上野 正雄(うえの まさお、1890年(明治23年)7月16日 - 1965年(昭和40年)2月16日)は、日本の華族、海軍軍人。北白川宮能久親王第6王男子。爵位は伯爵、最終階級は海軍少将。旧姓は永田。
経歴
東京府出身。生母は福井県士族前波某の娘の栄。北白川宮能久親王の第六男であると判明したため、1897年(明治30年)7月1日、伯爵を授けられ華族に列した。
軍歴
1912年(明治45年)7月17日、海軍兵学校を卒業(40期)。翌年12月、海軍少尉任官し「金剛」乗組となる。1918年(大正7年)12月から1年間、海軍水雷学校高等科で学んだ。
1919年(大正8年)12月、「扶桑」分隊長となり、「龍田」分隊長、「浦風」水雷長兼水雷学校教官、「汐風」水雷長などを経て、1923年(大正12年)3月、海軍大学校選科学生となった。1925年(大正14年)4月、「阿蘇」分隊長となり、同年12月、海軍少佐に昇進し「迅鯨」水雷長に就任。
1926年(大正15年)12月1日、「五十鈴」水雷長となり、「古鷹」水雷長、「灘風」駆逐艦長、兼「夕風」駆逐艦長、「榛名」水雷長などを経て、1937年(昭和12年)12月、海軍中佐に進級し「鳴戸」副長に就任。1933年(昭和8年)11月、「多摩」副長となり、「木曾」副長、「対馬」艦長、第4駆逐隊司令、「嵯峨」艦長などを歴任し、1938年(昭和13年)11月、海軍大佐に進級。同年12月、「北上」艦長に就任し、鎮海要港部軍需部長を経て、1941年(昭和16年)4月、鎮海軍需部長となり太平洋戦争を迎えた。
1943年(昭和18年)3月、横須賀鎮守府付となり、第9特別根拠地隊付、第11潜水艦基地隊司令、兼第9警備隊司令、横須賀鎮守府付を歴任し、同年11月、海軍少将に進級。同月、軍令部出仕となり、翌月、待命・予備役編入にされた。戦後、公職追放となった[3]。
栄典
親族
- 父:北白川宮能久親王
- 母:前波榮
- 前妻:上野惠以子(えいこ、1894 - 1945) - 伯爵伊達宗基長女
- 長女:上野順子(1917年生[6])
- 長男:上野正泰(1918年8月6日生[7])
- 次男:上野龍雄(1920年7月14日-1941年6月8日[7])
- 三男:上野忠雄(1923年6月4日-1946年3月24日[7])
- 次女:上野悦子(1926年生[6])
- 四男:白川久雄(1927年10月25日生[7]、白川資長養子(1954年離籍[8])
- 後妻:上野敏子(1904年生) - 伊勢神宮少宮司慶光院利敬長女
系図
脚注
注釈
出典
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、699頁。NDLJP:1276156。
- ^ 『官報』第2106号「叙任及辞令」1919年8月12日。
- ^ 『官報』第4147号「叙任及辞令」1940年11月1日。
- ^ a b 人事興信録第14版ウ26
- ^ a b c d e f g 平成新修旧華族家系大成上p234
- ^ 平成新修旧華族家系大成上p763
参考文献