝ以上大きな悲しみである」と挨拶を述べこれに對して原大佐は 土佐の運命は偉人が短かい運命であつたと同様であると答へ悲壮な式であつたが土佐艦上には軍艦旗高く檣頭に翻つて最後を飾つた一日は佐世保丸に曳かれて午前七時半に浮標を離れ多數見送りの裡に港外に出で 田沖で曳航作業を施して呉に回航の筈である(記事おわり)
^ 巨艦土佐の推進機 航空母艦加賀に備付く [ 135] ワシントン會議の結果廢棄處分に處せられた巨艦、土佐のかたみ として呉軍港外三子島に保管されてあつた大推進機四個は廣工廠造機部長、工學博士石川登喜治少将が心血を注いで造り上げたものでこれをこのまゝ土佐と共に葬り去るのを遺憾とし華府會議の結果赤城と共に航空母艦に改造と決し目下横須賀工廠で改造艤装中の加賀に備へ付けることゝなり去る八日三子島から一旦呉工廠に回送されたが近く特務艦で横須賀に送る筈(記事おわり)
^ a b ●沈み行く艦に暗然たる竹下 長官 擧手の禮をなしつゝ廃艦「土佐」の最期[ 151] 風雨のため延期された廢艦「土佐」の水葬 は天候恢復したので二月八日午前九時特務艦攝津に曳航されて佐伯を抜錨豊後水道を南下し水の子嶋燈臺沖に出で風浪の鎭まるを待ち漸く九日午前一時頃から乗組船員及び職工百餘名は凄愴なる探照燈を浴びつゝ一薺にキングストンブアルヴ の解放作業を行つたがこれと共に艦底から海水瀧の如く奔入し艦體は刻々沈下し九日午前七時水煙を擧げると共に一面の大渦紋を殘しあはれ故郷の海深く葬り去られた特務艦攝津艦上に立つて從容たる偉人の大往生の如き刹那の光景を眺めた竹下呉鎭守府長官伍堂呉工廠長その他見學将校は何れも暗然として擧手の禮を行ひ悲壮を極めた(記事おわり)
出典
^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940) 、p.58〔 大正七年五月十五日(達七七)艦艇類別等級表中戰艦ノ欄「陸奥」ノ次ニ「、加賀、土佐」ヲ加フ 〕
^ a b c d 「軍艦尾張製造の件」p.17〜19
^ #軍艦基本計画資料 Sheet2、加賀の値
^ #軍艦基本計画資料 Sheet58
^ a b c d e f g h i j k l m n o #昭和造船史1pp .776-777
^ a b c d e #日本の戦艦(上)p .107
^ a b c d e f g 阿部安雄「主要艦艇要目表」#日本海軍全艦艇史 資料篇p.35
^ #帝国海軍機関史 下巻pp.351-352、大体計画要領(四四三-四四四頁)
^ a b #海軍制度沿革11-2(1972)p .1053、『建造中ノ艦船要目ニ関スル件 大正十年十一月四日(官房三七七七)(以下略)』
^ “Nichibei Shinbun, 1919.03.07 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 05. 2023年9月3日 閲覧。 〔 ●八八艦隊の前途 〕
^ a b c d #海軍制度沿革(巻8、1940) 、p.201〔 ◎戰艦加賀及土佐命名ノ件 大正七年五月十五日(達七六)軍備補充費ヲ以テ大正七年度製造ニ着手スヘキ戰艦二隻左ノ通命名セラル 大正七年度着手戰艦二隻 第一隻 加 カ 賀 ガ 第二隻 土 ト 佐 サ 〕
^ #福井戦艦物語弐 、177-179頁〔 栄光の日なき未成戦艦 〕
^ “Nichibei Shinbun, 1919.03.07 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 04. 2023年9月3日 閲覧。 〔 ●戰艦二隻建造 ▲加賀と土佐の起工 〕
^ “Burajiru Jihō, 1921.09.30 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 06. 2023年9月2日 閲覧。 〔 ●帝國海軍の大偉觀 ◇戰闘艦加賀土佐は十月中に進水 〕
^ a b c d #福井世界戦艦 、352頁〔 戦艦加賀(七号戦艦)の建造 〕
^ a b c d e #福井世界戦艦 353頁〔 戦艦土佐(八号戦艦)の建造 〕
^ https://www.jiji.com/jc/d4?p=jac321-20111212181500000018&d=d4_mili
^ “Nippu Jiji, 1929.12.07 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 06. 2023年9月2日 閲覧。 〔 一萬トン級 四隻を容れる呉の大船渠(中略)大正九年以來當時の八八艦隊計畫に基き軍艦土佐級四萬噸戰艦建造の必要に迫られて起工した呉工廠商船部第四船渠は(以下略)
^ “Yuta Nippō, 1922.03.02 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 03. 2023年9月3日 閲覧。
^ “Chōshun Jitsugyō Shinbun, 1922.08.08 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 03. 2023年9月9日 閲覧。 〔 四艦の爆沈決定 廢艦となる薩摩 安藝 加賀は東京灣にて土佐は呉灣口にて来春早々爆彈の標的となるに決した(東京六日發)〕
^ “Shin Sekai, 1923.08.09 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 05. 2023年9月3日 閲覧。
^ #福井戦艦物語弐 、189頁(土佐沈没写真)
^ “Yuta Nippō, 1925.02.10 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 03. 2023年9月2日 閲覧。 〔 廢艦土佐を豊後海峡に撃沈 日本海軍は華府軍縮會議の結果廢艦となりたる戰艦土佐を豊後海峡に撃沈せり同、艦は昨年武装解除を完了せるものなりき(東京九日發信)戰艦土佐は大正十年の建造にかゝり排水量三万九千九百噸加賀との姉妹艦である 〕
^ “Shin Sekai, 1918.06.01 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 10. 2023年9月3日 閲覧。 〔 ●兩大戰艦建造 起工 長門級に優る最大威力艦歐洲大戰の教訓を参照す 〕
^ #福井世界戦艦 、346-378頁〔 戦艦加賀型の概要 〕
^ #海軍制度沿革(巻11、1940) p.552
^ “Nichibei Shinbun, 1921.12.15 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 01. 2023年9月9日 閲覧。 〔 ●攝津を廢し陸奥保存/▲英國もフツド型戰艦建造 〕
^ a b #達大正7年5月 p.25〔 達第七十六號 軍備補充費ヲ以テ大正七年度製造ニ着手スヘキ戰艦二隻左ノ通命名セラル|大正七年五月十五日 海軍大臣加藤友三郎|大正七年度着手戰艦二隻 第一隻 加 カ 賀 ガ 第二隻 土 ト 佐 サ 〕
^ a b #達大正7年5月 p.25〔 達第七十七號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄陸奥ノ次ニ「、加賀、土佐」ヲ加フ|大正七年五月十五日 海軍大臣 加藤友三郎 〕
^ #海軍制度沿革(巻11、1940) p.570〔 加賀|航空母艦|(要目略)|横須賀工廠|大正9-7-19|大正10-11-17|昭和3-3-31|(艦装備略) 〕
^ 「軍艦土佐 加賀製造一件(2)」p.40、#天城愛宕高雄製造取止(2) p.33〔 戰艦加賀今朝八時三十分無事進水致シマシタ 〕
^ 「海軍公報 第2737号 大正10年11月17日(木) 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070277700 p.46〔 ○艦船所在○十一月十七日午前十時調【神戸】加賀、天龍、潜二九、潜三〇、潜三一、潜三二、潜三三、勞山 〕、同資料p.47〔 ○軍艦進水 神戸川崎造船所ニ於テ建造ノ軍艦加賀本日午前八時三十分進水セリ 〕
^ “Shin Sekai, 1921.11.20 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 01. 2023年9月2日 閲覧。 〔 加賀艦進水式の後報 伏見宮殿下神戸行啓 〕
^ #昭和天皇実録二巻 、514頁〔 (大正十年十一月)十七日 木曜日(略)この日、神戸川崎造船所にて軍艦加賀進水式挙行につき、東宮武官及川古志郎を遣わされる。〕
^ a b c #福井戦艦物語弐 181-183頁〔 空母に変身した加賀 〕
^ #天城愛宕高雄製造取止(2) p.7〔 愛宕川崎造船所ニテ本日(十一月二十二日)起工セリ 〕
^ “Nichibei Jihō, 1921.12.17 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . 2023年8月18日 閲覧。 p.1〔 「あたご」建造中止(東京十二月十四日發)川崎造船所にては海軍制限案進捗の情勢に鑑み、戰艦「愛宕」の建造を見合せたり。〕
^ 「大正11年5月 華府会議報告 軍備制限問題調書(上巻)極秘/第4項 第6回海軍分科会 」 アジア歴史資料センター Ref.C08051849800
^ “Nichibei Shinbun, 1922.01.15 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 01. 2023年9月2日 閲覧。
^ “Nichibei Shinbun, 1922.02.07 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 02. 2023年9月9日 閲覧。
^ #造機部長会議1(2) pp.10-13〔 廢棄艦處分方案(造機所掌部)内定 〕
^ “Nyū Yōku Shinpō, 1923.08.25 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 01. 2023年9月2日 閲覧。 〔 廢艦着手 海軍省副官發永野 海軍大佐宛の公電 〕
^ “Maui Shinbun, 1922.05.19 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 01. 2023年9月9日 閲覧。
^ #加賀回航便乗願(1) p.2〔 大正十一年七月八日(略)發信者 神戸川崎造船所長 受信者 艦政本部長 電報譯 加賀今日(七月八日)午前十時御引渡致シマシタ 〕
^ #加賀回航便乗願(1) p.28〔 (ロ)七月十一日之レ迄約一週間ノ不良天候ノ後ノコトヽテ天候極メテ平穏午前五時各曳船(高砂丸仲丸元丸大正丸)ハ加賀艦側ニ來到シ午前六時解纜出港洲本冲ニ曳航ス軍艦富士仝時刻出港 〕
^ #加賀回航便乗願(1) p.4〔 一一-七-一四 加賀本日午前七時四十五分第三区ニ投錨富士八雲モ無事入港ス 〕
^ “Keijō Nippō, 1923.09.19 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 02. 2023年9月2日 閲覧。 〔 造船所の蒙つた打撃【東京電報】 〕
^ a b c “Nippu Jiji, 1925.03.03 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 02. 2023年9月2日 閲覧。 〔 華府條約に依る廢艦作業を終了 土佐艦が最後で 〕
^ #加賀回航便乗願(4) pp.35-37
^ “Ōshū Nippō, 1923.11.08 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 02. 2023年8月18日 閲覧。 p.2〔 ◎天城解體に決定(華府七日)加賀艦を代りに飛行機母艦 〕
^ a b #達大正12年11月 p.16〔 達第二百二十四號 軍備補充費ヲ以テ建造中ノ戰艦加賀及巡洋戰艦赤城ノ艦種ヲ航空母艦ニ改メラル 大正十二年十一月十九日 海軍大臣 財部彪 〕
^ #海軍制度沿革(巻8、1940) p.60〔 大正十二年十一月十九日(達二二五)艦艇類別等級表中航空母艦ノ欄「鳳翔」ノ下ニ「加賀」「赤城」ヲ加ヘ戰艦ノ欄「加賀」及巡洋戰艦戰ノ欄「赤城」ヲ削除ス 〕
^ “Manshū Nippō, 1928.03.03 Edition 02 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 01. 2023年9月2日 閲覧。 〔 航空母艦加賀 一日より就役【東京二日發電】 〕
^ “Nippu Jiji, 1928.03.19 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 06. 2023年9月2日 閲覧。 〔 テニスコートが十二も出來る大航空母艦加賀の甲板いよいよ呉で最後の艤装 〕
^ “Burajiru Jihō, 1929.07.04 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 10. 2023年9月2日 閲覧。 〔 新航空母艦「加賀」今秋竣成 〕
^ “Maui Shinbun, 1928.07.02 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 01. 2023年9月2日 閲覧。
^ “Manshū Nichinichi Shinbun, 1926.04.07 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 02. 2023年9月2日 閲覧。
^ 「進水、命名、艦船籍、類別、等級 pp.19-23 」 アジア歴史資料センター Ref.C06091630000 〔 明治38年8月10日付 海軍大臣官房発行 官房第3040号 〕、p.23〔 戰艦 レトヴヰザン 土佐 〕
^ #海軍制度沿革(巻8、1940) p.199〔 ◎戰利軍艦肥前命名ノ件 明治三十八年九月二十四日(達一三七)戰利軍艦「レトヴヰザン」ヲ肥前ト命名セラル 〕
^ #海軍制度沿革(巻11、1940) p.552〔 (艦名)土佐|(艦種)戰艦|長(呎)715-0|幅(呎)100-0|吃水(呎)30-9|排水量(噸)39,900|速力(節)23|(乗員數)1,370|(短艇數)13|(製造所)三菱長崎造船所|(進水年月日)記載なし|主要兵装 (大砲)41c/m 10 14c/m 20|(機關砲)-|(發射管)8|(探照燈)11|機械(種類)タービン(數)4|罐(種類)艦本式(數)12|(推進器數)4|(備考)(略) 〕
^ “Shin Sekai, 1920.03.15 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 03. 2023年9月3日 閲覧。 〔 世界の最大艦 土佐 先月十六日起工 〕
^ #土佐甲鉄予算 p.4〔 大正九年二月十六日午後六時十五分(略)戰艦土佐本日午前十時起工セリ 〕
^ a b c #昭和天皇実録二巻 、563-564頁
^ 「海軍公報 第2256号 大正9年4月2日 pp.15-16 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070269800 〔 ○艦船所在○四月二日午前十時調【航海中】(将旗)安芸 、薩摩 、香取、海風 、山風 、榎 (二日三角發長崎へ) 〕
^ a b 大正9年4月6日官報第2300号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6 、宮廷録事
^ #海軍制度沿革(巻11、1940) p.573〔 矢風|一等驅逐艦|(要目略)|三菱長崎造船所|大正7-8-15|大正9-4-10|9-7-19|(艦装備略) 〕
^ “Hawai Hōchi, 1920.04.19 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 02. 2023年9月3日 閲覧。
^ a b 「毎日新聞連載 日本造船十話」p.7
^ #多摩命名進水式(2) p.30〔 大正九年二月十日(発信、宛略)軍艦多摩今朝十一時三十分無事進水セリ 〕
^ #土佐図面の件 p.3〔 帝国海軍ノ新艦要目及図面ニ関スル件 〕
^ 「軍艦土佐 加賀製造一件(1)」p.17、#天城愛宕高雄製造取止(2) p.26〔 土佐十八日午前十時半無事進水セリ 〕
^ 「海軍公報 第二千七百六十三號 大正10年12月19日 p.13 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070278200 〔 ○軍艦進水 長崎三菱造船所ニ於テ建造ノ軍艦土佐昨十八日午前十時三十分進水セリ 〕
^ “Shin Sekai, 1921.12.21 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 01. 2023年9月3日 閲覧。 〔 軍艦土佐進水 伏見宮殿下御臨場 〕
^ 大正10年12月17日(土)官報第2814号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ15 〔 宮廷録事(略)◎御沙汰 明十八日三菱長崎造船株式會社長崎造船所ヘ依仁親王 殿下ヲ差遣ハサルヽ旨曩ニ御沙汰アラセラレタル處御都合ニ依リ博恭王殿下ヲ差遣ハサルヽコトニ御變更ノ旨更ニ御沙汰アラセラレタリ(略)◎皇族御發着 博恭王殿下ハ昨十六日御出發長崎縣下ヘ御旅行相成リタリ 〕
^ #昭和天皇実録三巻 、545頁〔 (大正十年十二月)二十一日 水曜日 午前十時御出門、宮城に御出務になる。博恭王に御対顔になり、去る十八日の三菱造船株式会社長崎造船所における軍艦土佐進水式への御差遣につき、御復命を受けられる。(以下略)〕
^ “Shin Sekai, 1922.01.11 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 02. 2023年9月3日 閲覧。 〔 闇から闇への戰艇土佐 進水式を濟まして▽廢艦となる 〕
^ a b “Ōshū Nippō, 1922.01.13 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 05. 2023年9月3日 閲覧。 〔 ●闇から闇へ・・・・・・廢艦「土佐」の進水式 伏見若宮台臨の下に賑やかに擧行され最後を飾る爲め盛に景氣を添ふ 〕
^ 阿川弘之 『山本五十六(上)』 新潮文庫、2011年、63頁
^ a b c #福井戦艦物語弐 、183-184頁〔 進水時のクス玉が暗示する未来 〕
^ #天城愛宕高雄製造取止(2) p.24〔 高雄十九日午前十時起工ヲ了セリ 十二月十九日三菱 〕、同資料 p.31〔 高尾十九日午前十時起工セリ 〕
^ “Shin Sekai, 1922.08.22 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 04. 2023年9月3日 閲覧。
^ #廃棄艦処分答弁 p.5〔 肥前 七月下旬 砲煌及魚雷ニ関スル実驗 〕
^ 「艦船行動簿大正11年8月分 p.1 」 アジア歴史資料センター Ref.C10100089800 〔八月一日〕〔 (艦船名)富士 土佐 八雲|(着)|(發)長崎|(行)呉|(所在)|(記事) 〕
^ 「艦船行動簿大正11年8月分 pp.6-7 」 アジア歴史資料センター Ref.C10100089800 〔八月四日〕〔 (艦船名)八雲/富士/土佐|(着)呉|(發)|(行)|(所在)|(記事) 〕
^ #達大正13年4月 p.9〔 達第四十號 軍備補充費ヲ以テ建造スヘキ左記軍艦ノ建造ヲ取止メラル|大正十三年四月十四日 海軍大臣 村上格一|記 戰艦 土佐、紀伊、尾張|巡洋戰艦 天城、高雄、愛宕 〕
^ #達大正13年4月 p.9〔 達第四十一號 艦艇類別等級表中戰艦ノ欄ヨリ「土佐、紀伊、尾張」ヲ、巡洋戰艦ノ欄ヨリ「天城、高雄、愛宕」ヲ削除ス|大正十三年四月十四日 海軍大臣 村上格一 〕
^ #海軍制度沿革(巻8、1940) p.60〔 大正十三年四月十四日(達四一)艦艇類別等級表中戰艦ノ欄ヨリ「土佐」、「紀伊」、「尾張」ヲ、巡洋戰艦ノ欄ヨリ「天城」、「高雄」、「愛宕」ヲ削除ス 〕
^ #天城(赤城)改造工事材料 pp.1-2〔 大正十一年十二月二十六日 横(呉)鎮長官宛 軍艦天城(赤城)改造工事材料ニ関スル件 其ノ府工廠保管ノ加賀愛宕尾張(土佐高雄紀伊)材料ヲ軍艦天城(赤城)航空母艦ニ改造工事及主力艦改装工事ニ無償使用セシム(以下略) 〕
^ a b #造機部長会議1(2) pp.7-8〔 新造中止艦ヨリ利用シ得ベキモノ(11.3.19調)〕
^ “Nichibei Shinbun, 1922.12.18 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 05. 2023年9月3日 閲覧。 〔 ◆事實となるらしい廢艦の機關譲渡説 〕
^ “Nippu Jiji, 1922.12.27 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 01. 2023年9月3日 閲覧。 〔 廢艦加賀及土佐の汽罐を据付けん 一艦分を譲り受ければ天洋春洋二船に充分 〕
^ “Nippu Jiji, 1923.01.31 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 01. 2023年9月3日 閲覧。 〔 廢艦の汽罐据付は來年頃から實行 佛伊の批准を待つのみで海軍側とは交渉濟み 田山天洋丸事務長談 〕
^ 吉田孝太郎「天洋丸主機械改造に就て 」 社団法人日本船舶海洋工学会『造船協會會報』第37号(1925年10月) 21~36頁
^ 「「航空母艦加賀用予備推進器に関する件」、公文備考 艦船1 巻64(防衛省防衛研究所) 」 アジア歴史資料センター Ref.C04016182400 (官房第3410号、佐世保工廠送付の件)
^ 「「航空母艦加賀用甲鉄製造予算減額の件」J、公文備考 艦船1 巻64(防衛省防衛研究所) 」 アジア歴史資料センター Ref.C04016182500 p.4〔 航空母艦加賀用豫備推進器ニ関スル件 十月官房第三四一〇號ノ訓令ニ據リ首題豫備品トシテ佐世保海軍工廠ニ於テ保管中ノ旧軍艦土佐用豫備推進器四個(左右舷各貮個)ヲ横須賀海軍工廠ヘ送付セシムヘシ 右訓令ス 〕
^ “Nippu Jiji, 1926.02.08 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . 2023年8月17日 閲覧。 p.7
^ 「官房第734号 8.4.12 旧土佐3番砲塔運搬の件」p.1〜3
^ a b #福井戦艦物語弐 、185-187頁〔 はじまった空前の実艦実験 〕
^ a b c #福井世界戦艦 353-355頁〔 土佐の実艦実験 〕
^ #福井戦艦物語弐 、187-188頁〔 確認された水中弾の破壊力 〕
^ 「軍艦土佐 加賀製造一件(1)」p.29〜32
^ #福井戦艦物語弐 、189-190頁〔 (2)対魚雷防御、(3)対機雷防御、(4)対爆弾防御 〕
^ a b #福井戦艦物語弐 、188-189頁「(1)対主砲弾」
^ #提督草鹿任一 、47-48頁〔 砲術学校射撃科教官 大正十年十二月一日→十三年十二月一日 〕
^ 「海軍公報 第3674号 大正14年2月3日 pp.7-8 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070296400 〔 ○艦船所在○二月三日午前十時調【航海中】摂津(二日呉發―佐伯灣ヘ) 〕
^ a b c d #福井戦艦物語弐 190-191頁〔 土佐の海没 〕
^ 「海軍公報 第3675号 大正14年2月5日 pp.11-12 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070296400 〔 ○艦船所在○二月四日午前十時調【佐伯】摂津 〕
^ 「海軍公報 第3679号 大正14年2月9日 pp.34-35 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070296400 〔 ○艦船所在○二月九日午前十時調【航海中】摂津(八日佐伯發) 〕
^ “Shin Sekai, 1925.03.05 ”. Hoji Shinbun Digital Collection . pp. 04. 2023年9月3日 閲覧。
^ 『軍艦島の遺産』40〜42頁
^ 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、2003年、50頁
参考文献
石橋孝夫『日本海軍の大口径艦載砲 戦艦「大和」四六センチ砲にいたる帝国海軍軍艦艦砲史 』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2018年8月。ISBN 978-4-7698-3081-8 。
(185-216頁)「第7章 八八艦隊主力艦の搭載砲」、(217-244頁)「第8章 陸軍要塞砲への転用」
泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X 。
海軍省 編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。
草鹿提督伝記刊行会『提督 草鹿任一』光和堂、1976年2月。
宮内庁 編『昭和天皇実録 第二 自大正三年至大正九年 』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4487-74402-2 。
宮内庁 編『昭和天皇実録 第三 自大正十年至大正十二年 』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 9784487744039 。
(社)日本造船学会 編『昭和造船史 別冊 日本海軍艦艇図面集』 明治百年史叢書 第242巻(四版)、原書房、1978年(原著1975年)。
日本舶用機関史編集委員会 編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想 第一巻 日本戦艦物語〔Ⅰ〕』光人社 、1992年5月。ISBN 4-7698-0607-8 。
福井静夫 著「未曾有の実験艦土佐の最後」、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想 第二巻 日本戦艦物語〔Ⅱ〕』光人社 、1992年8月。ISBN 4-7698-0608-6 。
福井静夫 著「八八艦隊計画の主力艦建造と戦艦加賀型の概要」、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想 第六巻 世界戦艦物語』光人社 、1993年8月。ISBN 4-7698-0654-X 。
福井静夫 『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 。
福田啓二 編『軍艦基本計画資料』今日の話題社、1989年5月。ISBN 4-87565-207-0 。
防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍航空概史』 第95巻、朝雲新聞社、1976年3月。
歴史群像編集部編「第5章 八八艦隊計画の主力艦」『決定版 日本の戦艦 日本海軍全戦艦ガイダンス 』学習研究社〈歴史群像シリーズ 太平洋戦史スペシャル Vol.5〉、2010年10月。ISBN 978-4-05-606094-2 。
アジア歴史資料センター(公式) (防衛省防衛研究所)
Ref.C12070074000『大正7年 達完/達大正7年5月』。
Ref.C08050712100『大正12年 公文備考 巻21 艦船/雑款』。
Ref.C08050713400『大正12年 公文備考 巻22 艦船>修理 付修理材料搭載(2)』。
Ref.C12070075900『大正8年 達完/達大正8年7月』。
Ref.C12070076900『大正9年達完/3月』。
Ref.C12070078300『大正10年達完/2月』。
Ref.C12070079900『大正11年達完/2月』。
Ref.C12070082700『大正12年 達完/達大正12年11月』。
Ref.C12070083400『大正13年 達完/達大正13年4月』。
Ref.C04015098600『軍艦天城(赤城)改造工事材料に関する件』。
Ref.C10081035900『英国飛行機母艦アルガス見学記事』。
Ref.C11080319400『大正8年8月21日 第1119号 帝国海軍に於て建造又は計画中の新艦要目及図面に関する件』。
Ref.C11080329400『大正9年4月11日 第628号 戦艦土佐図面の件』。
Ref.C08050018300「毎日新聞連載 日本造船十話」・斯波孝四郎『「土佐」「高雄」の廃棄』
Ref.C08050442800『軍艦土佐 加賀製造一件(1)』。
Ref.C08050442900『軍艦土佐 加賀製造一件(2)』。
Ref.C04016181400『戦艦加賀土佐を同時に私立造船所に注文の件』。
Ref.C04016181500『軍艦土佐用甲鉄費予算の件』。
Ref.C04016181600『加賀回航の件』。
Ref.C04016181700『加賀回航用物件に関する件』。
Ref.C04016181800『軍艦加賀横須賀軍港回航中便乗御願の件(1)』。
Ref.C04016181900『軍艦加賀横須賀軍港回航中便乗御願の件(2)』。
Ref.C04016182000『軍艦加賀横須賀軍港回航中便乗御願の件(3)』。
Ref.C04016182100『軍艦加賀横須賀軍港回航中便乗御願の件(4)』。
Ref.C04016182200『軍艦加賀を航空母艦に改造する件』。
Ref.C08051092000『特務艦間宮製造一件』。
Ref.C08050393300『造機部長会議1(1)』。
Ref.C08050393400『造機部長会議1(2)』。
Ref.C08051101000『廃棄艦処分に関する件質問答弁』。
Ref.C08080173800『軍艦天城愛宕高雄製造一件(製造取止め)(1)』。
Ref.C08080173900『軍艦天城愛宕高雄製造一件(製造取止め)(2)』。
Ref.C08050174000「軍艦尾張製造の件」
Ref.C08050162000「進水式(2)」土佐通水状況汚動写真ニ摂影方ノ件
Ref.C01003919900「砲塔45口径40糎加農第1号砲(旧土佐2番)秘密図面送付の件」
Ref.C05023304000「軍需2機密第324号 8.4.22 官房機密第734号訓令に依る40糎砲塔運搬に関する件」
Ref.C05023304100「官房第734号 8.4.12 旧土佐3番砲塔運搬の件」
Ref.C08021548600『軍艦多摩命名進水式の件(2)』。
関連項目