久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう、1901年〈明治34年〉2月2日 - 1959年〈昭和34年〉12月7日)、または久邇 朝融(くに あさあきら)は、日本の旧皇族、海軍軍人。久邇宮第3代当主。官位は海軍中将大勲位功三級。香淳皇后の兄[2]、第125代天皇・明仁の母方の伯父にあたる。
1901年(明治34年)2月2日、久邇宮邦彦王と同妃俔子の第1王子として誕生し、2月9日に朝融と命名された[3]。
1921年(大正10年)2月2日に20歳を迎え、貴族院議員となった[4][注釈 1]。4月19日に成年式が執り行われた[5]。同年7月16日に海軍兵学校(49期)を卒業し、皇族軍人の一員として海軍軍人としてのキャリアを歩む。兵学校では、華頂宮博忠王と同期生だった。
また、同年には宮中某重大事件として、妹宮良子女王と皇太子裕仁親王の婚約に際し、遺伝的要素が問題視された。久邇宮邦彦王の強硬姿勢もあって、最終的に婚約に変更は無く、事件は終息した。1924年(大正13年)頃、婚約が内定した酒井菊子との婚約を朝融王が破棄するスキャンダルが発生し、最終的に、酒井家側に落ち度はないものの同家が婚約を辞退することで決着した(#婚約破棄事件の項参照)。
1925年(大正14年)1月26日、元帥海軍大将伏見宮博恭王第3王女の知子女王と結婚する[6]。
しかし1928年(昭和3年)、朝融王は鎌倉に単身赴任中、妻のいないすきに侍女と関係を持ち、妊娠させる。知子女王は、事務官に父親の伏見宮博恭王に知らせないでほしいと告げる。侍女は他家へ嫁がされ、侍女の産んだ子供は、事務官の手配で農家の養子になった。侍女には5000円、養子先の農家には1万円が支給された(当時の総理大臣の年俸は1万円に満たない額だった)。朝融王の三女通子は戦後、「(父は)いろんな女性に、一ダースではきかないほどご落胤を生ませている」と述べている[7][8]。
1929年(昭和4年)1月27日の父宮の薨去を受けて久邇宮家を継承する。妃知子女王との間に、8子を儲けた。
1947年(昭和22年)5月下旬、時事新報が「皇后の単独会見」と称する記事を報じ、朝融王もこの捏造に関与していた[9]。時事新報は記事の取り下げに抵抗したため、同年6月3日の天皇・皇后に対する取材において、皇后が自ら「(記者に会ったことは)ありません」と明確に否定する事態となった[10][11]。
同年6月28日、妃知子女王が薨去する。
1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱し、久邇朝融と名乗った。海軍軍人であったため公職追放となる[12](1952年解除[13])。
戦後は東京・立川のオパレスク化粧料本舗が1948年(昭和23年)ごろから売り出した「久邇香水」に名義貸しビジネスをするなど、いくつかの事業を興すがいずれも上手くいかず、赤字を補填するために渋谷区宮代町の本邸(現・聖心女子大学)、静岡県熱海別邸と新潟県赤倉別邸を売却し、渋谷区常磐松町の母・俔子の隠居所に5人の子供と転がり込んだが、ここも飯野海運社長・俣野健輔の手に渡った(のち長男・邦昭は大学卒業後、飯野海運に就職)。
生活に窮した朝融は、東本願寺に嫁いでいる妹・大谷智子裏方に頼み、当時米国留学中だった大谷光紹の住まいである、京都市左京区の大谷家聖護院別邸に入ろうとしたが、真宗大谷派門徒の反対に遇い断念した[14] 。
女性関係の派手さは相変わらずで、当時の宮内庁長官田島道治の『拝謁記』には、皇族たちでつくる菊栄親睦会からの除名も考えたが本人の自覚がないので意味がない、と田島が愚痴を述べたり(1951年8月28日条)、「新橋とか赤坂とかの若い芸者を沢山御承知」(1952年2月5日条)、「御自分の享楽の為のみでお金とか女とかいふ事のみで…」(同2月20日条)などと書かれている。昭和天皇も「余りお金があれば又女の方へといふ事にならう」(1951年8月17日条)、「禁治産にでもしなければいかぬか」(1952年2月4日条)、「久邇さんは婦人がおすき」(同2月26日条)などと述べている[8]。
1959年(昭和34年)12月7日に死去。
朝融王妃決定までには『婚約破棄事件』と称される混乱があった。1917年(大正6年)、朝融王と伯爵酒井忠興の次女菊子は婚約する。しかしのちに、久邇宮家側が一方的な婚約解消を望み、宮内省を巻き込む騒動となる。朝融王と菊子との婚約は既に勅許を得たものであり、また久邇宮家は、先の皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)と良子女王の婚約の際、婚約解消を断固拒否したばかりだった(宮中某重大事件)。
久邇宮側の婚約破棄の理由は「菊子に節操にかんする疑いがある」とのことであったが、宮内省が噂の出どころを調査した結果、事実無根であることが解った。にもかかわらず朝融王と邦彦王は菊子との性格不一致を理由に婚約破棄を強行する。だが勅許が覆された前例はなく、久邇宮家側の言い分が過分に一方的であったため、大問題となった。皇族の結婚は勅許を得て行われ、たとえ皇族といえどこれを覆すのは至難。納采の儀の前ではあったが勅許を得た婚姻であり、宮内省宗秩寮総裁の侯爵徳川頼倫、宮内大臣の伯爵牧野伸顕らの説得にもかかわらず、邦彦王は息子の婚約破棄の方針を貫く。
結局、1924年(大正13年)11月、宮内省は酒井伯爵家側から婚約辞退の申し出をさせることで事態を収拾させた。当時摂政であった裕仁親王(昭和天皇)は、邦彦王に訓戒の言葉を伝えている。前田侯爵家に嫁いだ菊子の長女美意子は、昭和天皇と香淳皇后の第一皇女照宮成子内親王(朝融王から見て姪にあたる)の学友として親交があった。
後年、小山いと子が1956年(昭和31年)、実名小説『皇后さま』(主婦の友社)の中で、酒井美意子が1982年(昭和57年)『ある華族の昭和史:上流社会の明暗を見た女の記録』(主婦と生活社)の中で、菊子の側から、この事件を記している[15]。
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