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パ=ド=カレー県(パ=ド=カレーけん、Pas-de-Calais)は、フランスのオー=ド=フランス地域圏の県。パ=ド=カレーとは、フランスとイギリスの間に広がるドーバー海峡(フランス側の呼称はカレー海峡、すなわちパ=ド=カレー)に由来している[1]。
県は国内有数の、人口の多い県の一つである。
歴史
パ=ド=カレーは、フランス革命中の1790年3月4日に新設された83県のうちの1つである。県を創設するにあたって、革命政権はアミアン(ブローニュ周辺とポンチューの一部を含む)と、100年早く南ネーデルラントから奪還したアルトワ、カレー周辺を1つにまとめた。
1815年6月にワーテルローの戦いで第七次対仏大同盟が勝利すると、イギリス軍が県を1818年11月まで占領していた。
第一次世界大戦
世界大戦は県にとって特に困難となった。当時およそ100万人が暮らしていたのである。男たちは大部分が徴兵されるか、鉱山で働くかしなければならなかった。人口の一部が逃げるように減った。1918年、『難民の会』や『難民労働組合』は最も影響を受けた土地か、非占領区域に存在し、しばしばベルギー人やフランス人が参加した(ル・ポルテル、ベルク・プラージュなど)[2]。ブローニュ=シュル=メールではŒuvre du placement gratuit des réfugiésが設置された。カレーではパ=ド=カレー難民委員会(comité des réfugiés du Pas-de-Calais)が、ベルギー公式難民救済委員会と共存していた。赤十字や数多くの慈善団体が支援を行った。
その間(1818年春)、解放地域における復旧サービス(service de reconstitution des régions libérées)が、住民の帰還や物資の保護、敵に降伏した人々へのサービスを準備しようとした。交通手段を必要とする機器や消耗品、家具を送る必要があったが、困難であった。
休戦協定が署名された時、おそらく県は最も荒廃した県だった。ランスを含むいくつかのコミューンはそぎ落とされたようになり、鉱石置き場と隣接する定住地は荒廃した。鉱区の最西端はドイツ軍の占領から逃れた。
地理
ノール県とソンム県に接する。およそ100kmの海岸線であるコート・オパールはイギリス海峡と北海との境界であり、イギリスのケント州と向かい合っている。この海岸線はフランスで最も豊かなものの1つである。
パ=ド=カレーの気候は海洋性気候である。温度範囲が狭く、冬は穏やかで、夏は潮風と定期的な降雨によってやわらげられている。比較的大きな、対照的な気候の違いがある。海洋性気候の特徴が内陸より沿岸部のほうが強い。土地の起伏は降雨で平らにされている。年間平均気温は、県全体で約10℃である。
経済
鉱業と繊維産業は県の2大産業であった。しかし今は2つとも停滞している。観光は、特に沿岸部で重要である。カレー港は対岸のドーヴァー港と対峙しており、世界初の旅客港に数えられる。一方、ブローニュ=シュル=メール港はフランス有数の漁港である。20世紀末まで、イギリスとの旅客輸送の重要港であった。
日本のブリヂストンが進出し、1961年からベチューン工場でタイヤの生産を行ってきた。2020年、ブリヂストンは生産拠点の再編を進める中でベチューン工場を閉鎖することを決定。地域はもとより経済相まで非難に加わるなど軋轢を招いた[3]。
人口統計
出身者
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ブローニュ=シュル=メール
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カレー
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オルアン城
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アラス
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ル・トゥーケ=パリ=プラージュの砂丘
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ヴォーバンが建設を指揮したフォール・マオン
脚注
出典