紀伊型戦艦 |
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基本情報 |
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種別 |
戦艦[1] |
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命名基準 |
国名 |
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運用者 |
大日本帝国海軍 |
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計画数 |
4 |
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建造数 |
0 |
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前級 |
天城型巡洋戦艦 |
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次級 |
十三号型巡洋戦艦 |
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要目 (計画[3][4]) |
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常備排水量 |
約42,600英トン |
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全長 |
828 ft 0 in (252.374 m) |
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水線長 |
820 ft 6+15⁄16 in (250.112 m) |
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垂線間長 |
770 ft 6+15⁄16 in (234.872 m) |
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最大幅 |
水線上:約106 ft 7 in (32.487 m) 水線下:約102 ft 9 in (31.318 m) |
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水線幅 |
101 ft 11+1⁄8 in (31.067 m) |
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深さ |
59 ft 3 in (18.059 m) |
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吃水 |
32 ft 0 in (9.754 m) |
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ボイラー |
重油専焼:11基・混焼:8基 |
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主機 |
オール・ギヤード・タービン 4基 |
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推進器 |
回転数:210rpm |
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出力 |
131,200shp |
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速力 |
29.75ノット |
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航続距離 |
約8,000カイリ / 14ノット |
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燃料 |
重油タンク:約3,900トン 石炭庫:約2,500トン |
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搭載能力 |
41cm砲弾 1,100発 14cm砲弾 1,920発 12cm高角砲弾 800発 61cm魚雷 24本 艦載水雷艇用45cm魚雷 5本 |
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乗員 |
約1,465名[2] |
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兵装 |
45口径41cm連装砲 5基10門 50口径14cm砲 16門 45口径12cm高角砲 4門 61cm水上発射管 8門 110cm探照灯 10基 |
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装甲 |
舷側水線主甲帯:292mmVC[要目注 1] 舷側水線後部甲帯:229mmVC 前部防御隔壁:267mmVC 後部防御隔壁:203-229mmVC バーベット:203-305mmVC 司令塔側部:229-356mmVC 同上部:177mmNVNC[要目注 2] 同床部:76mmNVNC 同交通筒:51-102NVNC 煙路・機械室通気口:177-216mmVC 上甲板中央部:95mmHT[要目注 3] 中甲板機関部:22-32mmHT 中甲板弾薬庫:48mmHT 中甲板中央傾斜部:70mmHT 中甲板後部:19-44mmHT 下甲板前部:51-117mmHT 水雷防御隔壁:73mmHT 水雷防御横隔壁:89mmHT |
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搭載機 |
一人乗戦闘機 1機、予備1機分 観測気球 1機 滑走台(4番砲塔上) |
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その他 |
650馬力水圧機 5基 300kWタービン発電機 3基 150kW内燃機関発電機 1基 30kW無線用発電機 2基 |
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- ^ VC:ヴィッカース式浸炭鈑
- ^ NVNC:新ヴィッカース式非浸炭鈑
- ^ HT:高張力鋼
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紀伊型戦艦(きいがたせんかん)は日本海軍が八八艦隊計画で計画した戦艦で、いわゆる超弩級戦艦である[注釈 1]。4隻の建造が計画され、1番艦「紀伊」は呉海軍工廠で、2番艦「尾張」は横須賀海軍工廠で建造予定であった[注釈 2]。残り2隻は艦名未定[注釈 3]。1922年(大正11年)2月締結のワシントン海軍軍縮条約に基づき、建造中止となった[注釈 4]。
概要
八八艦隊計画の完成案である八八艦隊案の予算が1919年(大正8年)に提出、翌1920年(大正9年)に成立し、加賀型戦艦と天城型巡洋戦艦に続く第九号艦以降の戦艦・巡洋戦艦の計画が進められていた。当初は建造期間や予算の問題から加賀型や天城型の同型ないし一部改正型の追加建造を検討していたが、その途上で火力や防御力で加賀型を上回るサウスダコタ級戦艦の建造情報を入手したこともあって、用兵側からサウスダコタ級に対抗できる新型艦を要求する声が高まった。また同時期に平賀譲が4連装砲塔の採用を上申したこともあり、1920年(大正9年)春から次期戦艦に搭載する主砲口径や砲塔形式を検討する「主砲研究会」が軍令部参謀であった安保清種を長として開かれた。
主砲研究会では41センチ砲の50口径化による威力の向上や将来の46センチ砲採用、41センチ3連装砲塔を4基搭載する12門艦の早期建造を提言したものの、1921年(大正10年)度の起工を予定していた八八艦隊計画の第九号艦と第十号艦には新型主砲や砲塔の準備が間に合わないことから、天城型巡洋戦艦を基にして一部を改正した戦艦を建造することになった[9]。このため兵装や機関出力は天城型と同一で、船型もほとんど共通であるが、戦艦への改正により、天城型と比較すると舷側や甲板、主砲塔等の装甲を1インチから1インチ半増厚、煙路や通気口への防御甲板追加で加賀型戦艦を上回る防御に強化し排水量が約1400~1600トン増加することとなった。速力は天城型よりは低下するが、戦艦としては高速な29.75ノットとされた(ただし、これらは机上の計算値でしかなく、実際には重量増が1400トン程度では収まらず、速力はより低下していただろうという説もある)。
こうして八八艦隊計画の第九号艦と第十号艦を紀伊型として建造することは決定し、1921年(大正10年)10月に「紀伊」「尾張」の建造訓令が出された。一方で1922年(大正11年)度以降の建造が予定されていた第十一号艦と第十二号艦については紀伊型の船体を基本としつつ主砲研究会の提言通り新型の主砲や砲塔を搭載する案、船体規模を5万トン前後に大型化する案など[10]も検討されていた。
ワシントン会議の開催時点で、呉海軍工廠では巡洋戦艦「赤城」を、横須賀海軍工廠では巡洋戦艦「天城」を建造中で、2隻とも進水を終えていなかった[11]。「紀伊」(呉工廠)と「尾張」(横須賀工廠)は材料の準備が大部分終わったところであったという[11]。
ワシントン軍縮条約の締結により、加賀型戦艦は建造中止、「紀伊」と「尾張」は起工を待たず建造取りやめ[注釈 2][注釈 5]。第十一号艦と第十二号艦も詳細な設計には至らず中止された。
その後
太平洋戦争の最中に刊行された『ジェーン海軍年鑑』では、日本海軍が5隻建造に着手している4万トン級新型戦艦(大和型戦艦)の艦名について「日進」「高松」「紀伊」「尾張」「土佐」と推定した[注釈 6]。
大和型戦艦の4番艦(111号艦)は、第二復員局が1951年(昭和26年)にまとめた資料によれば「紀伊」という艦名であった[注釈 7]。
後の「超大和型戦艦」(計画のみ)は紀伊と尾張の名を受け継ぐ予定であったとも言われる。
同型艦
脚注
注釈
- ^ 戰艦命名[5] 第四十三議會に追加要求せる造船計畫に基き八八艦隊所属戰艦二隻巡洋艦二隻は二十二日を以て左の如く命名せられたり
△戰闘艦「紀伊」(四萬四千五百噸)
△ 同 「尾張」(四萬三千五百噸)
△巡洋艦「阿武隈」(五千五百噸)
△ 同 「鬼怒」(五千五百噸)
尚前記各艦の建造所は未定なるも多分紀伊は呉、尾張は横須賀工廠にて建造せらるべく右は大正十三年頃竣工の運びに至るべしと(東京發電)(記事おわり)
- ^ a b ◎故國勞働者二万七千失職す[6]東京一日發 朝日新聞の報道に依れば華府軍縮會議の結果四ヶ所の造船所にて建造中の八大主戰艦の事業中止を海軍省より命令された故に造船工二万七千は一時に失業の悲運に遭ふた。八大艦の中には竣工間際のものが多い。造船所と艦種を擧ぐれば戰艦土佐、大巡洋艦高雄は長崎の三菱造船所にて中止され、戰艦加賀、巡洋戰艦愛宕は神戸の川崎造船所、戰艦紀伊、巡洋戰艦赤城は呉海軍造船所戰艦尾張、巡洋戰艦天城は横須賀にて夫々中止の命を受けた。(記事おわり)
- ^ ●海軍の新威力 軍艦長門 ▼栃内司令長官談[7] 帝國海軍八八艦隊の基本艦たるべき第一艦隊旗艦戰艦長門は新鋭の武装漸く成り建造地呉より廻航して所属横須賀軍港に入港し日を定めて一般の觀覽を許してゐるが同艦坐乗の栃内第一艦隊司令長官は語る『本艦は總員千三百名浪にも風にも強くて先づ申分の無い艦(ふね)だ大正十六年迄には此長門を總領に陸奥、加賀、土佐、紀伊、尾張それにまだ名の附かぬ二隻の戰闘艦を加へて合計八隻と天城、赤城、高雄、愛宕及びまだ名の附かぬ四隻を加へて合計八隻の巡洋戰艦都合十六隻の八八艦隊が完成される筈であるが(以下略)
- ^ 日本造艦中止 四隻の主力艦と四隻の補助艦[8] 日本海軍省は新海軍縮小協定條約に依つて建造中であつた八隻の軍艦工事を中止を命令した右八隻中主力艦は加賀、紀伊、尾張、土佐で巡洋艦は愛宕、赤城、天城、高尾の四隻である(記事おわり)
- ^ 日本艦隊一勢力 戰艦四隻中止で四隻建造[12] 東京一日發 海軍制限協約に依り海軍省では三菱、川崎、呉、横須賀の四造船所に軍艦建造中止令を發布せるが是に依り建造中の戰闘艦土佐及び加賀、戰闘巡洋艦高尾及び愛宕は工事を中止さる、然れども四造船所は更に戰闘艦紀井、尾張、戰闘巡洋艦赤木と天城を建造中(記事おわり)
- ^ 日米兩國の建艦競爭 英海軍年鑑が表示 兩國とも航空母艦と戰艦に専念[13]『ロンドン五月十四日』世界海軍の権威として知られる英國の海軍年鑑「ヂエーンス フアイテング シツプ』一九四年版は日米兩國が有史以來の大建艦競爭をしてゐる事を記載し左の如く其の概異を述べてゐる 日本は四万噸以上の戰闘艦五隻を建造或は建造に着手して居り其中 日進 高松の二隻は完成或は完成に近く紀伊 尾張 土佐の三艦も最早遠からず完成するに近いと思惟される 此中の最後の起工はニヶ年半前であつたと云つてゐる之に反し 米國は戰闘艦十七隻と巡洋戰艦六隻の建艦を計畫した外航空母艦十一隻巡洋艦四十隻と驅逐艦多數の建造に着手してゐる(記事おわり)
- ^ 三.戰艦信濃及紀伊の建造工事中止[14] ④計畫に基く戰艦信濃及紀伊は夫々横須賀及呉海軍工廠に於て起工(紀伊は予定より六ヶ月繰上げ)し二重底迄の船殻工事を終つた時期に主として甲鈑の製造遅延の為一時建造工事を中止するに至つたが後日開戰後の軍備戰備計畫の大改變に基き信濃は航空母艦として再現せしめ得たが紀伊は遂に解体することとなつたものである。
- ^ 新造超弩級戰艦尾張と壹岐[16] 目下建造中の超弩級戰闘艦二隻は尾張及び壹岐と命名さる(記事おわり)
出典
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『大正10年 公文備考 巻24 艦船1/軍艦尾張製造の件』。Ref.C08050174000。
- 『大正9年 達 完/11月』。Ref.C12070077800。
- 『大正13年 達 完/4月』。Ref.C12070083400。
- 石橋孝夫「幻の無敵海獣「巨大戦艦」史22」『丸』第776巻、潮書房、2010年12月、140-143頁。
- 石橋孝夫「幻の無敵海獣「巨大戦艦」史23」『丸』第778巻、潮書房、2011年2月、140-143頁。
- 歴史群像シリーズ『帝国海軍の礎 八八艦隊計画』学研パブリッシング、2011年、ISBN 978-4-05-606374-5
- 平賀譲デジタルアーカイブ
- 『〔巡洋戦艦天城型主要目、紀伊型戦艦のデータ記入あり〕』。22250201。
- 『戦艦要領書〔戦艦紀伊・尾張型〕〔他、天城型巡洋戦艦との相違点など〕』。22260201。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
関連項目
- 八八艦隊
- 超大和型戦艦 - 艦名「紀伊」、「尾張」を引き継ぐ予定だったとの説がある。
- 日本国召喚 - ライトノベル。外伝で紀伊型戦艦の存在が大きく関わっている。
外部リンク
- “平賀譲デジタルアーカイブ”. 東京大学学術資産等アーカイブズ共用サーバ. 2021年11月18日閲覧。 - 所収史料のカード目録のひとつに〔紀伊・尾張関係史料〕あり。これを指定した検索結果[1]によれば2021年時点で14点の史料がある。