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中原 宏(なかはら ひろし、1923年8月29日 - 1986年9月27日)は、岐阜県岐阜市出身のプロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・解説者。
実家は風呂屋。旧制享栄商業学校卒業後、1943年に阪神軍へ入団したが、僅か1年で召集され戦地へ赴く。
1946年3月、ソ連抑留が解けて外蒙古から岐阜へ帰郷したところへ岐阜商業野球部OBの村瀬保夫から「岐阜商OBで野球チームを作るが特別に参加して欲しい」と声をかけられ、大日本土木の下請け会社である帝国木工に入社し[1]、チームに参加。同年の第17回都市対抗野球に岐阜市代表・大日本土木のエース兼5番打者として出場。全試合を完投して優勝を果たし、戦後初の橋戸賞を受賞した[1]。1947年の第18回大会にもエースとして出場。2連覇を達成し[2][1]、久慈賞を受賞[1]。
1948年に南海ホークスへ入団し、真っ向上段から直角に近く曲り込むドロップを武器に同年は13勝を挙げる[1]。立ち上がりやコントロールが悪く、1949年には当時の日本新記録である1イニング3暴投を記録(現在は最多タイ)。1955年オフに現役を引退。
現役引退後は、南海(1956年 - 1958年・1980年 - 1982年・1984年 - 1985年二軍投手コーチ, 1961年 - 1965年一軍投手コーチ, 1983年二軍ヘッド兼投手コーチ, 1959年 - 1960年スカウト, 1986年球団顧問)、サンケイ(1966年 - 1967年ヘッドコーチ)、近鉄(1969年 - 1973年一軍投手コーチ)、阪急(1976年 - 1977年二軍投手コーチ, 1978年 - 1979年一軍投手コーチ)でコーチ・スカウトを歴任。また、サンケイのコーチをしていた1967年には監督代行を5月下旬から7月上旬まで務め、当時のチーム記録の9連勝を記録し29試合で16勝12敗と勝ち越した[3]。コーチ業の合間を縫って、朝日放送の野球解説者(1968年)を務めた。
1986年9月27日死去。
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