リチャード・P・リアリー (USS Richard P. Leary , DD-664) は、アメリカ海軍 の駆逐艦 。フレッチャー級駆逐艦 の一隻。艦名はリチャード・P・リアリー 少将 に因む[ 2] 。
艦歴
「リチャード・P・リアリー」は1943年7月4日にマサチューセッツ州 ボストン のボストン海軍工廠 で起工、1943年10月6日にジョージ・K・クロツァー3世夫人によって命名・進水[ 2] 。1944年2月23日にフレッチャー級駆逐艦の155番艦として艦長フレデリック・S・ハベッカー中佐の指揮下で就役した[ 2] [ 1] 。
「リチャード・P・リアリー」の隣では同型艦「ヘイウッド・L・エドワーズ 」 (USS Heywood L. Edwards , DD-663) も建造されており、同日進水した。以降、「リチャード・P・リアリー」と「ヘイウッド・L・エドワーズ」両艦はその艦歴の多くを共にすることとなった[ 1] 。
マリアナとパラオ
バミューダでの整調後、「リチャード・P・リアリー」はパナマ運河 経由で真珠湾へ向かった。7月にエニウェトク環礁 およびサイパン での護衛任務と対潜 哨戒に従事した後、第56駆逐戦隊 (Destroyer Squadron 56, DesRon 56) に所属した「リチャード・P・リアリー」はテニアン島 を砲撃した(テニアンの戦い )。
1944年9月12日から28日にかけて、「リチャード・P・リアリー」はパラオ諸島の戦い に参加し、ペリリュー島上陸 とアンガウル島上陸 において海兵隊 や水中爆破チーム (英語版 ) (Underwater Demolition Team, UDT) に支援を行った。さらに周辺海域で日本艦船の捜索、海上に不時着した友軍機搭乗員の救助任務にもあたっている[ 1] 。
フィリピン
「リチャード・P・リアリー」はレイテ島の戦い に参加するためフィリピン へ移動し、1944年10月18日から11月21日にかけて支援砲撃を行った。10月20日、軽巡洋艦 「ホノルル 」 (USS Honolulu , CL-48) に航空魚雷が命中した際には、「リチャード・P・リアリー」は「ホノルル」に接舷してダメージコントロール と医療活動を支援すると共に、負傷者26名を移乗させた[ 1] 。
スリガオ海峡海戦 に臨むにあたり、第56駆逐戦隊は部隊を3隊に分けて展開した。そのうち第1分隊は「リチャード・P・リアリー」「ニューコム 」 (USS Newcomb , DD-586) そして「アルバート・W・グラント 」 (USS Albert W. Grant , DD-649) からなり、3隻はスリガオ海峡 の中ほどを進むと日本艦隊へ雷撃を行った。「リチャード・P・リアリー」は日本側から7,200ヤード (6,600 m) の距離で魚雷3本を発射、そして戦隊の放った魚雷2本が戦艦 「山城 」に命中したと思われた[ 1] 。
アメリカ側の戦艦群と日本艦隊の激しい砲戦が続き、双方の放った弾が戦隊に飛来した。「リチャード・P・リアリー」と「ニューコム」は被害を受けなかったものの、「アルバート・W・グラント」が酷い損傷を負った[ 2] 。また、「チャード・P・リアリー」は接近してきた魚雷4本を回避している[ 1] 。
砲戦が収まった後、「チャード・P・リアリー」と「ニューコム」は「アルバート・W・グラント」のダメージコントロールを支援し、対空援護を行った。敵機1機を撃墜し、その後は艦隊曳船「チカソー (英語版 ) 」 (USS Chickasaw , ATF-83) に曳航される「アルバート・W・グラント」を護衛した[ 1] 。
雷撃を受け傾斜した軽巡洋艦「ホノルル」に接近する「リチャード・P・リアリー」。1944年 10月20日撮影。
11月1日、「チャード・P・リアリー」はレイテ湾 沖で支援任務に従事する第77.1任務群に配属されたが、そこで任務群は神風特別攻撃隊 の攻撃にさらされた。駆逐艦「クラクストン (英語版 ) 」 (USS Claxton , DD-571) が大きな損傷を受け、続いて第48駆逐戦隊 (Destroyer Squadron 48, DesRon 48) 旗艦「アブナー・リード 」 (USS Abner Read , DD-526) に特攻機が突入し沈没した[ 1] 。
「チャード・P・リアリー」は「クラクストン」の救援を行い、新たに突入してきた特攻機1機を撃墜[ 1] 。第48駆逐戦隊司令や艦長、副長を含む「アブナー・リード」の生存者70名を救助している[ 1] [ 2] 。
スリガオ海峡でレーダーピケット 任務に就いていた11月20日、「チャード・P・リアリー」はPTボート 「PT-495」の戦傷者9名を「PT-491」から移乗させ、病院船 「LST-1025 」(USS LST-1025 ) へ引き渡した[ 1] 。ルソン島の戦い で「リチャード・P・リアリー」は、1945年 1月6日に敵機1機を撃墜、9日には上陸部隊への火力支援を行った[ 2] 。
硫黄島と沖縄
1945年2月15日から3月16日にかけて硫黄島の戦い に参加し、上陸部隊に再び火力支援を行った。その間レーダーピケット任務に従事中だった2月22日には、硫黄島沖約30海里 地点を漂流していたLVT から海兵隊員7名を救助している[ 1] 。
1945年3月25日から5月28日まで[ 1] 、沖縄戦 でも「リチャード・P・リアリー」は砲撃支援任務に従事している[ 2] 。4月6日、損傷した第2駆逐戦隊 (Destroyer Squadron 2, DesRon 2) 旗艦「モリス (英語版 ) 」 (USS Morris , DD-417) を高速輸送艦 「ダニエル・T・グリフィン 」 (USS Daniel T. Griffin , APD-38) と共同で救援した。同日、所属する第56駆逐戦隊の旗艦「ニューコム」が特攻機によって酷く損傷したため、「リチャード・P・リアリー」が戦隊旗艦を承継した[ 1] 。
沖縄での活動で、「リチャード・P・リアリー」は沿岸砲撃、レーダーピケット任務、特攻機および特攻艇からの防衛(特攻艇2隻撃破を記録)、対潜、不時着機乗員の救援といった多様な任務をこなした。5月28日までに、5インチ主砲弾22,000発以上を消費した[ 1] 。
沖縄 での任務が完了すると、「リチャード・P・リアリー」は8月にアラスカ州 アダック (英語版 ) への派遣が命じられた。アリューシャン列島 での任務後、日本 に向かい、9月8日に大湊 に到着する。その後9月30日に日本を出航し、カリフォルニア州 サンディエゴ に向かった[ 2] 。
帰国後、不活性化 が命じられ、1946年12月10日に退役、太平洋予備役艦隊 (英語版 ) 入りした[ 2] 。「リチャード・P・リアリー」は、大戦における全活動において損傷、戦死者といった損害を出すことがなかった[ 1] 。
海上自衛隊
太平洋予備役艦隊でモスボール状態のまま保管されていた「リチャード・P・リアリー」は、1954年 3月8日 の日米艦艇貸与協定 に基づき1959年 3月10日に僚艦「ヘイウッド・L・エドワーズ」(後の「ありあけ 」 (DD-183) )とともに日本の海上自衛隊 に貸与され、以後1960年 から15年間海上自衛隊の護衛艦「ゆうぐれ 」(DD-184) として就役した[ 3] 。艦名は夕暮れ に由来し、この名を受け継ぐ日本の艦艇としては、神風型駆逐艦 (初代) 「夕暮 」、初春型駆逐艦 「夕暮 」に続き3代目に当たる。
アメリカのロング・ビーチ で日本側に引き渡された「ゆうぐれ」は、モスボール状態のまま岡田組サルベージ の曳船 によって曳航され太平洋を横断した[ 4] 。日本に回航後石川島重工業 東京第二工場においてモスボール解撤および改装工事を実施し、1960年12月17日 に完了した[ 3] 。この工事において5インチ3番砲に加え、20ミリ機銃 及び21インチ魚雷発射管 を復元性能改善のために全て撤去し、40人収容の実習員講堂を新設、燃料タンクの一部を真水タンクに改造した。これは本型が訓練を主任務としたためで、後に遠洋練習航海 に「ゆうぐれ」は4度参加している[ 4] 。
1962年 、遠洋練習航海 で護衛艦「てるづき 」(DD-162) とともにグアム を訪問した「ゆうぐれ」。
1959年11月16日 、「ゆうぐれ」は「ありあけ」と第1護衛隊を新編し、横須賀地方隊 に編入された[ 4] 。
1960年10月1日には、艦種が貸与当初の「警備艦」から「護衛艦」に変更された[ 3] 。
「ゆうぐれ」は1962年 に特別改装工事が実施され、前部マスト を三脚檣に改め、対空レーダー をSPS-12 、対水上レーダーをSPS-10 に換装、Mk.37射撃指揮装置のレーダーをMk.25に換装し、後部に新たにMk.57射撃指揮装置を装備した。また爆雷 投下軌条1基と同投射機(K砲)をすべてを撤去し、代わりにMk.2短魚雷落射機を両舷に装備した。その他、士官室及びCIC の改造も行われ、艦橋構造物が拡張された。姉妹艦「ありあけ」と異なる点として、「ゆうぐれ」は艦橋前の40mm対空砲 2基を撤去してMk.10ヘッジホッグ 対潜迫撃砲 2基が追加された[ 4] 。しかし、後にMk-108対潜ロケット発射機(ウェポン・アルファ )の装備や艦首延長といった大規模改装を受けた姉妹艦「ありあけ」と異なり、「ゆうぐれ」には退役までそれ以上の大掛かりな改装は行われなかった[ 3] 。
1963年 12月10日 に第1護衛隊が廃止となり、「ゆうぐれ」「ありあけ」は練習艦隊第2練習隊に編入されて主に練習艦 任務に用いられた[ 3] 。1970年 3月2日に第2練習隊が解隊されると、「ゆうぐれ」は同日第2掃海隊群 旗艦となる。さらに1972年 3月10日には第1潜水隊群 に配備され旗艦を務めたが、この際「ゆうぐれ」は両舷後部上甲板に魚雷揚収用ダビットとレールを追加している[ 4] 。
「ゆうぐれ」は1974年 3月9日 に「ありあけ」とともに海上自衛隊を退役し、翌3月10日 アメリカ海軍に返還された[ 3] 。「ゆうぐれ」の後任として1973年 12月16日付で護衛艦「はるかぜ 」(DD-101) が第1潜水隊群に編入されている[ 4] 。その後1976年 7月1日 に台湾 へスクラップとして売却、解体された[ 1] 。
栄典
「リチャード・P・リアリー」は第二次世界大戦 の戦功で6個の従軍星章 (英語版 ) を受章した[ 2] 。
脚注
関連項目
外部リンク