この項目では、ユダヤ人のテノール歌手について説明しています。ポーランドの陸上競技選手については「ヨゼフ・シュミット 」をご覧ください。
ヨーゼフ・シュミット (ドイツ語 : Joseph Schmidt , 1904年 3月4日 - 1942年 11月16日 )は、ユダヤ人 のテノール 歌手・映画俳優。タウバー 、ヤーライ 、キープラ と共に戦前のドイツ語圏 に於けるオペレッタ と音楽映画 の黄金時代を飾ったスターテノールの一人だった。
来歴
歌手としてのキャリア
1904年3月4日、ドイツ から移民した小作人夫婦ヴォルフとザラの間に5人兄弟の3番目の子である長男としてオーストリア=ハンガリー帝国 領ブコヴィナ ・ダヴィデンデ(Davidende, 現ウクライナ 、ダヴィデニ Давидени )に生まれた。
家族は敬虔なハシディズム で、ヨーゼフはシナゴーグ で少年合唱団に参加し、その当時から頭角を表し、ソプラノ歌手フェリシティ・レルヒェンフェルトの下に声楽を学び、1925年からはワイセンボーン の発明者であり、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ の師であるヘルマン・ヴァイセンボルンに師事した。この間にも、ヨーゼフはユダヤ人 社会のコネクションを通じてオランダ ・ベルギー 等でもキャリアを研鑽し、ソロ活動やシナゴーグ に於ける演奏活動を展開した。活躍の転機となったのはラジオ放送であり、1929年 4月18日、マイアベーア の『アフリカの女 』全曲の収録放送によるデビューだった。
その評判は名テノール歌手のエンリコ・カルーソー とも比され、「ラジオのカルーソー」[ 1] の異名を取った。『イドメネオ 』、『魔笛 』でのブルーノ・ワルター と競演を初めとしてジョージ・セル 、ヘルマン・シェルヘン 等とも競演、1933年 にナチス がドイツ帝国放送協会を国営化し、独占するまで20余りの全曲放送に出演した。しかし、極端に低いその身長[ 注 1] によるハンディキャップからドイツでは舞台に出演することはほとんどなく、1929年8月31日、ベルリン国立大劇場におけるラルフ・ベナツキー 作『三銃士(オペレッタ) 』の初演への出演記録が残されているに過ぎない。ナチスによるユダヤ系芸術家の強制排除によって、ドイツに於けるラジオ出演は1933年 2月20日のペーター・コルネリウス 作『バグダッドの理髪師』が最後となった。
同じユダヤ系の歌手であり作曲家でもあったリヒャルト・タウバー は、自作のオペレッタ『謳う夢』(原題:Der singende Traum)の主題歌『君は僕のすべて』を"Du bist die Welt für mich"をヨーゼフに捧げている。
映画出演
ヨーゼフは、ラジオでの人気を背景に1931年に『愛する特急』 原題 „Der Liebesexpreß“ に出演以来、『ゲーテは生きている!』 原題:„Goethe lebt...!“ (1932年公開)『狩られる人々』 原題: „Gehetzte Menschen“ (1932年公開)に出演し、1933年には主題歌のヒットと共にヨーゼフの名を後世まで名を残すことになった『歌は世界を駆けめぐる』原題Ein Lied geht um die Welt まで4本のドイツ映画に出演している。また、ナチスがドイツでの映画界を統制してからも、オーストリアで3本の映画に出演し、中でも主役級の音大生を演じた1934年公開の『空から降ってきた星ひとつ』原題:* „Ein Stern fällt vom Himmel“ は代表作となった。
国外公演
また、それ以前にも1937年 にはニューヨーク のカーネギーホール に出演しアメリカデビューを果たし、1939年 のシーズンにはプッチーニ の『ラ・ボエーム 』でロドルフォを演じ、ベルギー のブリュッセル ・リエージュ ・ヘント ・アントウェルペン ・オーステンデ などの劇場を廻り24回ステージに立った。ベルリン を追われてからは、その活躍の場をウィーン へと移したが、1938年 の独墺合邦 によって再び活躍の場を失い、1940年 に南フランスのニース 近郊へと居を移す。1942年 5月のフランスのアヴィニヨン における出演が最後のステージとなった。しかし、ナチス・ドイツ の侵攻はフランス にも及ぶところとなり、アメリカ のエージェントがキューバ への脱出を図るための手配を進めたが戦禍にあって捗らず、1942年3月に出国査証がポルトガル の領事館から発行されたもののフランス政府によって出国を阻まれ、居場所を失ったヨーゼフはスイス へ密入国した。しかし、1942年 10月9日、スイス当局によって、正式な政治亡命手続きを行ったユダヤ人ではないとして身柄を拘束され、チューリッヒ 郊外のギレンバート収容所(Girenbad )に拘留された。
非業の死
チューリッヒのユダヤ人墓地にある墓碑
抑留後、咽頭炎 でチューリッヒの州立病院に入院し、その後も体調不良を訴えていたが、1942年11月14日にさらなる精密検査は行われることなく強制退院となり、収容所に戻った後、懇意にしていた近所のレストラン『"Waldegg』(直訳:“森の卵”)で体調を訴え、医師を呼んだがその1時間後、午前11時30分に心不全 で死去した。死亡診断書には “1942年11月16日 38歳8ヶ月12日にて死亡 無国籍”と記された。
家族に看取られることのないまま、チューリッヒ 郊外のウンタラーフリーセンベルクにあるユダヤ人墓地 (Jüdischer Friedhof - Unterer Friesenberg) に、収容所の仲間数人に見守られたまま葬られた。生きている間に墓参も叶わなかった母も、そこに共に祭られている。
没後の評価
ヨーゼフの生涯については1958年 にハンス・ライザー主演で伝記映画『歌は世界を駆けめぐる』原題『Ein Lied geht um die Welt 』が制作公開されている。
生誕100年の2004年3月、ベルリン のトレプトウ・ケペニック区役所で記念式典が行われ、ハンス・アイヒェル 財務大臣(当時)は「ヨーゼフ・シュミットの過酷な運命は、自由と人間の尊厳に立ち向かうための警鐘を与える。常に心を開き、人間らしさとその温かさの響きに対して沈黙してはならない。」と述べた。この年、ドイツポストは55セントの記念切手を発行した。ベルリン ・トレプトウ・ケペニックのアドラースホーフにある音楽学校も“ヨーゼフ・シュミット音楽学校”と命名され、2007年6月4日、ヨーゼフが1933年 まで住んでいたベルリンのニュルンベルガー通り68番地に記念碑が埋められた。
1991年 にフライムート・ベルンゲン 博士とルッツ・シュマーデル博士は、ドイツのテューリンゲン州 立タウテンブルク天体観測所でアステロイドベルトにある小惑星 168321を発見し、2007年 夏、スイス のヴィンタートゥール にあるエシェンベルク天体観測所のマルクス・グリーサー 所長によって、小惑星168321にヨーゼフ・シュミットの名を冠した。
ディスコグラフィー
1929年の初録音以来、120作品を超える放送用と商業用録音を行った。しかし、その多くがナチスによって処分され、また戦災によって紛失しているが、HMVやウルトラフォン(1932年にテレフンケンに買収)での録音音源がKoch International 等、様々なレーベルからLP・CD化されている。下記に現在でも比較的入手可能なものを挙げる。
《テレフンケン・レガシー(戦前の遺産)》シリーズ 『伝説のテノール〜ヨーゼフ・シュミット』 発売元:ワーナーミュージック(国内盤と輸入盤あり)
《Josef Schmidt - Sämtliche EMI-Aufnahmen Vol. 1 & 2》 輸入盤 発売元:EMI
《SCHMIDT - A SONG GOES ROUND THE WORLD》 Naxos Music Libraryで音源は上記二点からの引用、ヨゼフ・シュミット - 歌は世界を巡る [ 注 2]
この他に、2010年にはDOCUMENTレーベルから、"Joseph Schmidt - Ein Stern fällt vom Himmel"と題した10枚組のCDセットボックスが発売され、ドイツ語以外での歌唱も収録されている。
脚注
注釈
^ 154cm前後と伝えられており、指揮者 のレオンス・グラスはヤン・ネッカースとのインタビューで143cmくらいだったとも述べている。
^ オンラインで試聴とダウンロードが可能
出典
参考文献
ヴァルター・デ・グリュイター社刊 カール・ヨーゼフ・クッチュ/レオ・リーメンス著:『大声楽家事典(ドイツ語)』
シュヴァイツアーフェアラーク刊 アルフレード・ファスビント著:『ヨーゼフ・シュミット伝記 歌は世界を駆けめぐる〜ある伝説』(日本語版未刊)
外部リンク